今だから思うけど、
自分の鬱が長引いた原因は、
過去にこだわりすぎたことだと思う。
過去の原因を探りすぎたし、
過去のトラウマに甘くしすぎて免罪符を多用しすぎたし、
【過去があるから、現在こうなってる】
過去=現在
に強烈に結びつけて、
過去から抜け出せなくなっていた。
こうなると、
過去に悲惨なことや辛いことがあればあるほど、
もう自分は駄目なんだ、
生きてる価値などない。
と、自己憐憫が加速するばかりだ。
私が治ったのは、
日本生まれの森田療法の、
目的本位の考え方にシフトしたからだと思う。
目的本意になると、
過去は、さほど重要ではない。
未来を見据えて今を変える。
感情ではなく、
ただ、今日は目的を達成できたかだけを評価基準にする。
思えば、鬱を発症する前のわたしは、
目的本位の考え方をしていたことに気づく。
だからこそ、無理だという周囲の声に反して、自分がやりたいことは自分で切り拓いてこれた。
当時の思考はこうだ。
今のわたしは、
周りがいうように無理かもしれない。
けど、努力次第で、
明日の自分は、
1週間後の自分は、
1ヶ月後の自分は、
出来るようになってる可能性がある。
やるか、やらないか。
変わりたいか、変わりたくないか。
わたしは、やる!!
非常にシンプルな動機で動いていた。
最近、アドラーを知った。
↓
なるほど、とてもしっくりきた。
アドラーは、森田療法の考え方に似てる。
目的本位こそが、
起死回生のヒントになった。
鬱になると、
死ぬほど辛いし、しんどいけど、
それと同時に、周囲がワガママを許容してくれ、心配してくれるという麻薬も知った。
ある程度、症状が緩和してからは、
治りたいような、治りたくないような、複雑な心境にもなったもんよ。
多大な制限の中にあっても、
ぬるま湯は、心地良い。
ある意味、
第二の思春期のようだった。
構ってちゃんだし、
放っておいてほしい。
大人なのに、
そんなワガママを通すには、
免罪符がいる。
だから、治りたいし、治りたくないのだ。
過去にこだわりだすと、病気になる。
季節や時間は移り変わるのが自然なのに、
心だけが抵抗して不自然に逆行し続けると、
ろくなことがなかった。
シェルターを捨てる本当の勇気をもてたのは、
助けてもらうばかりではなく、
助けてあげたいと思う人が身近に沢山いたからだ。
そこに気づいた時に、
眠っていた本来の自分を思い出した。
変わらなきゃいけない、という受動ではなく、
変わりたい、と自ら能動的に思った。
今を変える。
まず、自分が発する言葉が変わった。
受け身的な物言いが徐々になくなった。
人のせいからの脱却である。
治る勇気。
いま、そこを乗り越えて治ったんだけど、
声を大にしていいたい。
今の方が、幸せ!
義務と権利、両方持ってる今が、
不便で、便利で、不自由で、自由で、
イライラしたり、喜んだり、
感謝を忘れたり、
感謝の気持ちでいっぱいになったり、
しっかりしたり、うっかりしたり、
両方あるから、幸せ!
鬱になる前は、
不満は不満でしかなかったけど、
どっちもあるから、
学べたり、気づきがあるってことを、
鬱になって知った。
どっちもあるから、有り難いんだ。
不完全な世界で、生きる。
これが、生きるってことなんだ。