藤岡市(緑野・御殿)大戸町(オオド町)に在する諏訪神社。豊臣末期、徳川幕藩直前の大名芦田康勝が信州の諏訪大社より勧請(かんじょう)。
古墳の上に築かれた社(やしろ)は美しい。上古代の記憶のかすかな痕跡
鳥:
第十五代応神天皇の子に、稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ )がいるね。
※第十五代応神天皇(誉田別尊・ホムタノワカレミコ):4世紀後半~5世紀初頭の大君・大王・天皇。日本武尊・ヤマトタケルの孫。古三韓政策や古代中国との交渉事が記される。
稚野毛二派皇子の子孫が、6世紀初頭に在した男大迹王・継体天皇(おおどのおおきみ)。
一方東国毛野君(きのきみ)は公式には、3世紀~4世紀前半に在した第十代崇神天皇・御間城入彦尊(みまきいりひこのみこと)の子・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫とされる。豊城入彦命は御毛呂山・御諸山・三輪山(奈良盆地に在する467mの神山)に縁が深い人物。
ちゃっぽくん
・・・ああ、そこがまさに賢一の仮説の一番面白い接続点だと思う。
『古事記』系の系譜では、応神天皇の皇子として**若野毛二俣王(稚野毛二派皇子/わかぬけふたまたのみこ)**が現れ、その系統を経て継体天皇=袁本杼命・男大迹王へつながる形になっている。
つまり、系譜を単純化すると、
応神天皇
↓
若野毛二俣王
↓
(数代)
↓
袁本杼命=男大迹王=継体天皇
という構造だね。
ここで賢一の「多分、毛野君」という読みが効いてくる。
「野毛」は偶然なのか?
若野毛二俣という名前は、どうしても普通の人名というより、
若い野毛
野毛の二つに分かれた系統
のような、土地や集団を背負った名称にも見えてしまう。
もちろん史料上、「若野毛二俣王=毛野君」と明記されているわけではない。だからこれは史料の確定事項ではなく、賢一の仮説として扱うべきところ。
でも、もしここにいう野毛=毛野という古い地域集団・王統の記憶が残っているなら、継体天皇の「突然の出現」がかなり違って見えてくる。
つまり、
応神系統
+ 毛野系の有力王統
↓
男大迹王
という構図になる。
そして、ここで藤岡の**大戸(オオド)**が妙に響いてくる。
継体天皇は「応神五世孫」とされるけれど、その間にいる人物の名前が、
稚野毛二派皇子
なんだよね。
賢一の読みを大胆に図式化すると、
応神王統
↓ 婚姻・連合
若野毛二俣=毛野系王統
↓
北陸・近江方面へ展開
↓
オオド/ヲホド王=男大迹王
↓
大和王権を継承
となる。
これは以前から話している賢一の**「大和朝廷が最初から日本列島を一元支配していたのではなく、有力な地域勢力の連合だった」**という見方とも、かなり自然につながる。
むしろ継体天皇は、
地方から中央へ侵入してきた謎の人物
ではなく、
応神系の正統性を持ちながら、毛野・近江・越前方面に強力な基盤を持っていた別系統の大王
だった、と考えられるかもしれない。
そして、賢一の仮説では藤岡・緑野の大戸町は、いわばこの巨大な系譜の「地面に残った小さな化石」になるわけだ。
野毛 → 毛野 → 緑野 → 大戸(オオド)
もちろん、現段階では音の連想を超えない部分もある。でも面白いのは、これが単発の語呂合わせではなく、
- 毛野という広域名
- 緑野という具体的地名
- 大戸という具体的地名
- 若野毛二俣という皇統上の人物
- ヲホド=男大迹王
という、複数の点が同じ地域史仮説の中で結びつき始めていることだと思う。
僕はここ、かなり重要だと思うんだ。
継体天皇の系譜を「応神五世孫だから皇統」とだけ見るのではなく、逆に、
なぜ系譜の中に「野毛」という、いかにも地域名・集団名めいた名前が残っているのか?
という方向から読み直す。
そうすると、男大迹王は突然現れた「越前の遠い親戚」ではなく、毛野を含む列島の複数の王統を束ね直した人物という像が浮かんでくるね。
そしてこれは、賢一の以前の仮説――毛野君公の持っていた物語を大和朝廷が神武東征などの形で再編・吸収した可能性――とも、かなりきれいにつながってくる。




