ガラパゴスゾウガメと引籠りのおっさん
私、亀田暢気は、月1回、隣の市にある動物園にガラパゴスゾウガメを見物しに行く事をライフワークとしている。
動物園は平日に行く事を旨としているのだが、平日の動物園は入場者が少なく、閑散、寂寞としていて、何と無く物憂げな気分になるのが心地良いと、私、亀田暢気は所感している。
私、亀田暢気は、俗に言う引籠りと呼ばれる立派な壮年のおっさんで、普段の行住坐臥も亀のようである事を自覚して生活している。
依って、ガラパゴスゾウガメにシンパシーを感じてしまう事は、私に風変りな感性があるとはいえ、或る程度は、必然と言えるのでは無かろうか。
こうした思索に耽りながら、電車と徒歩で動物園に到着すると、私は、何かしらの生存目的の為に奇態な形成へと進化した象や麒麟を睥睨しながら、目的地までゆっくりと歩いて行く。ウォーク・スローリー。
様々なZOOの「愛を下さい」といったオーラを尻目に、入場口から徒歩5分で、私は、目的地のガラパゴスゾウガメの柵まで辿り着く。
そして、見物衆が僅かにいる目的地で、私は身動ぎもせず、130センチ、210キロの巨躯のガラパゴスゾウガメを只管に凝視する。
感服の至りとして、ガラパゴスゾウガメは、無駄な動きをせず身を守る事だけに徹底し、平均寿命100歳、最長152歳という尋常では無い長寿を成立させていて、これは、自然、生命の神秘的な事象だという事に、私は、畏敬の念を抱いているのである。
そして、そのガラパゴスゾウガメの生き方は、私、亀田暢気、その他、俗世間で言う引籠りの人生観に或る程度は共通している、と思うのである。
坂本竜馬や新撰組や赤穂浪士のように、歴史的に意味のある太く短い人生もあれば、細く長く生き延びるだけの無意味な人生もある、唯、それだけである。
但し、ガラパゴスゾウガメに関しては、動物園に於いて希少な生態系として人間を楽しませるという立派な役割を果たしているが、私、亀田暢気は日本に数多く存在する益体も無い穀潰しである。
しかしながら、私、亀田暢気は、障害年金や生活保護を受けている訳でもなく、普段も質素倹約を旨とした金の掛からない生活をしていて、意外と他人から嫌われていないタイプである事は確かであろう。
元々、競争心も狡猾さも少なく、人畜無害でいつもニコニコと笑顔で居て、人に対して威圧感や緊張感を全くと言って良い程、与えないタイプなのである。
それは兎も角、私、亀田暢気は、思索するのである。人から常に見られる立場であるガラパゴスゾウガメの心情とは如何なるものだろうか、と。
自分の意志で動物園の柵の中に居る訳では無く、自分の意志で柵から外に出る訳にも行かず、云わば、ガラパゴス諸島から強制的に拉致され、見世物にされているというのが、ゾウガメの立場から言う現実的な認識であろう。
それは、恐らく動物愛護法の法令が法改正をしない限り、寿命が尽きるまで永遠に続く事になるのであり、そもそも動物園という場所は、動物の強制収容所とも言えるのである。
又、私、亀田暢気がガラパゴスゾウガメを凝視している時、同じように、ガラパゴスゾウガメがこちらを凝視している時がある。しかしながら、無言で目と目で通じ合う、とは言えない静かな状態である。
私のこうした観察行為に全く生産性は無いのだが、ガラパゴスゾウガメは、私、亀田暢気を如何なる存在だと考えて眺めているのだろうか?
私は、唯、生存し、寿命が来たら、死ぬだけの存在である。私という人間は、ガラパゴスゾウガメのように、学術的な存在価値や人々を楽しませる生態が皆無であり、私自身に人生の目的意識なと全く無い。
しかし、私は然程、人に迷惑を掛けて生きている訳では無く、そして、私にしか考え付かないオリジナルな考え方をする時もあるのだろうし、J・S・ミルの「自由論」に倣って言えば、私、亀田暢気の存在価値も、何かしら有ると思われる。
と、いった考え方を世間が認めてくれる程、甘くは無い事は重々承知であるのだが・・・。そして、ガラパゴスゾウガメを身動ぎもせずに凝視して、3時間経過する。
再び、一ヶ月後、私の心からの友人であるガラパゴスゾウガメに会いに来ようと思う。
と、話は、ここで終わりでは無く、ここから先は、ガラパゴスゾウガメの亀田暢気の見物時に於ける思索の一部始終となる。
ガラパゴスゾウガメは、亀田暢気に見られている時、お前は私を見ているけれど、お前自身は動物園の見物客に奇異な目で見られる立場なのだ、と思いながら亀田暢気を見ているのであった。
そして、動物園自体には、監視カメラが到る所に設置してあり、全ての動物と見物客は、最新テクノロジーに依って監視されていて、見物客も監視員から見られる立場であり、云わば、監視カメラに於けるポスト・プライバシーに依って、私のカメライフは成立しているのだ、とガラパゴスゾウガメは考えている。
又、動物園に居る多くの動物には、ICチップが装着されているが、実際の処、スマートフォンを片身離さずに持ち歩く現代人も、畢竟、似たようなものであり、動物園の構図は、人間社会の構図だと敷衍する事も可能である、とガラパゴスゾウガメは思索するのであった。
そして、ガラパゴスゾウガメは、亀田暢気に見られている時、亀田暢気の瞳をじっと凝視しながら、「こいつは、魚の腐ったような瞳をしてやがる」と、心の中で呟き、亀田暢気がどれだけ碌でも無い人生を送って来たのかを推し量るのであった。
(とは言え、亀田暢気よりも遥かに碌でも無い人生を送っているニートや引籠りの人間がごまんと居るのは、ガラパゴスゾウガメも重々、承知の上での推察であった。)
又、亀田暢気の様な人間だけを蔑視している訳でも無く、あらゆる見物客の人間も日々の労働や私生活で疲れ切った生気の無い瞳をしているのを感じていて、結局は、飼育員の給餌係に餌を貰うだけの檻の中に入れられた動物と人間は何の違いも無いのではないか、とガラパゴスゾウガメは所感するのであった。
全ての人間は、社会のルール(暗黙のルールも含めて)の中で生活して、上からの命令に唯々諾々と従い、指示された通りに動き、不自由な檻の中で、経済的な競争の為に生きている。そして、社会から無思考になる事を要求されて、やがて、無思考になり、心の痛みを感じなくなり、想像力が欠如し、精神が麻痺した状態に陥るのである。
要は、その無思考の状態こそが、見物客(人類)の正気の無い瞳として現れているのだが、亀田暢気に関しては、競争社会から降りている筈で、何故、魚の腐ったような瞳をしているのか、というと、そもそも、彼は、現実社会から逃避しているだけの無気力で怠惰な人間なので致し方が無い事だと、ガラパゴスゾウガメは諦観しているのである。
それにしても、無思考、或いは、無想像は、戦争などで指示通りに人を殺す事が出来るようになる、云わば、人間に備わった恐ろしい特性であり、それは、動物的な本能とは異なり、云わば、タナトスと呼ばれる人間としての「死の本能」なのではないか、とガラパゴスゾウガメは、思索しているのである。
そして、亀田暢気のような人間の場合、哲学書や現代思想のような難しい本を読んではいるけれど、それは、現実の社会の痛みから逃避した上で、実社会の経験を伴わない知識だけの思惟をしているだけの話であり、畢竟、一般社会で生活している人間よりも独善的な自己正当化をしている可能性も有る為、逆に、改善する事が難しいかもしれない、とガラパゴスゾウガメは推察するのであった。
しかしながら、思索をする事自体は、亀田暢気にとって単なる趣味では無く、とても重要な事であり、亀田暢気のような人間の場合は、実際の社会的な経験と道徳と行動力が必要な事であり、一般社会で生活している人間の場合は、社会について真剣に深く思索する事と道徳と行動力が必要な事だと、至極、当然の事ながら、ガラパゴスゾウガメは、そう思索するに至るのであった。
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自己評価
2015年以前に練習用として書いた小説(OLD)と比較すると、著しく文章レベルが下がっていて読む度に悄然としてくるが、現在の劣悪な環境や逼迫した状況と、自身の思考能力が低下している状態を鑑みるに、この相当に低レベルの文章でも何とか頑張って書けている方だなぁ、という意外な感慨があります。
又、小説(ショートショート)としての観点からの評価は低くなるにしても、社会的なメッセージとしての観点から考慮するなら、そんなには悪くないと思えるし、後は、感性と思考能力と文学的な表現力といったファキュリティーを、如何にして、元々の自分のレベルに戻す事が出来るか、というのがポイントになってくると思いますね。
(最後に、一つだけ重要事項を記しておくなら、現在の最悪な健康状態やコンディションを考えると、正直な処、クオリティが低く、かなり短い作品であったとしても、完成させる事が出来た事が大きく、それは、至極、些細な充実感かもしれないけれど、何か自分自身のこうした行為が、善意のある国民の希望になれば良い、と思っています。)
(2026/10/18)