雅楽 秋庭歌一具 武満徹
武満徹は五色のシートの図形楽譜(五線系譜)を使ったピアノ作品、その他代表作を幾つか聴いた事はあるが、雅楽作品を聴くのは初めて。
音色彩と密接な時間、テンポや持続の問題、更に色彩の空間的変容等について考察すると、雅楽ほど相応しい媒体は他に無く、この特殊な形態のオーケストラは世界的にも類例を見ないそうです。
雅楽は、西洋の調和の概念から遠く隔たり、形而上的な笙の持続、それが人間の呼吸と結びついてる事の偉大さ、楔のように打ち込まれる筝や琵琶の乾いた響き、殊に篳篥の浮遊するようなメリスマ、そしてそれらの総てが醸成するヘテロジエニティは、全く異なる時間圏を形成するとの事。
<秋庭歌・一具>の全体構造は、通常の雅楽の調子(音階)は取られておらず、ギリシャ施法のドーリア調を基礎に置いている。
そして、ガムラン音楽に見られる主音の変化と同じように固定化を破る主音の変化を取り入れており、一本の主旋律に対して、副旋律が装飾していく手法も共通している。
武満徹は、古代の雅楽の発生の起源を想像しながら、インドネシアやビザンチン的ともいえるような、様々な要素を持ち込んで雅楽の新しい領域を創造していった。
本来、非西欧的な独自の音色の概念と構造を持つガムラン音楽等の方が、日本人にとって原理的には近い位置にあるが、その異質性を取り込んでいく武満の音楽に対する深甚な追求心には感服する。
雅楽は日本固有の純粋な伝統音楽というより、アジア文明圏全体の申し子であったという事を再認識させたとも言えるだろう。
<秋庭歌一具>の楽器編成は、高麗笛、竜笛、篳篥、笙、鉦鼓、木鉦、太鼓、筝を使った三つのグループ編成になっており、笙の生み出す音色の動きに乗って、竜笛、篳篥によるモチーフの提示が表れる。
筝、琵琶、木鉦による時間差やズレのある演奏と展開、笙の音色の垂直な動き、12/8、15/8、9/8と複雑に展開するリズム、それを断ち切る太鼓、鉦鼓の打撃音、一瞬の沈黙の後の篳篥のソロは西洋音楽に無い不思議な音の空間を力強く出現させていく。
そしてここで表現される音楽における「間」は、紙には書き表す事の出来ない東洋の神秘性を秘めている。
雅楽で重要な点としては、音色の変化は常に時間の推移と空間性によって体験させられるという事だろう。
それは、四季の変化のように静かな推移の中で、万物の変貌が変化していくように、音の色彩もまた、時間や空間的変化によって、静かに微妙な変化を見せていく。
その叙景的な音と合理性から外れた効果的な「間」は、先入観を持たずに音そのものを真剣に聴く大切さを訴えかけてきているように感じる。
東洋楽器の良さを見つけ出す並外れた嗅覚、西洋音楽と東洋音楽を美学と哲学において統合する方向性。
あんまり音楽的思想について語ると長いので置いといて…
その時間軸の多様性について・・・。
ビートジェネレーションからニューエイジミュージックまで東洋思想への憧憬の強さもあって、武満は日本人よりも欧米人の方が受けが良いようなんですね。
まぁ、そういった日本人の為に、こちらは邦楽の入門編として良い作品だと思います。
雅楽で重要なのは、音色の変化は常に時間の推移と空間性によって体験させられるという事。
それは、四季の変化のように静かな推移の中で、万物の変貌が変化していくように、音の色彩もまた、時間や空間的変化によって、静かに微妙な変化を見せていく。
-雅楽は、日本固有の純粋な伝統音楽というより、アジア文明圏全体の申し子であった。-
60年代の武満は東洋音楽の要素を独自の語法に融合させる事によって、西洋音楽と東洋音楽を美学と哲学において統合する方向性へ向かいました。
自然に出てくる音として、アンビエントは環境を無視した音楽に対して、こちらは緊張感が張り詰めている。
理性は時間を合成しているが、瞑想においては様々な時間が勝手に融合されていく。
音楽を通じての瞑想は、人々の意識を高め刺激し、意味ある人生を生きる為、自らの能力を目覚めさせる。
日本は明治以降、貴重な遺産を捨ててしまい、現代の文化に伝統のフォームを探す事は難しい。
ティンパニーの一打と琵琶の一音だけでも緊張感や間に異質な感覚を確認する事が出来る。
普段、西洋音楽しか聴いてない耳にはかなり異質な感覚が残る。
難解な話になりましたが、僕にとっては非西欧的な音色の概念や独自の音色の構造を体験し、新たなイマジネーションが喚起されていく作品。
非西欧的な独自の音色の概念と構造を持つガムラン音楽の方が本来、日本人にとって原理的には近い位置にあるわけですが、その異質性を取り込んでいく姿勢に武満の音楽に対する類まれな追求心を垣間見る事が出来ます。
教育テレビなんかではたまに、雅楽なんかもやってるんですが最近そういうのを観るのがわりと好きなんですね(笑
(2010~2014年頃、執筆)