自由を考える 9・11以降の現代思想  
東浩紀・大澤真幸
NHKBOOKS


「動物化する世界の中で」の続編の位置付けになる対談集。
まず東氏は9・11以降は、政治がサブカルチャー化している点について指摘し、政治的な想像力とアニメの想像力が同じレベルになっていると述べている。
例えば、「多重人格サイコ」というコミックの中で飛行機を使って自爆テロを行う話が9・11テロとほぼ同時に出版されていると言う。
また、「セキュリティ化」という問題についても述べており、アメリカでは「アメリカ愛国者法」によって、捜査当局がかなり自由にメールを傍受する事が出来るようになっている。
将来的には、出入国のデータベースを、バイオメトリクスによって、つまり個人の虹彩とか指紋で管理するようになると予見している。
そして、イデオロギーや理念では抑えきれない暴力を、情報管理の徹底によってシステム的に押さえ込もうという傾向がある。
大きな物語の凋落のあと、セキュリティの権力が台頭してくる。
神が死んだ後の秩序維持の方法は、セキュリティであり情報管理であるからだ。
大きな物語の共有に基礎を置く従来のタイプの権力は「規律訓練型権力」と呼んでいる。
多様な価値観の共存を認める権力を「環境管理型権力」と呼んでいる。
規律訓練から環境管理の流れについては、もう何十年も生じている。
一人一人ピンポイントで個人認証をすることで、個人個人は好き勝手に行動しているつもりでも、ある人にはこれくらいの自由度を与え、別の人にはもう少し広い自由度を、という形で、ダイレクトに秩序維持を図れるようになった。
秩序維持は第三者の審級なしで可能になり、規律訓練から環境管理への移行が起き、その変動を技術的に支えるのが、ネットワークやユビキタス・コンピューティングとなっている。
悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムになっている。
動物化するポストモダンで論じた「動物化」は、この家畜のように扱われる秩序形成変化と密接に関わっている。
例えば、マクドナルドでは椅子を硬くして消費者を回転させているが、そういう「動物的」な部分に訴える管理と、ビッグ・ブラザーが「食事を30分で終えろ」という命令する社会では、管理という点では同じ効果が起きている。
フーコーは、近代的な権力の特徴は、死ではなく生命を管理することであり、それは19世紀後半から「生権力」という枠組みの中で、福祉国家的な体制として強力になっていく。
ローレンス・レッシグの「CODE」の中で、人を動かすパワーの4種類として、法、規範、市場(経済的な利害)、アーキテクチャ(環境)を挙げている。
そして、現代の権力の基盤は、法や規範からアーキテクチャに移行しているという事。
例えば、現在はウィンドウズを使わないと、特定のソフトが使えなかったりして仕事にならない。
レッシグは、こういう状態をアーキテクチャによる管理と呼んでいる。
またカフカの「掟の門」の設定は、規律訓練と環境管理の蝶番の役割を果たすものだし、「審判」の設定はスターニリズムの設定だと言及している。
ヨーゼフ・Kが犬のように死んでいくのも、理由の無い法に従う意味のない動物的な反応ではないかという事。
アウシュビッツにしても、囚人が騒ぎださないように、裸にしたり毛を剃ったり、家畜的な管理を行っていて問題は二層になっている。
スターリン主義下の逮捕というのは理由がない。それは生産目標であって、地域ごとに何人逮捕するのかはあらかじめ決められている。
しかも、驚くことに逮捕された側は、その事に人間的理由を見出そうとする。
フーコーの考えでは、規律訓練型の権力の眼差しの下に置かれたとき、人は自ら内面を徹底的に審査し、その罪を告白する。
徹底的な自己反省が行われ、その結果、内面という深みが、個人の内に穿たれる事になる。
最終的には、権力の監視する目を内面化し、自己反省によって内面的な主体になるほど従順になる。
しかし、スターリン主義下の「告白」は全くの不条理で、どんなに自己反省しようが内面化出来る理由が無い。
こうしたスターリン主義の権力の原理が日常化したような局面を、現代の「環境管理型権力」に見ていこうという事。
今のセキュリティ社会の中での犯罪は「動機の不透明化」が深く関係している。
犯罪は、運や確率の問題とされ、宅間守や酒鬼薔薇にしても動機に「理由がない」ので、事件を物語化出来ない。
いかなる社会でも一定数の犯罪があるので、それを封じ込める為にセキュリティの装置が張り巡らされる。
我々の自由が分かりやすく抑圧(例えば、明らかに邪悪な奴に、何かをしたり考えたりする自由が抑圧されているような)という事は無い。
だから、古典的な図式で理解しようとすると無理が生じる。
住基ネットや国民総背番号制反対などは観念論に過ぎなくて、僕たちはもう携帯電話やクレジットカードを持っているんだから仕方がない。
しかし、セキュリティ化全体の流れについては危惧しなければいけない。
例えば、アメリカのFBIは「カーニボー」というメール傍受システムを持っている。
これはウィンドウズのソフトで、ISPのサーバに繋げて情報を傍受するものです。
そして、一方で国家権力が市民の個人情報を丸裸にする権力装置を導入した。
その正当性を監視する為に、市民の側にも国家を丸裸にする権利を与えろ、という動きが起こった。
あらゆる事について責任の所在をはっきりさせ、誰がいつどこで何をやったのかを全て透明にしろという要請は、今は絶対的に善だと思われているが、これもまた警戒すべきだという事。
透明性というのは、本当は疑似的なものでしかないからだ。
専門技術に過度に依存した社会では、専門家以外の意見は何の判断材料にもならないので、透明で公正な議論なんて幻想でしかない。
人間の重要性は、まずアイデンティティの問題と交換可能性の想像力である。
交換可能性とは、僕は彼であったかもしれない、私は彼女であったかもしれないという想像力である。
群衆に包まれて街を歩いていると、匿名的存在になれる。
そこでアイデンティティから解放され、交換可能性を強く意識するのだが、ユビキタス・コンピューティングによって常に「あなたは誰々ですね」と個人認証する社会では、主体の交換可能性に対する意識が縮減していくのではないか、という危惧がある。
国民総背番号制反対者は全体主義のイメージで語るが、それよりも膨大な個人情報があちこちに蓄積され、自分ではコントロール出来ない状態で利用され、ユビキタスによって自分の正体が明らかにされてしまう方がずっと問題になる。
その情報は消費社会のサービス充実にも使えるし、治安維持にも使える。
近い将来、監視カメラと携帯電話の個人認証を組み合わせて、歓楽街に中高生が入ると自動的に近くの交番に連絡が入るというシステムが作られていくと思う。
僕たちは、いつどこに行っても匿名になれない社会を作ろうとしている。
しかし、これは国家権力が主導している動きではなく、監視カメラの設置などは商店街や住民が自発的に行っている。
社会全体の透明性を高める動きは、国家と市民の間で対立しない。
携帯電話の履歴を追う事によって、急に児童売春の容疑者が次々と捕まるようになったりして、国家権力が個人の私生活を管理しているのだが、それに対する反対意見は聞こえてこない。
携帯やネットは、位置情報や通話記録やアクセスログが残るのだから、非匿名的な媒体とも言える。
暗号を使ったり、海外のプロキシサーバを多段で通して匿名掲示板にアクセスすれば話は別かもしれませんが、普通に人が匿名だと思ってるものは、実際は匿名でも何でもない。
寧ろ、私たちの社会は現実世界でもサイバースペースでもどんどん匿名な領域を縮減している。
ちなみに、現金というものは誰が何に使ったのか分からないので、非常に匿名性の高い媒体だ。

古典的な消費社会ではシミュラークルの小さな物語がたくさん作られる。
ここで、「小さな物語」というのは、「大きな物語」に対比されています。
「大きな物語」と東さんが呼んでいるものを、僕は、後で話題にするオウム論で、「理想」と呼んだのですが、要するに、「共産主義」とか「民主主義」とか「革命」等の、世界や生を全体として意味づけてくれる、理念やイデオロギー、そしてそれにともなう物語のことです。
こうした大きな理想の権威が崩壊した後に出てくるのが、「小さな物語」ですが、それらは、革命や正義のような規範的な負荷をほとんど背負っておらず、個人的で、たいていの場合、アニメやマンガなどのヴァーチャルなものです。
それらの小さな物語は、しばしば、たがいにたがいを引用したり、パロディにし合ったりしながら、相互参照しており、オリジナルとコピーの境界の意識が希薄なシミュラークルとなっている。
その後に、データベースの層が出てくるというのが、東さんの論点です。
東さんによれば、現代のオタクたちは、個々のシミュラークル(=小さな物語)を消費するだけではなく、そうしたものを横断するデータベースを消費の対象としている。
データベースのわかりやすい例は、作品横断的なキャラクターのデータベースです。
各キャラクターは、萌え要素(オタクたちの欲望を触発する類型的な特徴)の複合によって作られており、同じ萌え要素が、作品横断的に使いまわされている。
その萌え要素を規準にして、キャラクターを分類し、整理するわけです。
これがデータベースです。
もう一つの東さんの重要な論点が、動物化ということです。
アレクサンドル・コジェーヴの論点などを参照しながら、人間が快楽を享受するやりかたが動物化してきた、というわけです。
たとえば、オタクがゲームに耽溺するさまは、環境を否定する精神の営みが後退し、反射や条件反射に近いものになっている。
言ってみれば、薬物依存症のような一種のアディクションと同じだ、というわけです。

・生物的身体(ゾーエー)→動物化の層(剥き出しの生)→情報技術・データベースに管理される層
・政治的身体(ビオス)→ヴァーチャル化の層(象徴界的なネットワーク)→多様性が演出される層

生物的な身体と政治的な身体の両者を接合させコントロールするものとして、フーコーが注目した「生権力」と「生政治」がある。

たとえば、これは前回にも話題に出ましたが、アメリカにEPIC(電子プライバシー情報センター)という市民団体があって、アメリカの情報公開法にもとづいてカーニボーのソースコードを見せろという請求を行っている。
これは重要な活動です。
しかし、よく考えてみると、それでソースコードが公開されたところで、私たちは何も判断できないわけですよ。
ソースコードが出ても、安全だと主張する専門家と危険だと主張する専門家が同時に出てくるに決まっている。
結局、技術依存があまりにも進んだ私たちの社会では、技術者が価値中立的な情報提供を行い、それにもとづいて市民が合理的な討議を行う、などというモデルそのものが潰えている。
となると、保守的なようですが、やはりこの問題は人文的な方法で解決するしかないのではないかと思うんです。
ただし、その場合、人文系の学問は新しい概念を手に入れる必要がある。
住基ネットが機能を拡大する、自動改札機が導入される、監視カメラが設置される、そのときに私たちは何かこれはヤバいのではないかと感じる。
その感覚を言葉にすると、今のところは、犯罪を行う権利だとしか表現のしようがない。
しかし、私たちは何かをそこで感じているわけだから、その何かを正当な権利として汲み上げてくる論理が必要で、ここでこそ法学者や社会学者や哲学者が活躍するべきではないか。
ここでは、単なる技術的検討だけではなくて、犯罪を行う権利を別の権利に組み換える、人文的な「概念の作業」が必要になってくるのではないかと思います。

現代社会は、権力対自由という二項対立の図式が上手くいかなくなってきている。
現代社会は多様性と自由を認めていて十分な自由度を許容している。
権力はどこで働くかというと、生の限界線のところで働いている。
従来の権力による排除は、特定の内面的なイデオロギーや思想、利害関心や行動に対して排除の規制が働いた。
今日では、どのようなイデオロギーや思想を抱いても許されるし、他者の安全や快適な生活によほどの侵害を与えない限り、行動を通じて表現する自由も与えられている。つまり、従来の権力観では、現在の問題点を指摘できない。
今日の権力による管理の技術はローレンス・レッシグの議論を借りると、ゾーニングとフィルタリングである。
ゾーニングというのは、資格に応じて-たとえば成人IDをもつか否か-、サイト(たとえばアダルトサイト)へのアクセスを許可したり、禁止したりする方法です。
ゾーニングにおいては、ユーザーは排除されているという自覚を持つ事が出来るので古典的な権力のイメージは通用する。
フィルタリングは、サイトに内容に応じた得点を配分しておいて、ユーザーが要求するような特定の点数のサイトだけを配信するシステムです。
フィルタリングにおいては、人は、排除されているという意識を持たない。
むしろ、自分は許容されているという意識になってしまう。
従って、そこに権力が作動しているという自覚が起こり得ない権力で、現代の権力をまさに現代的なものとしている。
例えば、LANの水準でフィルタリングが働く場合、子供に望ましいサイトだけを見せる場合がある。
しかし、子供の方は、配信されているサイトを自然の環境として受け入れてしまい排除されているという意識を持たない。
また、自分で情報をフィルタリングして興味あるサイトしか見ないという場合はどうか。
ここには抑圧も禁止もない。しかし、これは「自由の牢獄」と呼べる。
それに対して、「匿名の自由」は無意識の自由であり、「何をする自由」「何である自由」と特定できない自由である。
フィルタリングを設定してるとき、具体的に何が排除されたかといえば「無」が排除されている。きちんといえば、それは「匿名の自由」と言える。

現代では、人々が安全に快適に生きることが政治の目的となっていて、つまり動物的に生きることだけが目標になっている。

マルチチュード(多数性、群衆) → 動物化
人間は集まると動物化する。
領土なきグローバルな世界に君臨する新しい支配形態の中で今までの「国民」や「民族」を越えたものをマルチチュードという。

(2011~2014年頃、執筆)