アンチ・オイディプス -資本主義と分裂症-
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ
河出書房新社
以下、引用。
オイディプス・コンプレックスは、欲望に対しては、人物を区別して両親を欲望の対象とすることを強制するとともに、同時にこれと相関して<私>に対しては、これらの人物によって自分の欲望を満足させることを禁ずるのである。
ここではいずれにおいても区別を要求しながら、じつは未分化の驚異をふりかざしているのである。
この新しい秩序とは何か。器官なき身体の上に最初に分配されるものは、種々の人間(民族)と文化、そしてそれらの神々である。
奇妙な英米文学。トマス・ハーディ、ロレンスからローリーへ。ミラーからギンズバーグやケルアックへ。
出発して出てゆき、コードを混乱させ、流れを通過させて、器官なき身体の荒地を横断することを知っている人々の群れ。
かれらは境界線を越え、壁をうがち、資本主義の棚を粉砕する。もとより、かれらは<過程>の完成には失敗する。そして失敗しつづける。
神経症の袋小路は再び閉じられる。
文学の問題が、文学のもっているイデオロギーや、社会秩序による文学の回収といった点から提起されるなどということは、なんと貧しい問題の立て方であることか。人々は回収されるが、作品は回収されはしない。
作品は眠れる若者をたえず起こしにやってくるであろうし、作品の炎をさらに高くかかげることをやめはしない。
イデオロギーに関して語るならば、それは最も混乱した観念である。
何故なら、文学は、全く分裂症のようなものであるからである。つまり、<過程>であって目標ではなく、生産であって表現ではないからである。
文学を<既成秩序に適応した消費対象>に還元し、<何ぴとにも害を及ぼすことのないもの>にしてしまおうとすると、ここでは再びオイディプス化が最も重要な因子の一つとして取り上げられてくることになる。
あたかも、経済は、供給と需要との関係に従って、常に外から通貨が吹き込まれなければならないものであるかのように、いくたりかの資本主義的経済学者たちは、経済をたえず「貨幣化」さるべきものとして提示しているが、このことはある意味においては誤りではない。
何故なら、まさにこのようにして、全体系は保持されて機能を果たし、たえず自分自身の内部を充実させるからである。
マルクスは、こう語っていた。ルターの功績は、宗教の本質を、対象の側からではなくて、内面的な宗教感情として規定したことである。
アダム・スミスとリカードの功績は、富の本質や本性を、対象的な本性としてではなくて、脱土地化した抽象的な主観的本質として、つまり生産活動一般として規定したことである、と。
ところが、この規定は資本主義の諸条件の中においてなされているので、この場合のスミスとリカードは、生産諸手段の私有財産という形態のもとに、あらためてこの主観的な本質を対象化し疎外して再土地化してしまっている。
したがって、資本主義は、たしかに、一切の社会に対して普遍的なるものであるが、しかし、それは、ただ、資本主義がある点まで自分自身の批判をなすことができる限りにおいて、そうであるにすぎない。
資本主義自身の自己批判とは、資本主義そのものの中で解放され自由に現れようとしていたものを、資本主義自身が再び鎖でつなぎとめる種々の手法を批判することである。
カフカの「流刑地にて」にでてくるあの機械は、たんに技術機械であるばかりではなくて社会機械でもあり、また欲望に欲望自身の抑制を欲望させるような機械であるが、この作品の中の士官が指摘していることは、こうした機械への強力なる強度的リビドー備給といったものがいかなるものでありうるのか、ということである。
資本主義機械においては、あの大きな突然変異する流れが、占有もせず占有もされず、資本の充実身体の上を流れて、ひとつの不条理な権力を形成しているが、われわれは、この資本主義機械が、いかにしてこうした大きな流れによってかこまれた内在体系を構成しているのかということをみてきた。
給料収入や企業収入といったものは、種々の目標や利害範囲、種々の採取、離脱、取り分を規定するものであるが、いまふれた大きな流れがこれらの収入(給料収入であれ、企業収入であれ)に変換される限りにおいて、それぞれの各人は、自分の階級においてまた自分個人において右の不条理な権力から何かを受けとることになるのである。
でなければ、各人はこの権力から排除されているというわけなのである。
ところが、流れそのものとその公理系との備給は、もとよりポリティカル経済学の正確なる認識を何ら必要とするものではない。
こうした備給は、むしろ無意識的リビドーの仕事である。このリビドーは、種々の目標によって予め前提とされているものなのである。
最も不利益を受けている人々や最も排除されている人々が、自分たちを圧制する体系を情熱をこめて備給しているといったことが、よく見られる。
そして、かれらは、この体系に常に利益を見出してしるのだ。何故なら、かれらは、そこにおいて利益を求め利益を測定しているからである。
利益はいつも後から来るというわけなのである。反生産は、この体系の中に伝播(流出)している。
ひとは、反生産を反生産のために愛するのであろう。これは、まさに資本主義の大きな集合の中で、欲望が自分自身を抑制するのと同じ流儀である。
たんに他人に対してだけではなくて、自分自身において欲望を抑制すること。他人たちと自分自身とを見張るデカであること。
これこそが、ひとを結束させる仕方なのである。これはイデオロギーの事柄ではない。経済の事柄である。
(2010~2014年頃、執筆)