ポストプライバシー(阪本俊生)
青弓社ライブラリー55
青弓社

引用


このように個人の生活圏ではなく、情報システムを保護することへと移行してきたプライバシーを、従来のプライバシーのあとのプライバシー、すなわちポスト・プライバシーと呼ぶことにする。
このような変化は、個人の自己を保守するものの変化としてとらえることができる。
かつては個人の自己を守ることは、その人の私生活を守ることだった。
しかし、いまや私生活の保護だけでは個人の自己を守れない。
個人は自らの私生活を守る以上に、自らの個人情報を守ってもらわなければならなくなりつつある。

プライバシーのなかには、オートノミーという考え方がある。
言葉そのものは自律といった意味で、日本では自決権や自己決定権と呼ばれてきたものだが、個人は自らの私生活では、他人に迷惑をかけたり傷つけたりするのではない限り、政府や社会から干渉されず自由でいられるべきだという権利を意味する。

オートノミーとは、政府や社会が個人の私的領域に干渉することをどこまで認めるか、という境界線の問題である。
このような境界線は、政治体制や文化、あるいは人々の考え方や社会意識によっても変わってくる。

しかし、近代ほど内面の人格的な質が重要な意味を持ち、個人の社会的位置づけや評価に大きな影響力を持って作用したことはなかっただろう。
個人の内面が、社会的重要性を持ってその社会的自己と結び付けられるようになるとき、内面のプライバシーが求められるようになったのである。
プライバシー意識が、内面を中心として形成されてきたのは、この時代の個人の自己の解釈様式に対応しているからだ。
つまり、個人を知る鍵はその内面こそにある。たしかに自己の所在が内面であるとされているあいだは、プライバシーもまた、そこが拠点になるだろう。
社会的自己の本質が、個人のうちにあると想定されているような社会文化圏では、プライバシーのための防壁は、私生活領域、親密な人間関係、身体、心などといった、個人それ自体の周囲をとりまくようにして形づくられる。
つまり、個人の内面を中心にして、同心円状に広がるプライバシーは、人間の自己の核心は内面にあるとする文化的イメージ、そしてこのイメージにあわせて形成される社会システムに対応したものである。

個人にとっての秘密や経験は各自の心のなかにある、というのがかつての常識である。
だがプライバシーの重心の変化は、個人の社会的な自己が、個人の内面からデータベースやそれを含む情報システムに移行しつつあることを示している。
それはしばしば、個人自身が知らないところで、個人の心や内面とは関係なく、それを意識することさえなくつくられていく。
つまり、いま起こっていることとは、かつては内面にあるとされていた社会的な自己の、個人情報とデータへの移し替えである。
心や内面など考えなくとも、その個人を知ることはできる。趣味や好みは、その個人の過去の行動や消費傾向から読み取れる。
その信用度も、もはや心や人間性の問題ではなく、過去のデータが担保するのである。
人々が、こうした流れに抵抗する兆しはないし、また抵抗すべきはっきりとした理由も見つからない。
内面から個人情報への転換は、人々によって受容されるとともにその用途を広げ、影響力を強めつつある。
かつては各個人の自己が何者であるかを読み取ったり評価するためには、その内面を見なければならないと考えられてきた。
だが情報化が進んだ社会では、もはやそんな必要はない。自己は、内面を離れ、多様なデータベースに分散的に保管されている。
個人の内面を経由して解釈されていた自己は、今度はデータベースを経由して解釈されるようになる。
したがって必要なデータベースにアクセスしさえすれば、その個人を知ることができるようになっているのである。
今日の社会では、どの組織や機関、個人も、他人の全人格に関心があることなどなくなりつつある。
自分たちにとって必要な側面さえわかれば、それぞれの目的にとって十分なのだ。

パノプティコンは、社会規律に内面から従うよう自己コントロールする主体をつくりだす、いわば近代の社会統制装置の象徴としてフーコーはとらえた。
パノプティコンはさまざまな近代の社会装置のモデルでもある。
監獄に限らず、同様の主体化は幅広い分野で実践されるようになる。
すなわち学校、工場、病院、その他の更正施設といった近代特有の施設は、いずれも自発的な規律訓練が実践されるためのものである。
近代の個人は、こうしたさまざまな社会装置を通じて主体化されることで統制・管理されてきたというのがフーコーの見方だった。
つまり教育や矯正とは、自己監視の意識を各個人の内面に埋め込むことにほかならず、それによって主体化された個人は内面化した監視のまなざしのもとで自己をコントロールし、統一されたパーソナリティとアイデンティティをもった主体となる。
個人が統一的に振る舞っているということは、個人が近代の主体なる証しなのである。

だが、このように社会から自律した自己の保護は、予想外の事態へと発展することもある。
また自己を保護する親密さが社会から切り離され、大きな自律性を得てしまうとき、しばしばおぞましい行為がおこなわれるようになる。
そこからは剥き出しの感情や人間性、暴力や残忍さ、強欲や冷酷さが噴出してくることもあるからだ。
そのために親密さや私的領域の自律性への否定的態度が生まれ、親密さの関係の否定から極度の個人化へと向かうことになる。
ところが個人化は、問題解決とならない。それは自律を解消するよりもさらに深める。

プライバシーは、つきつめれば個人の尊厳の問題だとされてきた。だが個人の尊厳といっても抽象的で漠然としている。
魚たちが水の存在を意識できないのと同じように、あって当たり前とされていることには意識が及ばない。
個人の尊厳といったものもそのような性格のものかもしれない。
もしそうであるなら、あえてそれを意識する方法の一つは、それを失った状態を考えることである。
そのときはじめて私たちは、それが何であったのかに気づくだろう。
大災害にあったとき、避難所生活が長引くと人々はプライバシーの欠如からくる精神的苦痛やストレスに悩まされるといわれる。
長期にわたる、互いの仕切りのない生活の大変さは、私たちにプライバシーの必要性と尊厳の意味を考えさせる。
かつてゴフマンが研究した完全管理型の精神病棟からは、さらに徹底したプライバシーの喪失を見ることができる。

アサイラムでは、人々の自己は施設によって管理され、社会(=社会状況)に対して操作的立場にたつことができないという点では、究極的かつ象徴的な場所といえる。
被収容者たちはたえず観察、記録され続けている。
そして、収集された情報に基づいて、彼らの行動は評価・分析され、管理される。
自己をつくり、規定するのは彼ら自身ではなくそれぞれのデータに基づいてなされる。
これは主体化というよりは、客体化によって構成される自己である。

だがジョンソンによれば、その分析は「コンピュータテクノロジーによって可能になった情報収集全体について何が懸念されるのかということには十分たどりついていない」。
すなわち「人間関係のコントロールを失うことにより、人間関係の多様性に力点を置いたことによって(略)的をはずしてしまっている」というのである。
つまり、情報のコントロールが重要なのは、それが人間関係のコントロールに結び付くからだ。
逆に、「情報のコントロールを失えば、あなたはどのような人々とどのような人間関係を持つかを決定し影響を与える能力を失うことになる」と彼はいう。

(2010~2014年頃、執筆)