――俳人・松尾芭蕉は、崇拝する西行の500回忌にあたる1689年に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡ります。
全国的に俳諧が広まりつつあったこの時代、地方に暮らす俳人たちとの交遊も目的でしたが、源義経の足跡を(逆から)訪ねる旅でもあったようです。義経は平泉で殺されたといわれていますが、実は青森から北海道へ、そして大陸へ渡った伝説が各地に残されており、芭蕉も本来は青森まで行きたかったようですが、同伴する曾良に身体を心配され断念したとあります(芭蕉はこの時45歳)。
現在でいう7月1日の午後7時頃、芭蕉と曾良が、岩手・平泉から宮城の県境を越えて山形側(最上町)へ入ると、辺りは既に暮れていました。風雨の中、険しい山道を抜け、ようやく国境を越えた先に見えた民家は、国境を守るこの『封人の家』でした。この後ふたりはここへ2泊し、芭蕉は次の句を詠んでいます。
「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと」
この歌を見る限りでは、馬のそばで寝たのだろうかと勘違いしてしまいそうですが、
芭蕉たちが泊まった部屋は、厩舎とは多少離されたごくありきたりな部屋だったそうです。
ちなみにここは、日本で唯一現存する芭蕉滞在の宿だそうです。
~ 山形新聞 2016-08-04付 / 2014-06-22付 ~
スズ(泉)が気になります。封人の家のすぐ裏にも湧いているそうですが。
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近くには、堺田駅もあります。
分水嶺(れい)です。一見、ただの分水嶺、しかし普通の分水嶺は高い山などに行かないと見れないものですが、ここでは簡単に見ることができます。
この小さな池から左右に水が分かれ、日本海側(酒田市)か太平洋側(石巻市)へと流れていくのです。これより始まる水の旅路ですね。注目のパワースポット。
おや……?
よく見れば、月が隠れていました。
~ 山形新聞 2015-12-08付 ~
このオブジェ、元々は、分水嶺を表現したものではなかったようです。
実は私も初めて目にしたとき、ナイトクローラーか縄文の女神像の長い足にしか見えませんでした(笑)。 <詳細の過去記事 ⇒ コチラ>