澁澤龍彦 西欧作家論集成(上)(下)
澁澤龍彦
河出文庫


主に、幻想文学やシュールレアリスム文学に対する氏の造詣の深さと洞察力が感じられる。
特に、上巻では、カルヴィーノやユイスマン、ポオ、ビアズレーに対する敬愛の念が強い。
一押ししているのは、アンドレ・ブルトンの「黒いユーモア選集」である。
また、下巻ではコクトーの「大股びらき」の話が興味深い。
以下、引用すると、-
コクトーの文体の特色は、何よりもまず清潔、赤裸、簡明にある。
それは最高度の数学的組み合わせと生命の本能との、いわば醇乎たる一致ともいうべきもので、世間はこれを(白い文体)と呼んでいるようだ。
ばらや、牡鶏や、雪や、潜水夫や、大理石や、花火や、天使など多彩なイメージを素材として用いた文体がなぜ<白い>のか?
理由は、文体にスピードがあるからだ。(三原色を輪廻させて見たまえ。色は消える。)文体のスピードは何に由来するか? 
それは、詩人がインク壷から釣り上げる比喩のダイナミックな矢つぎ早の使用による。描写も心理分析もここでは無用だ。-
-また「スタイルとは何か」とコクトー自身もいっている、「多くの人にとっては、それは単純なことを複雑にいう方法だ。
が僕にとっては、それは複雑なことを単純にいう方法にすぎない」と。-
-詩というものを、雲の上に寝そべった、ものうげな、ベールをかぶった貴婦人のように考える習慣がある。
この貴婦人は音楽的な声をもっているが、語ることは嘘ばかりだ・・・詩の役目とはベールをはぎとることだ、最もはげしい意味で。
「職業の秘密」
これら初期の文章からもわかるように、コクトーの仕事は一貫して、ぎょうぎょうしいにせ物の美学から、魂の赤裸な真実と光明とを解放しようとする、危険な冒険の連続だった。
軽業師といわれるゆえんである。
とはいえ、コクトーの軽さ、優雅さは、気取りや美学上の趣味からではなく、怠惰や無気力を拒否する苦行的な精神のあらわれだった。-
-ワーグナーの壮大なおしゃべりが、ポエジーから最も遠いものであることに気づいた彼は、以後、エリック・サティの音楽に似た、針金のような単純の詩、ミニマムの美学の実践に一生を賭けることになった。-

また、黒いユーモア シュルレアリスムと文学からの引用

-シュルレアリスムのいわゆる黒いユーモアとは、何か。それは簡単にいえば、笑いという武器によって、伝統的な約束や既成の論理を破壊し愚弄することにより、人間に虚無の深淵を覗かせるような、ある種の反逆ないし批判の形式である。(ジャリ、アポリネール、ピカビア等)
つまり、閃光ランプのようにぱっと現実を照らし出すユーモアのおかげで、わたしたちは、世界を全く別の角度から眺めることが可能となり、それによって驚異や、夢や、超現実の感覚を知る。
そういう効果をもった作品が、いわゆる”黒いユーモア”の系譜に属する文学なのである。
むろん、ここでは軽薄な皮肉とか、諷刺とか、安易な満足にもとづいた楽天的なユーモアなどは、問題にならない。
黒いユーモアは、あくまで絶望の仮面であって、世界に対する断固たる不信、敵意の表明なのである。-

-アンドレ・ブルトンの編集した「黒いユーモア選集」という本には、さきほど名前をあげたような、共通の特徴をもった過去の作家、あるいは現代の作家がずらりと並んでいる。
彼らはいずれも、慣習的な倫理、確立された社会組織、哲学や宗教上の既成の概念を嘲笑し、破壊しようとする。
たとえば、この選集にも引用されているサドの「悪徳の栄え」のなかのエピソードに、イタリア旅行中の女主人公ジュリエットが、恐ろしい人食い鬼の山砦に招かれて、そこで人間の胎児の肉を試食させられる場面がある。
「人間を食うことは若鶏を食う事以上に、ふしぎでも何でもありません」と主人公のひとりが言明する。
おもしろいことに、同じ選集に収録されたスウィフトの文章にも、「貧民の子供を社会的に有用ならしめん」がため、彼が赤ん坊の肉を食うことを勧めている箇所がある。赤ん坊の肉を料理する方法が細かく描写されていて、その残酷なユーモアに、ひとは凍り付くような笑いの情緒をかき立てられるのだ。
ボードレールもまた、あるとき友人に向かって、「僕と一緒に子供の脳漿を玩味してみる気はないかね。聞くところによると、それは棒の味がするそうだ」と語ったそうである。
ブルトンが、このようなテキストを集めたのは偶然ではなかろう。
それらは明らかに、わたしたちの人間性、あるいは人間性の尊厳といった観念が、吹けば飛ぶような脆弱な約束の上に成立しているということを、白日のもとに暴露せんと意図しているのである。-

(2011~2014年頃、執筆)