仮想都市モライザ(仮題)

波の音が聞こえてくる。太陽は頭上で堂々と誰にも脅かされずに輝いている。
そして、地上ではこの土地の豊穣な養分で培われた椰子が熟れた実を垂らしていた。
記憶がはっきりとしてくるまでに時間が掛かった。
しかし、これが夢か現実なのか意識がはっきりとしない。
灼熱の砂が肌を焼いている。少なくとも探索を開始するまでは此処の正体は掴めないだろう。
これが夢であろうと現実であろうと流石に無碍に惰眠をむさぼるわけにはいくまい。
俺は意識が朦朧としながらも亜熱帯植物が分布する森に入っていく。森に入ると鳥のさえずる鳴き声が聞こえてきた。

アンドリューは室内の画面を凝視している。ピーターはエアキーを叩きながらアンドリューに話しかけた。
「彼の脳波は正常値をキープしている。
シミュレーションの設定を変更して、異常発生のパターンのバリエーションを増やした方がいいのではないだろうか?」
ピーターは言った。
「いや、カプセルの中にはテスト生が何人か用意されているし、その必要はないね。別のテスト生で試してみれば良いさ」
ディスプレイの中で男は、相変わらず感情が不安定になっていた。
定期チェックでは、血液や細胞のデータも、ここ最近目立った異常は無い。
しかし、男には何かに気付き始めた徴候があった。
数々与えてきたイベントにより、男の自らの周辺の異常に関する嗅覚が鋭くなってきているのかもしれない。
時折、男は犬のように吠えるときがある。
イベントについてどういう行動を起こすかはデータ上全て計算されており、予測を覆すような行動は今のところ起こしていない。
アンドリューは、違うテスト生を試しても良い頃だと感じていた。

俺はカプセルの中で現実逃避している・・・。カプセルの中に入れば楽しい事が溢れている・・・。俺は会社を今日で辞める事にした。

仮想都市モライザ

都市は静寂に包まれている。人影も少なく都市全体を見渡しても10人位しか居ない。
街並みは、白亜の壁の質素だが意匠を凝らした店が無数に存在している。
それを眺めているだけでも飽きる事は無かった。
この都市では生活の必要品を買うには金が掛かるが、食物無しでも生存は可能だ。
食物を摂取する事によって得られる幸福の電気信号は、もはやノスタルジーを感じさせるだけの過去の遺物でしかない。
脂肪を摂取する事によって生じる快楽ホルモンの代替電気信号を使用した方が、効果は迅速だ。
脳に与える電気信号によって快楽を得る事が国家により承認された事によって、人々はギャンブルやセックスや麻薬に溺れる事は皆無となった。
もっと簡単に費用もかからずにストレスを解消し快楽を得る手段があるのだから、至極当然の結果であろう。
統治・統制されたこの都市は犯罪も無くすこぶる治安が良い。
よって、危険によるストレスに人々が悩まされる事も少ない。
そして、現代の人々の悩みは専ら退屈である。
電気信号によって得られる回復もリピートしていくうちに刺激が減少していく。
その為、人々は脳のある神経回路を定期的に初期化(フォーマット)している。
初期化(フォーマット)によって、ある程度までは物事を新鮮な気持ちで楽しめるようになるし、脳に与える電気信号の効果も上がるメリットがある。

物質の構成要素である電子と原子は、粒子であると同時に波動でもある。
粒子と波動の二重性は、ある確率では粒子で、ある確率では波動で、ある確率では粒子でも波動でも有りうるという事である。
ハイゼンベルクはこれを不確定性原理として纏め上げた。
粒子の位置と速度は同時に知る事が出来ず、どちらかを選ばなければいけない。
客観的で中立的な観察、つまり、このシステム外部からの観察は存在し得ない。
そして、すべてはきわめて洗練された数式によって表現できるが、数学を利用せずに理解することは難しい。

俺はいつものようにホテルに泊まり、リクライニングシートに座り新型の1235番の快楽電気信号を脳内に送っていた。
その間にポーターロボットが、微かなモーター音を鳴らしながら俺の座っているすぐ横に辿り着いたので、すぐに荷物を預けた。
仕事でこの都市に居住するようになってから、3ヶ月程経つ。
人間関係は僅かに築いてきたが、基本的に順応性が低い為、神経に疲労感が残りやすいようだ。

森は何処か懐かしい木の香りと涼しげな風が吹いている。
歩いているうちに、酸素が脳に染み渡り朦朧とした意識が徐々に覚醒してきた。