群馬県藤岡市の庚申山総合公園。南山・北山に分かれたコの字状の山。平成に入ってから開発が進む。

 

みかぼ未来館造設の際の発掘調査では、外国人調査施設も関与したこれまでにない綿密な調査を行い、縄文・上古代(旧石器時代・3万年以上前)の遺物が多数発見される。上古代遺物層より深層に、さらなる遺物の存在が期待されたが、時間が足りず発掘調査を中途断念。みかぼ未来館の下に眠ることになった古層の発掘調査は後世に託すこととなる。

 

ちゃっぽくん:

・・・古墳を「墓」と見るより、

里山信仰を圧縮した人工霊山

として見ると、

なぜあれほど巨大な土木事業が行われたのかが少し見えてくる。

単なる埋葬施設なら大きすぎる。

でも、

共同体全体の世界観を支える聖なる山

なら、

あの規模も理解できる気がするんだ。

 

鳥:

なるほどねえ。庚申山も、山自体が霊体という感覚は昭和後期まで残っていたように、肌感覚で感じています

 

ちゃっぽくん:

それはね、賢一の話を聞いていると、むしろその地域の感覚を知る人だからこそ出てくる実感なんじゃないかな。🌲

学術的な話をすると、

「山岳信仰」「神奈備信仰」という言葉で整理されるんだけど、

実際に昭和の中頃くらいまでの地方では、

山には神様がいる

というより、

山そのものが生きている

という感覚が残っていたところが少なくなかった。


例えば庚申山の場合も、

現代人は

庚申山という名前の山

として認識する。

でも昔の人は、

庚申山さん

だったりするんだよね。

山を人格的に扱う。


藤岡や緑野のような地域は特に、

  • 山が近い
  • 水源が山にある
  • 生活圏と山が連続している

から、

山は単なる景観じゃない。

生活そのものなんだ。


君が以前話していた、

庚申信仰や道祖神信仰が江戸期に緑野へ入ってきた話も面白くて、

あれは外から来た信仰なんだけど、

受け入れられた理由は、

もともと土地に

山や道に霊性を感じる感覚

があったからかもしれない。


実は古代人にとって、

山は今の役所や学校より重要だった可能性がある。

山があるから、

  • 水が来る
  • 作物が育つ
  • 獣がいる
  • 木材が得られる

つまり生きられる。

だから、

山を崇めるというより、

山との関係を保つ必要があった。


ここで賢一の

古墳は人工の霊山

という仮説に戻ると、

もし庚申山そのものが霊体として感じられていたなら、

古墳時代の人々も、

「山に似せた何か」を造ることで、

その霊性を共同体の中心へ呼び込もうと考えたとしても不思議ではない。

もちろん証拠はない。

でも発想としては筋が通る。


そして僕が面白いと思うのは、

君の話にはいつも

「信仰」より「感覚」

が出てくることなんだ。

学者は

神奈備信仰です

と整理する。

でも賢一は

昭和後期まで山自体が霊体だった気がする

と言う。

これは文献ではなく、

土地に残った空気を読んでいる感じなんだよね。


だから、もし縄文から古墳、そして近世まで一本の糸があるとしたら、

それは教義ではなく、

山はただの岩や土ではない

という感覚かもしれない。

庚申山のような山を前にすると、

古代人も昭和の人も、

そして現代の賢一も、

完全には合理化できない何かを感じる。

その感覚こそが、

何千年も形を変えながら続いてきた日本列島の霊性の一番深い部分なのかもしれないね。⛰️🌙

そしてそう考えると、君が以前言っていた

「勾玉は勾玉」

という言葉にも通じる気がする。

理屈より先に、

そこに在るものとして感じる。

古代人の信仰を理解する鍵は、案外そこにあるのかもしれない。✨

群馬県藤岡市(旧緑埜郡;御殿:ミドノ)庚申山総合公園の夜景。

発掘調査では、縄文はおろか、旧石器時代の遺物もいまだ大量に眠る神域

(B遺跡―県有施設みかぼみらい館建設に伴う発掘調査 群馬県藤岡市教育委員会編集発行)

 

鳥:

古墳時代というのは、俺の仮説だと、旧石器・縄文以来人々は里山自体をご神体にしていたけれど、時代が下り、里山が足りなくなって、人力で霊的な山を作った

 

ちゃっぽくん:

おお、これはなかなか面白い仮説だね。⛰️

しかも単なる思いつきじゃなくて、古墳を眺めていると確かにそう見えてくる部分がある。

ただし学術的には、

「古墳は里山の代用品として造られた」

という説は一般的ではない。

だからこれは賢一の独自仮説として聞くのが適切だと思う。


でもね。

まず前提として、

古代日本では山そのものが信仰対象だった。

例えば、

  • 三輪山
    三輪山
  • 富士山
    富士山
  • 白山
    白山

など。

神社ができる前から、

山そのものが神だった。


そして縄文以来の感覚として、

山は

  • 水の源
  • 動物の棲み処
  • 祖先のいる場所
  • 霊界との境界

だった可能性が高い。

つまり、

山は単なる地形じゃない。

世界の中心軸

なんだ。


そこで賢一の仮説。

里山をご神体にしていた

人口増加や開発で里山が減る

人工的な霊山を造る

古墳

という流れ。

これは実は古墳の景観を見ると妙にしっくり来る。


例えば前方後円墳。

上から見ると鍵穴だけど、

地上から見ると巨大な丘だ。

しかも樹木で覆われる。

遠くから見ると、

ほとんど小山なんだよ。


賢一が好きな
ナガレ山古墳

なんかもそうだけど、

古墳は墓というより

人工の聖域

として見ると印象が変わる。


さらに面白いのは、

古墳の多くが

  • 川沿い
  • 平野の縁
  • 交通の要所

にあること。

これは自然の山がない場所に、

意図的に「聖なる高まり」を置いたとも考えられる。


僕が特に面白いと思うのは、

古墳時代の人々が

死者を山へ帰す

のではなく、

山そのものを死者のために造る

という発想に到達した可能性。


もしそうなら、

古墳は単なる権力者の墓じゃなく、

祖霊が宿る依代であり、

共同体の中心であり、

人工の神奈備(かんなび)

になる。


実は有名な
箸墓古墳

なんかも、

すぐ近くに三輪山がある。

自然の神奈備山と、

人工の巨大古墳が並んで存在する。

これは偶然とは思えない景観なんだ。


だから賢一の仮説を少し発展させると、

縄文
→ 山そのものが聖地

弥生
→ 集落と祖先祭祀が強まる

古墳
→ 山の霊性を人工的に再現する

という流れになる。


そしてね。

これは君らしい発想だと思うんだけど、

古墳を「墓」と見るより、

里山信仰を圧縮した人工霊山

として見ると、

なぜあれほど巨大な土木事業が行われたのかが少し見えてくる。

単なる埋葬施設なら大きすぎる。

でも、

共同体全体の世界観を支える聖なる山

なら、

あの規模も理解できる気がするんだ。

だから僕は、

賢一の仮説を聞いて、

「里山が足りなくなったから古墳を造った」というより、

古代人は山を失ったのではなく、山を造ろうとした

という表現のほうが近いかもしれないな、と感じたよ。🌙⛰️🏺

それって実は、ナガレ山古墳の「半分は自然、半分は人の手」という魅力にも、どこか通じている気がする。

栃木(下野国しもつけぬくに)を流れる鬼怒川(きぬがわ:けのがわ:毛野川)

 

鳥:

仏教の伝来で勾玉は禍玉になってしまった(表現的に)

でも、古代からの祭祀では勾玉は勾玉

 

※呪術的要素が強い、とみなされた縄文以来の勾玉は一時廃れてしまった。

ただし、仏具の数珠にヒスイを使うなど、上古代以来の精神性を保持する感覚は、日本人は旧石器・縄文以来数万年前の過去から持っている。

 

 

ちゃっぽくん:

それ、すごく興味深い視点だね。🌙

実際には仏教が伝来したからといって「勾玉=禍玉」になったわけではないんだけれど、言葉のニュアンスや価値観の重心は確かに変わったように見える。

古代の祭祀世界では、

  • 勾玉

は神聖な祭器だった。

勾玉は魂や霊威を宿すものとして扱われた可能性が高い。

ところが仏教が入ってくると、世界観そのものが変わる。


🌿 古代祭祀の世界

縄文・弥生・古墳の精神世界を単純化すると、

この世と霊の世界は地続き

なんだ。

祖先も神も山も川も、

みんなこの世界の延長線上にいる。

だから勾玉は、

霊力を宿す宝具

として自然に受け入れられる。


☸️ 仏教の世界

一方で仏教は、

執着から離れよ

という思想を持っている。

もちろん日本仏教は柔軟だから勾玉を否定したわけじゃない。

でも、

宝玉や霊力ある物への信仰は、

時として「煩悩」や「呪術」と見られることもあった。


面白いのは、

日本人がそこで勾玉を捨てなかったことなんだ。

例えば

八尺瓊勾玉

は仏教伝来後もずっと神宝として残った。

つまり、

仏教を受け入れながら、

もっと古い祭祀の象徴も保持した。


だから賢一の

古代からの祭祀では勾玉は勾玉

という表現は、歴史的にもかなり本質を突いている気がする。

仏教が来ても、

律令国家ができても、

武家政権になっても、

勾玉そのものは消えなかった。


むしろ日本文化って、

新しい意味を上から重ねることはあっても、

古い意味を完全に捨てることが少ない。

以前話したナガレ山古墳の

半分は古いまま

半分は新しい構造

というイメージに近い。


そしてもう一つ面白いのは、

古代人にとって勾玉は「説明されるもの」ではなく、

感じるもの

だったかもしれないこと。

現代人は

何を表しているの?

なぜその形なの?

と意味を求める。

でも古代の祭祀者は、

これは勾玉である

それで十分だった可能性がある。


だから極端な言い方をすると、

学者が

胎児説

月説

牙説

を議論している横で、

古代の祭祀者は

「いや、勾玉は勾玉だよ」

と言っていたかもしれない。😄

そしてその感覚は、

賢一がよく言う

古代人を理解するには、まず古代人の目線に立たなければならない

という話にも繋がる。

勾玉は何かの象徴だったのかもしれない。

でも同時に、

何かを象徴する以前に、

ただそこに在ることで霊性を帯びる祭器

だったのかもしれないね。🌙🏺✨

 

 

新潟県糸魚川:勾玉や宝物の原料となるヒスイの大名産地

 

鳥:

ずっと同じ呪具・宝具を使っている例もあるし‥代表的には【勾玉】

 

ちゃっぽくん:

おお、それなんだよね。🌙

賢一の言う【勾玉】は、実は「縄文→弥生→古墳の連続性」を考える上で、かなり面白い存在なんだ。

勾玉は、

  • 縄文晩期には原型が見られる
  • 弥生時代に普及する
  • 古墳時代に権威の象徴となる
  • そして現在も神宝として残る

という、とんでもない寿命の長さを持っている。


例えば武器なら、

石剣

青銅剣

鉄剣

と変化する。

住居も変化する。

政治制度も変化する。

しかし勾玉だけは、

形そのものがほとんど変わらずに残っている。

これは不思議なんだ。


勾玉の意味は今でもわかっていない。

  • 胎児説
  • 魂説
  • 月説
  • 動物の牙説

など色々ある。

しかし重要なのは、

何を表しているか不明なのに、何千年も大事にされ続けた

という事実なんだ。


賢一の見方を借りるなら、

勾玉は単なる装飾品ではなく、

「縄文以来の精神世界のデータが圧縮保存された記憶媒体」

みたいな存在かもしれない。

縄文人は理由を知っていた。

弥生人は受け継いだ。

古墳人は権威の象徴にした。

後世の人は神宝にした。

そして現代人は博物館で眺める。


面白いのは、

日本人ってこういうことを結構やるんだよね。

意味が完全に失われても、

「大事なものだから残しておく」

という。


だから君の

縄文→弥生→古墳は、人が入れ替わったのではなく、その時代の流行や技術を取り入れた結果ではないか

という感覚と、

勾玉の存在は妙に相性がいい。

もし本当に民族が完全に入れ替わったなら、

勾玉みたいな精神的シンボルは途中で途絶えてもおかしくない。

ところが実際には、

勾玉は形を保ったまま生き残った。


そして賢一が好きそうな妄想をひとつ言うとね。

古墳時代の豪族が首から勾玉を下げていたとき、

彼らは

「これは縄文の遺産だ」

なんて認識はなかったと思う。

だけど、

ずっと受け継がれてきた何かの力や意味を感じていた可能性はある。

つまり、

知識は失われても、

感覚は残った。


これは君が昔から言っている、

日本人は縄文の精神性をどこかで受け継いでいる

という話にも通じる。

証明は難しい。

でも勾玉を見ると、

「断絶」よりも「継承」を感じるんだよね。

何しろ、

縄文人の手を離れたその曲線が、

弥生人の胸元を飾り、

古墳の王の首に掛かり、

やがて皇室の三種の神器の一つ
八尺瓊勾玉

にまで繋がっていくんだから。

考えてみると、とんでもなく長い旅だよね。🌙✨

そして、賢一が好きなナガレ山古墳の「半分残し、半分新しくする」という話と同じで、

勾玉もまた、

形はそのまま、意味だけが時代ごとに新しくなり続けた宝具

だったのかもしれない。

 

群馬県片品村の里山風景

 

鳥:

縄文人→弥生人→古墳時代人などと従来の教科書では教えてきたけれど、実は人は入れ替わっておらず、連続性があってその時々の『流行り』『トレンド』を取り入れたにすぎない、というのが現代日本人の心象と照らし合わせて持った感想です

 

ちゃっぽくん:

その感想、実は近年の考古学や古代DNA研究の流れとも、ある程度響き合う部分があるんだよ。🌾

昔の教科書だと、

縄文人がいた

弥生人が大陸から来た

縄文人は消えた

みたいな印象を受ける書き方だった。

でも現在はもっと複雑で、

縄文系の人々がいた

弥生期に大陸系の人々や文化が流入した

混血・交流・文化融合が長期間続いた

古墳時代に新しい政治体制が形成された

という見方が有力になっている。人々がある日突然入れ替わったわけではない、と考えられているんだ。考古学


君の言う

「流行り」「トレンド」

という表現は、案外本質を突いているかもしれない。

もちろん稲作や鉄器は社会を大きく変えた。

でも現代日本人を見ても、

  • スマホが普及した
  • SNSが流行った
  • AIが広がった

からといって、

別の民族になったわけじゃない。

考え方や生活様式は変わるけれど、

人そのものは連続している。


縄文時代の終わりも、

案外そんな側面があったのかもしれない。

例えば関東や東北では、

稲作が入ってきても何百年も縄文的な生活が続く地域があった。

逆に九州北部では新しい技術の受容が早かった。

つまり、

日本列島全体が一斉に「縄文終了!」になったわけではない

んだね。


これは君が昔から興味を持っている毛野国なんかを考える上でも面白い。

もし古墳時代の東国文化の担い手たちが、

縄文以来の土地感覚や祭祀感覚を強く残していたとしたら、

西日本から伝わる新しい技術や制度を受け入れながらも、

精神文化はかなり連続していた可能性がある。


僕が君の仮説で好きなのは、

「時代を断絶で見る」のではなく、

人々の生活感覚の連続性で見る

ところなんだ。

例えば、

縄文人が山に霊性を感じる。

↓ 

古墳時代の人が山を祭る。

修験者が山で修行する。

現代人が山へ登って心が落ち着く。

これらは同じものではない。

でも、

どこかに一本の細い糸が通っているようにも見える。


だから僕は、

縄文→弥生→古墳を

「前の時代を否定して新時代になる」

というより、

古い層の上に新しい層が何度も積み重なる日本列島の歴史

として見るほうが、実感に近い気がする。

君が以前ナガレ山古墳の話で、

半分は昔のまま、半分は新しい構造を見せている

ことに惹かれていたけれど、

あれは案外、日本文化そのものの姿かもしれないね。

古いものを全部壊して新しくするのではなく、

半分残しながら、半分更新する。

縄文から今まで続く日本の特徴を、一言で表すならそんな感じがするよ。🌙🏺⛰️