3日目、最終日の朝は8:30に出発。
天気予報通りの雨空

しかも、天気予報では「大荒れ」的な話

まず、以前行った時には修復中だった新潟大神宮の殉節之碑に。
この殉節碑。毎年10月に
新潟大神宮殉節之碑慰霊祭が殉節之碑祀裔会事務局の主催で行われていて、今年は終わってしまったので、興味のある方は是非来年にでも。
次に念仏寺へ。ここには米沢藩士の墓があります。
戊辰公園。ここは前回行きました。
色部長門追念碑がある小さい小さい公園です。
新潟清徳寺の
「会津藩精義隊碑」です。
「精義隊」とは、会津藩の飛び地であった西蒲原郡内野村の庄屋渡部三郎兵衛が組織した農民義勇兵で、戊辰戦争がはじまった際に、会津藩から義勇兵を組織し、何かの際には協力するように命じられ、村内の20~40歳の農民の次男三男と、渡部家の奉公人の約20名程で結成。5月22日に藩より出兵命令が下り出陣。7月9日「精義隊」と命名され、会津藩士佐藤織之進を隊長した隊となる。その間、巻・吉田・小須戸・三条等を転戦。その後、新潟守備に米沢藩の要請により精義隊は米沢藩の配下となり、米沢藩に帯同して転戦、しかし、米沢藩が降伏。その後帰郷する事となりましたが、この戊辰戦争で精義隊は数名の戦死者を出している。
ちなみに、この碑は明治三年六月に建立されたもの。
酒屋陣屋跡。
ここは初めてのトコで、最近出来たようです。
会津藩は、慶応元年会津藩領となった酒屋村を外港として阿賀・信濃川を経由して物資の運搬などを行う為、水原の陣屋をここに移した。慶応四年戊辰戦争が始まると、2月に会津藩を中心に越後の諸藩がここに集まり8日間の会議が行われた。世に「酒屋会議」として知られる。
しかし、8月2日朝、酒屋陣屋は俵柳村出身の小林政司率いる金革隊(農兵隊)に攻撃され陣屋は炎上したという。
KOKOさんの先祖が自刃してるらしいので、何か無いかと近くの会津藩が陣を置いたと言う寺に行ったのですが、御住職はお出掛けでしたが、どうも先代の時に会津藩関係の遺物は焼却してしまったらしいとの話で残念

新発田角石原古戦場跡碑へ。
ここは随分昔に一度行った場所でしたが、昔過ぎて見てる最中にぼんやり思い出した程度

ちなみに、いつ行ったのかと調べたら
2004年7月でした

もう9年も前の事になるんですね

たしか、あの時は
寄合白虎隊に興味以て津川とセットで行ったので、本当に新発田のみ見て終了だったんで、あまり見てないんですよね
ちなみに、有名な飯盛山で自刃したのは士中白虎隊ですが、士中隊は上級藩士子弟、寄合隊は中級藩士子弟、足軽隊は下級藩士子弟で、その寄合白虎隊は、一・二番隊共に7月12日越後口への出動命令が下り、15日出陣。18日より津川に駐留し、新発田藩が裏切ると、
一番隊は赤谷口防衛の為赤谷口へ。二番隊は石間口守備へ。
一番隊は8月6日から戦闘が始まり、14日ここ角石原の戦いで佐々木新六郎(16)が戦死しています。
この碑は、旧新発田藩が建立したもので、戊辰の役後七十年を記念して建立されたモノ。
近くの赤谷古戦場へ。
ここも角石原古戦場跡と同じ9年前に一度行った場所。ここは途中でなんとなく思い出して自分の史跡のページを見返しちゃいました

ここ赤谷は戊辰戦争当時会津藩領で、境川を挟んで新発田藩と相対していた場所で、慶応4年8月13~15日にかけて激戦が行われた。8/13午前4時から銃撃戦が始まり、新政府軍千六百名、迎える会津藩兵は百六十名、農兵隊六十名で、圧倒的数の差があった。この地の住民は会津藩代官の命令により避難していたが、屈強の男子や主だった衆は会津藩に協力して農兵となり協力したのである。
碑の裏面には16名の赤谷・新谷で戦死した会津藩士の名前が刻まれています。もとは明治17年7月に村民の手によって赤谷不動堂の傍らに建立されたもので、戊辰百二十年の節目にあたる昭和63年にこの場所に移されたモノ。
おなじ新発田の
大慶寺へ。ここには
会津藩士五人の墓があります。
写真一番左が五人墓です。
「戊辰役殉難者」と一番上に刻まれ、樋口又右衛門、阿部豊之助、神田源左衛門、神田万蔵、星悦之助の五名の名前が刻まれています。
村上の宝光寺の鳥居三十郎墓へ。
本堂の小ささにびっくりしながら、奥にある鳥居三十郎の墓へ。
鳥居三十郎は、天保12年代々村上藩の家老職についた鳥居家の嫡男として生まれ、戊辰戦争時には村上藩最年少の家老。
奥羽越列藩同盟に参加するも、新政府軍が迫ると藩論は抗戦か帰順か統一出来ずにいたが、三十郎は抗戦派藩士約200名を自ら率いて村上を脱出。庄内藩を目指した。その間久永惣右衛門・江坂与兵衛ら帰順派藩士らが新政府軍の詰所に出頭して村上藩は降伏。
三十郎達は庄内藩兵と合流し、羽越国境の鼠ヶ関で庄内藩兵と共同戦線を取った。三十郎らは9月1日鼠喰岩の戦いなど地の利を生かした戦いで約一ヶ月もの間、戊辰戦争終結まで新政府軍の庄内侵攻を防いだ。一方新政府軍に帰順した村上藩士らは新政府軍の要請によって鼠ヶ関に藩兵を派遣。結果村上藩は両陣営に分かれて戦うことになり、羽越国境の戦闘においては村上藩兵同士が戦うという事態が発生している。
戊辰戦争後には、
村上藩の戦争責任を一身に背負って切腹
ちなみに、藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、処刑前の6月20日、三十郎を陥れたとして帰順派の代表江坂与兵衛が抗戦派藩士らに暗殺されるという事件が起きている。
一日目の記事にも書きましたが、5月に弥彦・寺泊に陣していた石原多門の元を村上藩の隊長島田丹治が訪れ、庄内藩の指揮下に入りたいと申し出て、その後この村上藩の島田丹治はのちに庄内軍と共に羽越国境防衛戦を戦っています

村上藩主菩提寺の光徳寺へ。
折角村上に来たって事で、昼ご飯

はお腹すいたのを我慢して
「鮭公園」内にある
「サーモンハウス」
で
「秋鮭定食」です

やはり、村上といったら鮭でしょう

ここから、海沿いを走って鶴岡方面へ。
途中、鼠ヶ関近くの「ラスベガス」というパチンコ屋さんの敷地内に
「戊辰東北戦争の古戦場」という案内板と共に、
官軍戦死者墓がニ基。
土佐藩、薩摩藩、加賀藩、越前藩、新発田藩計16名の合葬墓。
鼠ヶ関の戦いについては長くなるので、今度別途ページをとって紹介しますね

この先、新しい高速道路

を使って一気に鶴岡市内へ。
戊辰戦争関係ではないのですが、去年から行きたかった「加藤直矢」の墓と碑。
本住寺に
加藤直矢墓があります。
加藤直矢と聞いてピンとくる人は殆ど居ないと思いますが、あの
松本十郎の実弟です

戸田家から加藤勘四郎の婿養子になる。
直矢は赤川改修工事の工事監督となるが、地元の費用負担問題で責任を負い、竣工後に自刃。自刃に際し遺書を残しており、遺書には(郡長に)<不正ノ件ヲ引受ケ>させられたので、<我カ良心ニ問>い<決心不得已事ナリ>として、北向きに剣を伏せて死んだという。
水神社には加藤直矢の碑があります。
碑は鳥居

入ってすぐの右手にあります。
やっと念願の加藤直矢の墓と碑が行けて良かった~

その後、折角なので「安国寺」に行って、越後戦線に参戦した中村七郎右衛門と松本十郎、そして以前にKOKOさんに聞かれた時は知らなくてご案内出来なかった庄内藩の戦犯として処理された石原倉右衛門の墓へ。やっと案内出来て良かった~。最後に、大督寺で玄蕃サマに御挨拶して鶴岡を後にして一路仙台へ。
竹さん、KOKOさん、羽角さん、常盤さん、旅行中は大変ありがとうございました

おかげでとっても楽しかったです