城輪柵跡(きのわのさくあと)
山形新聞 2011-10-10付 読売新聞 2010-11-03付
1931(昭和6)年、とある農家の田んぼから朽ちた角材の列が出現。
平安時代に政治拠点として整備されたこの城柵の跡は、
広大な領域であることが判明、発掘翌年(昭和32)には国指定史跡となりました。
大和朝廷は蝦夷を支配するため、
712年に出羽(でわ)国を新設し国府の出羽柵を設置、
733年に先に置かれていた出羽国府の秋田(現在の秋田城跡)に移転し、
804年に再び庄内の城輪に戻ったようです。
~ 以下の写真は2011年11月11日撮影(一部を除く) ~
酒田市郊外の城輪地区。北側の集落の奥に城輪神社(祭神:倉稲魂命)もあります。
政庁東門と東大路。
9世紀初頭~11世紀頃まで、ここに置かれていた出羽国府。
東側の山の麓には一(市)条八幡神社、その上の高台には八森遺跡があり、
850年の大地震で最上川を遡上した津波による海水がこの付近まで迫った折、
一時的にそこへ移転。
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その右隣りの東建物跡。
左側には井戸跡。
中へ入るといきなり現れる目隠し塀。
中にある正殿跡。
気になる石碑が見えます。『八幡神社阯』でしょうか。
シンセサイザーなどを駆使した画期的なものでした。
出土物は木簡や須恵器や土器など多数。
そして、その周辺――
城輪柵跡周辺には政所のあったタブの木もございます……民家の庭に。
出羽国府に隣接する出羽国分寺がここにあったようです。
レイラインの如く、ほぼ真東一直線上に数々の神社や史蹟が転々と並んでいます。
山形新聞 左・年月日不明(2000年より以前)、右・2003-04-27付
城輪柵に使用された瓦は、
東南の生石(おいし)地区で作られたものである可能性ありとのこと。
生石という地名は大石からとの由来があり、
撮影:2003-09-01 さすがにまだはっきりと字が読めます。
やっぱり今見ても、このどっしり居座っている白鳥のインパクト強し。
石の上にも三年ならぬ、田んぼの上にも数分。
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