少年Aから、そして、青年Aから、壮年Aへと変わる
少年Aは、音楽を聴く事が大好きで、中学生の頃、手に入れたゼロ年代では有り得ない大きさのシステム・コンポで、毎日、何時間もお気に入りのミュージックを聴いていた。
少年Aは、80年代後半から90年代前半のティーンエイジャーだった頃、システム・コンポに表示されるグラフィック・イコライザーのように、激しく感情を動かしながら、ポップスからロックまで、様々なミュージックを聴いていた。
特に、10代前半の頃は、僅かなお小遣いから捻出したCDレンタル代によって、邦楽のポップスからロックを中心に、カセットテープに詰め込んで、貪るように聴き漁っていた。
それは、中学2年生の頃、酷い苛めを受けた少年Aにとって、魑魅魍魎とした社会から現実逃避する為の貴重な時間であり、突然段ボール曰く「もう学校には行かない」と空想してしまう位の最上の時間でも有ったのである。
(因みに、少年Aが、中学生の頃、CDを購入、或いは、レンタルして聴いていた音楽を羅列すると、バービーボーイズ、筋肉少女帯、ザ・ブルーハーツ、ボウイ、コンプレックス、レベッカ、TMネットワーク、渡辺美里、佐野元春、大江千里、ゴーバンズ、バクチク、長淵剛、ハウンド・ドッグ、久保田利伸、森高千里、聖飢魔Ⅱ、YMO、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、U2、スティング、a-ha、その他、となる。)
少年Aは、やがて、青年Aとなり、そして、壮大な人生の紆余曲折を経て、今、壮年Aとなっている。
壮年Aは、今、昔を懐かしがるように、中学生の頃、レンタルしてきたJ-POPを聴いているが、少年A、青年A、壮年Aと其々の時代によって、音楽に対する感性や感慨が異なっているし、今となっては、音楽に対する知識も相当に増えて耳も肥えているのだが、しかし、意外と音楽の聴こえ方としては、当時の想い出が蘇るという事もあって、大体は、過去と同様な感覚になっているらしい。
無論、壮年となった今、昔、聴いていたJ-POPや古い歌謡曲の方が、静謐で肌に合う感覚になっているのは、何の変哲も無い事であり、壮年Aも今となっては、最新の音楽に全く興味を持てなくなっている、というのが実情であろう。
しかしながら、遺憾な事に、壮年Aは著しく数奇な運命に依って、今となっては、J-POPのラヴソング等に心を動かさせる事は、難儀な事になっていて、それは、人類という共同体が為す負の感情の連鎖と、その作用の営みによる悪しき結果の一つと言えるのである。
それでも、壮年Aが、巷間に悲憤慷慨しながらも、過去の音楽に心を動かされる刹那が、僅かながら、無い事は無く、有る事は、些少ながら有ると、言及しておきたいと思う。
さて、壮年Aは、コギト-エルゴ-スムである。
もし、人間の脳と思考回路に、カントの云わんとする道徳律に近い形式での標準(スタンダード)があるとしたら、児童虐待、レイプ犯、殺人犯は勿論の事、度合いにも依るが、此処彼処にある小規模の苛めや差別に対しても、脳や思考回路の異常と捉える事は可能である。
それは、究竟、何処から何処までを、標準や基準とするかに依るものでありながら、世界の状況次第では、人間の集団心理が標準や基準を大きく変えてしまうリスクもあり、その為に人類は、神や宗教に帰依する事を不可欠とするのではないか、と壮年Aは考えるのである。(「あらゆる宗教は道徳をその前提とする」とは、カントの言葉である。)
人類は、今も尚、彼方此方で、戦争やその他の悪徳行為を続けており、それは、有るべき道徳律の標準から逸脱した異常なのは言うまでもなく、では、何故、どういう因果関係によって異常が生じ、その源流は一体、何処にあるのか、という謎が壮年Aに対して生じてくる。
そして、それは、哲学や現代思想を以て、社会学者がいくら語り尽くそうとも、動かし難い不可抗力が生じていて、壮年Aにとっては、厭世観と無力感に襲われる結果にしかならないのである。
再び、壮年Aは、外部からに依って、劣悪にされている思考のコンディションの中で、コギト-エルゴ-スムである。
壮年Aは、数日前に、庭に咲く百日草の花のすぐ下に待ち構えている茎の色と同化したカマキリを発見した後、放置プレイをしている。
そして、30分後、壮年Aは、再び家の庭に咲く百日草を見に行くと、其処には、花に止まったキアゲハを捕獲し、齧り付くカマキリの姿があった。(その時、壮年Aは、がっぺムカつく、と激昂している。)
壮年Aは、其れを見たくない有るまじき光景として、カマキリを枝で捕まえた後、近くの草むらに放り投げてしまっている。
しかし、そのカマキリの行為は、自然の摂理であり、壮年Aのそうした行為も、又、自然の摂理なのである。
そして、一概には言えないのだが、そのカマキリが存在する事の無くなった綺麗な花の咲く庭が、多くのJ-POPの世界観であり、カマキリがキアゲハを喰らう姿をクローズ・アップしたのが、アート・ロックとしてのリアリズムな世界観であり、根本的な自然の摂理とは何ぞや・・・、と壮年Aは思うのである。
壮年Aは、今までの人生を想起する時間に関して、無い事は無く、有る事は有って、コギト-エルゴ-スムである。
かつて、少年AがJ-POPを聴く事は、貴重な現実逃避の時間であり、かつて、青年AがJ-POPを聴く事は、現実の恋愛と与した後、自分自身と向き合う時間、との次第になる訳である。
そして、壮年AがJ-POPを聴く事は、単に懐メロとして心を些少に動かされて聴く事だけではなく、世界の情勢と人類の思考形態と自然の摂理について考える事に繋がっている、と言うならば、大仰で突飛だと思われるかもしれないが、決して、そうとも言えないのである。
我々、人類の思考形態は、幾ら有るべきとされる標準から外れていようとも、都合良く解釈するように出来ているし、人類の正義とは、自然の摂理と反しながらも、時に、反しないものでもあり、人類が正義や道徳律を真に貫く為には、並々ならぬ闘争の歴史を必要とするものなのである。
壮年Aは、自然の摂理について、コギト-エルゴ-スムである。
例えば、砂漠にラスベガスが造られるといった事や、テーブルの上にピーナッツが置かれている蓋然性についても、自然の摂理と捉える事が可能である。
又、犬や猫は愛玩動物でありながら、犬に関して言うならば、東南アジア(ベトナムなど)では、家畜であり、食糧でもあり、それは、自然の摂理である。
では、20世紀以前の黒人奴隷に関しては、如何だろうか? 奴隷制度に関しては紀元前も同様であり、これは、人類の悪しき自然の摂理と言えるだろう。
そして、現在の世界の状況に関して、人類の起源から始まり、今も尚、支配者が多くの人民を支配するという構図は、自然の摂理としての支配欲求を伴い、高度に発展したテクノロジーと支配体系を以て、実現しているのである。
ナチス・ドイツが、何百万人を処刑する事を可能にした血の大河の源流は何処にあるのか、その血の一滴について、壮年Aは、考えるのである。
壮年Aは、世界のメタファーとして、能力を著しく劣化させられたピカソが、抽象画を描く事が出来なくなったにも拘わらず、何とかしてゲルニカを描こうとする姿を想起している。
そして、壮年Aにとって、ティーンエイジャーの頃、聴いていたJ-POPは、今、世界の俯瞰図として機能しているのである。
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後書き
私は、東海中学校2年生の3学期の頃、父親にDENON製の9万円位で廉価販売されているシステム・コンポを購入して貰っていたけれど、その事を誰にも話しませんでした。
カルロス・トシキが首相だった中学3年生の頃は、CDラジカセを持っているだけでも充分にリッチすぎる位で、クラスの中でシステム・コンポを所持している人は、恐らく2~3人、居るかどうか分からないといった御時世でもあり、私は、嫉妬心により何かしらの苛めに遭うのが怖くて、誰にも話さなかったのだと思います。
因みに、クラスメートのM君は、ラジカセでAMラジオの茨城放送をエアチェックして、掛かった曲をカセットテープにダビングしている、といった感じで、今から思うに、ローテクを感じさせる微笑ましい時代でした。
(中学3年生の頃、クラスメートのK君とカセットテープの貸し借りをした時に、「何でこんなに音が良いの?」と吃驚された事があったけれど、CDラジカセとシステム・コンポでは、録音したカセットテープに音質の違いが出る訳で、今の若い世代にとって、そういった感覚を想像するのは難しい事だと思いますね(まぁ、おっさんネタなんだけどね)。)
そして、私の父親は、私に対して何かを買い与える事は、そう滅多に有る事では無く、何故、システム・コンポを買い与えるという行為に及んだのかと言うと、恐らく、私の家に学校の先生が、私が苛めに遭っている、という事実を電話で連絡したのだと推察しています。
中学2年生の3学期の頃、担任の先生では無いのですが、優しい先生が居て、私が苛めに遭っている事を察知して、私を職員室に呼び出して、苛めに遭っている事を問い質して、その後、クラスの全員に、クラス替えで同じクラスになりたい人となりたくない人を用紙に書かせて、それで、私は中学3年生の頃は、平穏な編成のクラスになった、という次第になります。
(私が中学校2年生の時のクラス編成は、ヤンキーが集団化したクラスで、誰もがこれは酷いと思うレベルでしたが、中学3年生の頃は、大人しくて性格が明るい人が多いクラス編成になった訳で、それでも、そのクラスで酷い苛めのターゲットにされてしまう人間も存在していて、これは、運命(客観的な立場で、苛めについて知る事)でもあるし、自然の摂理でもある、と私は考えています。)
そして、これは、絶対に記しておかなくてはいけない事だと思うのですが、もし、私の受けている苛めに気付いて対処してくれる先生が居なくて、その後、クラスの編成が上手くいかなければ、私は、自殺していた可能性があり、その先生は、私の命の恩人でもあり、これは、全ての人に言える事ですが、助けてくれる人が存在しなければ、その人は助からない、という事を考えて欲しいのです。
私は、何が何でも最後まで頑張る負けず嫌いな性格をしていて、そう簡単に登校拒否になったりする事も無く(無論、誰も簡単に登校拒否などは出来ないけれど)、或る日、突然、気持ちが切れて自殺してしまうタイプでは無いのかと思っているし、そして、仮に自殺していなかったとしても、心が完全に壊れて酷い人格異常者になっていた可能性も絶対に無いとは言えない、と思うのです。
話は少し変わりますが、私は、昔から疑問に思う処があって、クラスで一番、可愛い女性が苛めのターゲットにされて、自殺してしまうというケースが意外と少なくない、という事実があり、私が住んでいる茨城県でも、過去にそういう事件がありました。
タレントの中川翔子の中学生時代の苛めに関して言うならば、親が芸能人で、子供も美貌に恵まれていて、間違い無く周囲の嫉妬の感情による苛めだと思うけれど、こういったタイプの苛めは、自然淘汰の原則に反しているけれど、「利己的な遺伝子」としての自己保存の原則としては該当していて、自然の摂理というのは、必ずしも合理的とは言えない処がある、と私は思うのです。
そして、今の私に行われている事に関して言うならば、支配者側の思惑として、集団心理としての嫉妬の感情の作用が計算されている訳で、一方、私の方でも、今となっては、集団心理の差別感情と嫉妬の感情を見越して、私の全ての行動と表現は、成立しているという訳です。
過去(2010年)の例で言うならば、エレキングのライターの連中は、人を評価する事に関してプロフェッショナルである訳で、そういう連中が、私の事を評価するならば、社会全体的に「只者では無い!」という雰囲気になるのも必然であり、そういった集団心理の嫉妬の感情の作用を計算した、支配者側の出来レースでもあった訳です。(それ以前に、国民は、計り知れない大規模の権力が陰で動いている事に、現時点でも相当に戦慄している、という前提が有りますけどね。)
しかしながら、その頃の私は、エレキングの示唆した文章に従う事を余儀無くされた訳で、その為に、私は、ネット上で何の表現も出来なくされた上に、行動も著しく制限されて危害を加えられた訳で、それは、そもそも、支配者側が、国民全体をマインド・コントロールして支配する為の綿密に計算された壮大な策略であり、それは、2015年以降から、特に顕著になり、自他共に私生活にも相当な制限と影響が出て、今も尚、支配者側の危害は継続している、という事なのです。
そして、マスコミ自体も、私が関与する範囲内で、支配者側の思惑で動かされていて、朝日新聞に関しても、天声人語や折々のことば等で、私を貶めて国民の差別感情を引き出す狙いだけでは無く、敢えて私の存在や文章を評価するような事を書いて、国民の嫉妬の感情を引き出す狙いもある訳で、支配者側からマインド・コントロールされている国民の様々な感情を見越して、私の全ての行動と表現が成立しているという事を、改めて記しておきます。
(因みに、本来、条件さえ整えば措辞を尽くした質の高い文章を、私は書ける筈であり、支配者側は、妨害する事に依り、私を遣る瀬無い感情にさせる狙いもある訳で、まぁ、全ては、策略と因果律の問題だと思います。)
要は、何が言いたいかと言うと、支配者側が国民全体をマインド・コントロールして支配する為の策略として、集団心理としての差別の感情や嫉妬の感情は、重要なファクターとして計算されている訳で、正義の国民は、そういった狡猾な策略を見抜いた上で、更にそれを上回る賢い策略と不屈の正義の闘志で、支配者側と戦わなくてはいけない、という事が言いたい訳です。
そして、そういった事を鑑みた上で、意図を分かり易くする為に、私は、敢えて、説明過多の後書きを記しているという次第になります。
畢竟、要約するならば、外部の人間の危害により、私が思考のコンディションを著しく下げられて、クオリティの低い文章を書いたり、表現自体(正義の表現)が上手く行かなくなる事に関しては、国民全体の差別の感情や嫉妬の感情をコントロールする支配者側の狙いがあっての事で、それは、究竟、国民全体の正義のモチベーションを下げる事に繋がる策略である、という事になる訳です。
そして、上記の事は、支配者側が仕掛けた罠(トラップ)なのは、「間違い無い!」という事を、常に国民が肝に銘じておく必要がある訳で、こういった事を全てに応用して、支配者側は全ての国民をマインド・コントロールしていくと予測可能であり、支配者側は、恐怖政治によって全ての国民をコントロールするだけでなく、巧妙で狡猾なマインド・コントロールを行ってくる事も、国民は常に留意しておく必要がある、という訳です。
まぁ、それは兎も角、仮に、この文章を何の予備知識も無く読んでいて、尚且つ、深入りしたくないと思っている人の為に言うならば、取り敢えず、私の事は、壮年Aではなく、M78星雲から来た、宇宙人A、乃至、ウルトラマンA、という存在にしておいて、OK牧場です、取り敢えず。
最後に、後書きが長文になってしまった上、上記のエッセイは、本来の自分が書く文章では無い駄文だと思いますが、それでも、最後まで読んでくれた人の思想に何かしら訴えるものがあり、社会に良い影響を与えてくれる事を願っています。
(2026/9/27)