9・11以後の監視 <監視社会>と<自由>
デイヴィッド・ライアン著
監修 田島泰彦 清水知子訳
明石書店
引用
同時に、9・11の出来事は、すでに存在していた概念、政策、テクノロジーにチャンスを与える機会-まさにある種の人々にとって絶好の機会-であったと考えることもできるだろう。
警察当局の法執行や図書館、買い物やスパイ行為においても、検索可能なデータベースが使われており、互いにリンクしてデータを照合することもできる。
コンピュータ化の時代以前、当然のことながら、そうした記録が相互に用いられるのは、特別令状等の例外的な目的の場合に限られていただろう。
今日、そうした記録は非常に簡単に手に入る。
それによって、消費者であろうとペテン師であろうと諸々の人物をプロファイリングするために、日々の広範な活動にちりばめられたちっぽけなデータを連携し、それらを簡単に監視目的で使うことができるようになっている。
9・11への対応は、統合されネットワーク化された新たな監視の局面への触媒となった。
資本主義的なコンテクストにおいて、今日私たちが目にするのは、仕事と消費の個人化である。
マーケティング担当者の夢は、「市場のニッチ」をねらうだけでなく、監視によって収集された個人のライフスタイルや嗜好のデータを使いながら、あわよくば個人に特定の品物を買わせるように導くことだ。
しかし、とりわけ福祉国家に見るように、リスクを共有するという旧来的な共同手段が縮小しているときには、「リスク」もまた個人化されつつある。
福祉そのもののなかにあっては、監視は厳重で辛辣なものだが、あらゆる機関(エージェンシー)が、それ以上にますます詳細な健康状態、行動、収入、その他の個人データ記録を探索している。
社会学者が言うべきことはたくさんあるが、監視の研究においてつねに名があがるある人物を無視するわけにはいかないだろう。
その名はジョージ・オーウェルである。
彼の小説「1984年」とその醜悪なアンチヒーロー、<ビッグ・ブラザー>は、監視の領域では今や常套句になっている。だがそれももっともなことだ。
監視を媒介するために遍在する双方向の「テレスクリーン」という言葉にみるように、オーウェルはテクノロジーの使用だけでなく、言語のデフォルメにも注目していた。
彼はまた自分の作品の対象が国家社会主義者なのかリベラル・デモクラシー社会なのかについては、微妙な両義性を維持していた。
西欧世界の多くの人々はオーウェルの批判が当時の「鉄のカーテン」の国々の共産主義体制に対するものだと一方的に考えていたが、彼が監視について予期していたことの多くは、実際にはリベラル・デモクラシー諸国の真の姿であった。
そしてオーウェルは、電子技術が監視を促進したり、市民権の領域(ついでにいえば市民権はますます消費に似たものになるだろう)と同じように消費者についても使われることになるだろうと想像だにしなかった。
だが、彼の警告は的を射ている。
理論的に言えば、ジョージ・オーウェルが恐れていたのは、国家組織的で中央集権的な監視装置、つまり支配者と被支配者が互いに見えるような権力のピラミッドであった。(略)
監視の電子的形態は、ますます広範に流通しているが、その多くはフーコーが扱ったベンサムのパノプチコンへと変化している。
つまり、絶え間ない監視に基づく遍在する権力について考える手段と化している。
それは日常生活の細部にわたる「微視的な」レベルに局在化しているが、部分的に中央集権化された体制である。
そのような中央集権化された監視はつねにそれと同時に全体主義のリスクをもたらしている。
だが、抑制と均衡、また圧力団体、労働組合、市民権運動、消費者団体による警戒が、それに歯止めをかけるのにきわめて効果的であることは、とくに西欧において伝統的に証明されている。
「私は人々が互いに欺き、まるで潜伏中のテロリストを見るかのように相手を疑うような国には住みたくない。
・・・助け合いや協力が当然のことだと思える国で暮らしたいと思う」
-ウルスラ・フランクリン
もう一つ言えるのは、日本のマスメディアが他国と幾分異なった役割を担っているということである。
そのため、阿部潔が論じるように、公共圏での議論は非常に限定されてしまう。
マスメディアは世論を反映あるいは表現するどころか、しばしばメディアが批判しようとする政府同様に信用されていないと、阿部は指摘する。
(2010~2014年頃、執筆)