ブラック・マシン・ミュージック
野田努

引用


もし、どんな理由にせよ、その社会の枠外にはずれたなら、つまはじきである。
いかなる少数派集団であろうと、徒党を組んだとたんに多数派になる。
ポップ-それ自体が疎外された産業である-は、夢見る人や、すべての階級からはじき出された人々の多くが、変身するために出会う場所である。
もしそれが世界と違っていても、自分たちの世界であればいいのだ。
ジョン・サヴェージ

逃避主義の問題はそれ自体ではない。逃避が終わったあとになにが残るのかということが問題なのだ。

サイモン・フリスが言うように、ディスコが「新たな絶望をともなった娯楽」であるのなら、しかしそれでもいいのはないか。
そもそもこの文化は絶望的状況から発したものなのだ。
自分たちにとっての自然である状態が異常と見なされる世界に絶望しないゲイなどいるのだろうか。
たとえそれが消費の快楽であり刹那的なものだとしても、この世には刹那的な美しさというものもあり、その一瞬の快楽のなかに人生のすべてを賭けることもあり得る。
そして、その刹那性は、ダンス・ミュージックと呼ばれる音楽を確実に磨いてきた。
痛みから徹底的に遠ざかろうとするこの音楽は、長い年月の中でいくつもの煌めいた瞬間を生み出し、多様な音楽性を獲得してきた。

ジョンソンが旅をしながら見つけたことは主として次のことであった・・・
「・・・人生は本質的にごまかしであり、それを取り巻く状況は敗北的なものである」という意識、そしてその埋め合わせをしてくれるものは”幸福と快楽”ではなく、苦痛から生じるもっと奥深い満足だ。
グリール・マーカス「ミステリー・トレイン」
ジョンソンとはもちろん戦前のブルース歌手のロバート・ジョンソンのことだ。
グリール・マーカスはそして「ブルース奏者の価値は自分の人生を、自分には部分的にしか責任のない人生を、甘受する点にある」と言う。
そう、それを甘受するのはジョンソンの「深みのある心」からなのだ。
それをディープと形容するなら、これこそがディープと呼ぶべきだろうし、”Can You Feel It”がもしディープ・ハウスの先駆と呼ぶのであるのなら、おそらく、いや、確実にその次元においてディープなのだ。
これはブルースと同じように、世界対個人の物語なのだ。

反逆するにはこの世界はあまりにも大きくて、複雑だ。
が、だからといって世界に服従できない者は、心の奥深いところで感じることを感じ、そのフィーリングを頼りに歩いていくしかない。

ブラック・デトロイトは一九四三年の暴動のことや、自分たちが受けてきた警察からの嫌がらせの数々を決して忘れはしなかった。
彼らは白人たちに仕返しをするチャンスを長いあいだ待っていた。

「わかるだろ? 何故おれたちが音楽を作っているのかが」そしてデリック・メイは言った。
「前を見る以外、おれたちにほかに何が残されていたというんだい?」

ジョン・サヴェージが言うように、「もしきみがブラック・コンセプトやブラック・フューチャリズムがなんたるかを知りたければ、七〇年代半ばのパーラメントとファンカデリックを聴けばよい」のだ。
そこにはデトロイト・テクノがニューヨークやシカゴが好んだフィリー・ソウルを敢えて拒み、何故クラフトワークを選んだのかその理由さえも隠されている。

家に帰ってファンカデリックやパーラメント、ブーツィー・ラバーズ・バンドを聴いた。
おれたちはそれをエンターテイメントとは受け止めなかった。哲学として聴いたんだ。
デリック・メイ

「わたしたちは断固としてあなたたちのリアリティを嫌悪する」と。
サン・ラの世界認識は、「この世界は間違っている」などというものではない。
「こんなに悪に満ちた世界とは何かの間違いであり、実はすでにこの世界は存在していないのだ」というものだ。

彼はかつて「わたしはアメリカに属することなく、ブラック・ピープルにも属さない」とも言っているが、そのことを想えば宇宙とは居場所を失った者たちの居場所とも言えるだろう。
いずれにしてもサン・ラはもはや自分が地球人であることを捨て去ったのだ。

要するに、新大陸でのアフリカ人は最初から門外漢、つまりエイリアンだった。
こうした世界に対する”絶望”を相対化し、そして実にユーモラスに、しかも前向きなエネルギーに転化させたのがジョージ・クリントンだった。

世界は使用無料の便所
リアリティは揚げたてのアイスクリーム
ファンカデリック

サン・ラの宇宙船は限られた人しか乗れなかったが、Pファンクのマザーシップは来る者を拒まなかった。
ジョージ・クリントンはスター・チャイルドを名乗り、「一緒に宇宙旅行に出かけよう」と陽気に誘った。

わたしは宇宙の心でうじ虫を味わった。
わたしは気分を害さなかった。
ファンカデリック”Maggot Brain”

混乱している すべてに混乱している
あらゆることに混乱している
自分がどんな感じかなんて知らないし、理解もしていない
自分を感じることができない
ファンカデリック”Free Your Mind and Your Ass Will Follow”

一秒たりとも夢を見るな 眠ったら見てしまう
目を覚ませ
ファンカデリック”Wake Up”

クリントンはファンカデリックの初期を振り返り「六〇年代が終わったことを告げたかったんだ」と語っているが、一九七〇年の”Wake Up”で聴ける「一秒たりとも夢を見るな」というメッセージは、たしかに六〇年代の楽天主義に対する決別のようでもあり、そしてここにはとても混乱している人間とは思えないはっきりとした意思表示のようなものがある。

おれたちは過去の過ちから学ばなければならない
国も街も金のためにおれたちを裏切った
やつらは変えようとする
でもおれの怒りと飢えは国が変わることに異議を持ち出す
ファンカデリック”Everybody is Going too Make it this Time”

ジョージ・クリントンは一九九六年九月号の「ワイヤー」誌で、Pファンクが戦うべく相手を”ソーシャル・エンジニアリング”(社会的操作)という言葉を使って説明している。

また、デリック・メイは”Strings of Life”に関してこんなことも言っている。
「ときどき自分の祖父や母や自分の幼少期のことを思い出す。”Strings”はマーティン・ルーサー・キングのことだ。
彼が殺されたとき、希望や夢も破壊された。これはかなえられなかった彼の希望なんだ」

マイク・バンクスは自分たちが戦うべく相手をプログラマーと呼ぶ。
URの究極の目的はプログラマーを粉砕することである。
プログラマーとは、ジョージ・クリントンの言うところの”ソーシャル・エンジニアリング”だ。
バンクスはそれを「人々の心をかき乱すものだ」と言い、「レジスタンスとはプログラミングされた心を解放することであり、それを仕組んだプログラマーたちに対する闘争なんだ」と言う。
バンクスはURとは「プログラマーとの永遠の戦いである」と定義する。

バンクスは彼のSF趣味に関してこう説明している。
「作品の中にSF的な表現を使うのは、それによって重要なことを知ることができるからだ。
サミュエル・R・ディレイニーが言うように、”サイエンス・フィクションには現実が隠されている”んだ」

これは政府に対する革命ではない。無関心に対する革命なのだ。
カール・クレイグ

おれは未来に立ち尽くす過去の声
おまえを永遠にびびらせるために
おれたちに舐めた真似をしないほうがいい
何故なら、おれたちはもはや手を抜かない
サバーバン・ナイト ”Maroon”

ジェームズ・ペニントンは”Maroon”について次のように言う。
「黒人の暗い過去は今でもぼくたちの肌に染みついている。ゴースト・ウォーリアーズと呼ぶんだけど、彼らの声は今でも聴こえる。
白人社会に喧嘩を売っているわけではないんだ。何故なら奴隷制を築いたひとたちは今はもういないからね。
だけど、虐げられているひとは今でもいるし、虐げるひとも今でもいる。
奴隷制は廃止されたけど、世の中は今でも理不尽なことが幅を利かせている。
だからぼくは、奴隷になることを拒絶したマルーンを引用した。権力に歯向かった彼らの意志を継承したいんだ。
闘いはまだ終わっていないし、ぼくたちはこの闘いを決して諦めない」

URが訴えるプログラマーとの永遠の戦いは、世界を見えなくしているシステムとの戦いでもある。

見るものすべてが現実ではないかもしれない
読むものすべてが真実ではないかもしれない
聴くものすべてがそこにはないかもしれない
あなた自身のソウルを見つめろ
あなた自身の心臓に耳を傾けよ
すべてが蜃気楼となり消えていくかもしれない
チャック・ギブソン”Mirage”

「どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的にただしい。
ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである」
いまからおよそ30年ほど昔に平岡正明は彼の「ジャズ宣言」という本の巻頭をこんな言葉からはじめている。
そして、平岡正明はこう書く。
「われわれは感情をこころの毒液にひたしながらこっそり飼い育てねばならない。
身もこころも智恵も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな」
ジャズのことはたいして知らないけれど、ぼくはこの言葉が好きで、これを読んだとき、これはまったくデトロイト・テクノだと思ったものだった。
この言葉が現在のジャズに当てはまるのかどうかは判断しかねるが、少なくとも例えばURからはこの言葉は聴こえる。
「感情だけはやつらに渡すな」ぼくは日常的にジャズを聴かないが、この言葉はぼくがこの10年間聴いてきたブラック・ミュージックにまったく当てはまる。

(2010~2014年頃、執筆)