「2001年宇宙の旅」講義  
巽孝之
平凡社新書


「日本SF論争史」等の著者の巽孝之が、「2001年宇宙の旅」の小説版と映画版の比較や様々なSFについて、切り刻んで論表を記している。
特に、モノリスとスターゲートについて、詳しく説明されていている。
2001年宇宙の旅は、ギブスンのサイバーパンクやピカソのキュービズム運動などの関係性等、興味深い事が書かれている。
「2001年宇宙の旅」への造詣を深めたいと思い、手に取った本書だが、ところによっては初心者向けの本ではないと思う事があった。
映画に関して言うなら、キューブリックは映画に於いて哲学的なテーマで凄い事をやってやろう、という意気込みが強かったのだと思う。
また、小説や映画の世界が現実に影響を及ぼしているというのが凄いところで、時間が経っても色褪せない普遍性もある。
それはそれだけ深い意味を込めて作られているからだ。
僕は、まず最初に映画「2001年宇宙の旅」を観て、それからクラークの小説を読んで、初めて映画の意味している事が分かった。
しかし、小説の方は映画に比べるとインパクトが少なく、退屈であった。
小説の完成度としても「幼年期の終わり」や「都市と星」と比べて落ちるというのは、一般的にも言われている事だと思う。
本書の巽孝之の解説は、SFに対する造詣が深いからこそ色々な視点から書けているし、何より一つ一つの事象について熟考されている。
そして、モノリスとは何かというと、人工知能のHAL9000を越えるサイバースペース型コンピューターであり、物理的な人間を記憶するだけでなく、人間内部の記憶さえも吸収し再現するコンピュータなのだ。
それは、最後にボーマンが生体情報をカットアップ/リミックスされる、という事が示している。
また、それは生身の肉体が脳死状態になっても、生体情報がマトリックスに移されネットワーク上で対面出来るという「ニューロマンサー」の発想とも繋がっている。
つまりは、モノリスの歴史というのは、高度資本主義メディア社会の戦略の人間の肉体から無意識まで再構成し、仮死すら商品化するアレゴリーだと著者は述べている。
また、2010年宇宙の旅で出てくる木星に取り付く無数のモノリスは、コンピューターウィルスだと位置付けている。
後は、ウェルズや小松左京の話へと繋がっていくのだが、それ以降の夢枕漠は読んでいないので、少し話が分かりにくい部分があった。
ただ、やはりクラークが好きなら読んでおいて損は無い一冊だろう。

ほぼ引用

というのも、今日の視点で正確に読み直すなら、この物語のコンセプトはおおむねこんなかたちにまとめられるからだ-。
人類は、じつは神ならぬ地球外知性体によってもたらされた石板状の教育装置の力で、400万年前に猿人だった時代より密かに誘導されてきた。
やがて21世紀を迎え、同じ異星人が同じく400万年前に月に残した目印、すなわちもうひとつのモノリスが掘り出され、太陽の光を浴びた瞬間に発した電波エネルギーの飛跡をたどり、土星をめざすべく巨大宇宙探査船ディスカバリー号が送り出されるも、あいにく船体を統御するスーパー・コンピュータHAL9000の発狂という異常事態が発生。
そして、まさしくその結果、人類の代表者デイヴィッド・ボーマン船長は、土星をめぐる巨大なるいまひとつのモノリス、すなわちスター・ゲートへ呼び込まれ、彼は時空間を超えていよいよ超人類として生まれ変わり、かくして大団円では、巨大なるスター・チャイルドが核武装された地球を見下ろすように虚空に浮かぶ。
そう、だから「2001年」とは必ずしもスーパー・コンピュータの支配するテクノトピアばかりを描いているわけではないのだ。

「2001年宇宙の旅」はジョージ・オーウェルの「1984年」の近未来全体主義の問題を超越し、ニーチェ的永劫回帰を元に人類の黙示的新生を占っている。
「2001年」で人類に知性化を図り超進化を図る生命体は「異星人」であると同時に、未来から過去へ干渉することさえ自由自在の「未来人」でもある。
ワームホールとは時空のねじれによってまったくかけ離れた宇宙空間を一気に切り結ぶ臨海超次元であり、超時空間ハイウェイとして機能する。
異星人が作ったはずの「スター・ゲート」と同じ機能の装置を人類が発明しないとは限らない。
私たちはHAL9000並の人工知能がチェスの相手をしてくれる友人になると期待し、月旅行の際にはモノリスが歓待してくれるものと期待する。
「2001年」は現実世界へ刻々と浸透させてしまったところに最大の効果を発揮した。

2000年10月に、遺跡発掘の手腕により「神の手」と渾名された藤村新一の「遺跡捏造事件」が起きた時、2chのSFスレッドで「月面のモノリスは偽造! フロイド博士驚愕の告白!」というタイトルが出現した。
あたかもモノリスを送り込み、原人の時代から人類の知性化を図るべく画策していたエイリアンは限りなく神に近い存在であり、クラークの「幼年期の終わり」でいうなら、地球へ上帝(オーバーロード)を送り込む上霊(オーバーマインド)にほかならないが、彼らがまさしく人類の歴史を自ら創造してしまったように、問題の考古学者もまた、自らの捏造をさしはさむことによって、人類の歴史を最創造する神の座を求めようとしたのではあるまいか。
という20世紀最後の愉快なジョークをもたらし、モノリスこそは人類の歴史を書き直す力を希求させたと言える。
虚構と現実の相互駆引に関する最も切実な例え話である。

引用

このようにクラークのテクストを熟読すれば、これまで映画版「2001年」後半の万華鏡的シークエンスが、じつはよくいわれるような麻薬幻想でもなければ超絶的体験でもなく、たんにモノリスという名のもうひとつのコンピュータ・マトリックスがボーマンという人間を素材にその生体情報をカットアップ/リミックス/サンプリングしているシーンにほかならないことが了解されよう。
モノリスがボーマンの生体情報を再構成するこのいささかぎこちない身振りは、たとえばギブスン的電脳空間が人格を再構成する手つきを彷彿とさせる。
「ここにいるボーマン」が組み替えられて「別のボーマン」になるという運命は、電脳空間三部作でいうなら、たとえば生身の肉体が脳死状態になっても、あらかじめ生体情報さえマトリックスに移されていれば、その人格とはいつでもネットワーク上で対面できるというメカニズムに等しい。
「ニューロマンサー」において電脳空間上にのみ生きる黒人ディクシー・フラットラインなどが、その好例だろう。
その続編「カウント・ゼロ」が電脳空間内部にヴードゥー教の神々を登場させたゆえんは、まさしくそうしたハイテク時代のゾンビ的可能性に着目したからだし、そのような仮死人的存在については、前掲ピンチョンも「ヴァインランド」の中で「タナトイド」の種族として登場させたほどだ。

なるほど、国家というデータベースが確保できなくなれば、人間は個人の頭脳内部に情報を収納せざるをえず、それを保持するには他者の国家という肉体に-それこそユダヤ人的に-寄生しなければならないだろう。
そして、全地球的にインターネットが張り巡らされ、電脳空間内部に文字どおりのグローバル・ヴィレッジが実現してしまった現在、それは全地球的な故郷喪失が、いわばグローバル・ディアスポラが浸透しきった時代の到来を意味するのだ。
クラークのもうひとつの名作SF「都市と星」において、宇宙への夢を断念した人類が、永遠に近い仮想現実を営む、それ自体が巨大データベースといってもよい未来都市が「ダイアスパー」(Diasper・・・もちろん民族離散を表すディアスポラdiasporaに通じる)と名付けられていたのは、決して偶然ではない。

ヒトザルからスター・チャイルドへ突き進むこの超進化は、いうまでもなくクラークお気に入りの、以下のニーチェの言葉を最も忠実かつ最も壮麗に劇化したものであろう-「人間は動物と超人との間に張りわたされた一本の綱ー奈落を渡る一本の綱である」。

(2011~2014年頃、執筆)