アーキテクチャの生態系
-情報環境はいかに設計されてきたか
濱野智史 著
NTT出版

引用


ここ数年は、ブログやユーチューブのことを、「CGM」(Consumer Generated Media = 消費者生成メディア)や「UGC」(User Generated Contents = ユーザー生成コンテンツ)などと総称している。
要するに「プロフェッショナル」が作るメディアやコンテンツではなく、これまでそれを消費し、使うだけの存在だった「一般利用者」(アマチュア)の側が、ネットを通じてコンテンツを発信していくようになった。
この事実認識を言葉にしたのが、CGMやUGCという呼び名です。

これに対して本書では、ブログやSNSといったウェブサービス群のことを、「グループウェア」を元につくられた造語、「ソーシャルウェア」という言葉で区別して呼んでおきます。
グループウェアというのは、ある特定のグループが共同で(そして協働するために)用いるソフトウェアを指したものですが、ソーシャルウェアというのは、その利用者の規模が「社会」にまで拡大したことを表しています。

アーキテクチャという用語-米国の憲法学者ローレンス・レッシグが「CODE」(2001年)のなかで論じたもの。
アーキテクチャという概念-規範、法律、市場に並ぶ、人の行動や社会秩序を規制するための方法。
この概念は、東浩紀氏によって、「環境管理型権力」と概念化されている。

「アーキテクチャ/環境管理型権力」という概念の要点。
(1)任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。
(2)その規制(者)の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能。

アーキテクチャにせよ、環境管理型権力にせよ、それらは「人に何かを強制的に従わせるもの」という概念規定がなされています。
すると不思議なもので、人は「権力」という言葉を聞くと、それに抵抗しなければならないと考えてしまう。
それは何か私たちの自由や主体性(自由意志)を奪ってしまっているような気がしてしまう。
これを「権力バイアス」あるいは「権力と自由のゼロサム理論」と呼んでみてもいいのかもしれません。
本書は、少しでもそこから自由になって考えてみたい-少なくとも、何か「悪い人」たちがそのアーキテクチャによるとんでもない支配の方法に着手するよりも前に、自由にその議論を展開し、多様なアーキテクチャのあり方について知っておくにこしたことはない。
これが本書のスタンスです。

本章で筆者が最後に論じておきたいのは、「生態系(エコシステム)」という比喩そのものについてです。
生態系の比喩のポイントは、抽象的にいい表すならば、「ある環境において、膨大な数のエージェントやプレイヤーが行動し、相互に影響しあうことで、全体的な秩序がダイナミックに生み出されており、しかもそこから新たに多様な存在が次々と出現する」というところにあります。
その光景は、「生態系」という言葉以外にも、「進化」「ミーム」「自然淘汰」「ニューラルネットワーク」(脳神経)「創発」など、さまざまな言葉で比喩形容されてきました。
使われる言葉はさまざまですが、それらは基本的に、「部分が相互作用することで全体が構成されている」(全体像は、諸部分=諸要素の性質に還元できない)というシステム論的構図を持つという点で共通しています。
そしてその構図においては、ウェブを構成するネットユーザー=部分たちは、決して全体を認識しているわけでもなく、あるいは全体的視点を見渡した「神」のごとき存在に命令を受けるわけでもなく、いわば勝手気ままに行動することで、いつのまにか全体的な秩序が実現されている、というロジックが使われます。
その論法は、かつてインターネットという新しい通信システムが、自律・分散・協調的に、つまり全体を管理・監視する主体の存在しない非中央集権的なものであると説明されてきたことを彷彿とさせます。

「アーキテクチャ」という概念を提示したローレンス・レッシグは、インターネットを、私たちの誰もがそこに自由にアクセスし、さまざまなアプリケーションの実験を行うことができる「プラットフォーム」であると同時に、そこでの情報資源-それは言論(文字情報)や、音楽・映像といったコンテンツから、プログラムのソースコードまで-を自由に再利用・改変することで、また新たな情報を創造することができる「コモンズ」として捉えています。
そしてレッシグにとって、インターネットがもたらず「自由」なるものは、こうしたイノベーションが絶えず偶然的に、そして自然発生する場所(プラットフォーム/コモンズ)がもたらす「効果」ないし「影響」として捉えられます。

たしかにサイバースペースは、「自由」な場所であるかのように見える。そしてそのように機能してきた。
ただし、その性質は、決して未来永劫不変な「自然的性質」ではなく、アーキテクチャの設計を通じて変えることができてしまう。
だとすれば、インターネットの自由を守るためにこそ、アーキテクチャが常にオープンであり続けるようなものとして維持する必要がある。
そのためには、むしろインターネットのあり方に法的な規制をかけることで、そのアーキテクチャを守っていかねばならない。
-こうレッシグは主張したのです。

(2010~2014年頃、執筆)