今日は六本木の花郷でランチ。

本来は今日は母は高校時代の友達と鮨屋でランチ予定だったのが、急遽お友達が急性腸炎というので延期になり、その際に「私本当は生魚ダメなのよ」との爆弾発言。

で、予定が空いたのを良い事に、六本木の和山が「花郷」になってから行った事が無かったので、延期した際のランチ場所に偵察って事で昨日思い立ったらしく夜予約しての本日のランチ。

六本木「花郷」 には、以前に草月部の先生や皆と行った事があるので二度目。
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本店は京都なので、京懐石のお店で、毎月季節毎の料理に変わります。
今月は秋って事でお重の中は落ち葉がいっぱいでワクワクしました~ハート
どの料理も美味しくて大満足です!


その後、銀座に寄り道して、沖縄アンテナショップの「わしたショップ」で、今お気に入りの「塩せんべい 梅味」を大量買いして、更に沖縄の正月料理に必須の「田芋(タームー)」があったので、GET♪更に好きな「中味汁」もGETですヨッシャー
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そこから、足を伸ばして山形アンテナショップの「おいしい山形プラザ」 へ。
そろそろ時期かなぁ~と思って行ってみたらありました♪
「庄内柿」ですハートハートハート
しかも、松ヶ岡農場産ですあははあははあはは
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うっかり、小さいですが箱買いですハート

ちなみに、もう今更ですが、何がツボかっていうと。
庄内柿といえば、酒井調良クンですヨ!
行商から鳥居町に住む鈴木重光が購入した柿の苗の中に、他の実とは違う形が偏平で、しかも種のないものがあり、知遇があった酒井調良に相談すると、調良は自分の果樹園で育て、広めていくのです。

酒井調良クンは、あの酒井玄蕃サマの弟クンで、明治初期戊辰戦争に敗れた庄内藩は、刀や銃を鍬に持ち替えて、松ヶ岡開墾を開始。その松ヶ岡開墾に調良クンや同じく玄蕃サマの弟黒崎研堂も参加して養蚕や果実栽培などに尽力。そんな調良クンや黒崎研堂クンと庄内藩が関わったのが松ヶ岡開墾場なんですよ!


更に、つや姫せんべいの数量限定の「新米バージョン」です!
今しか買えません!
つや姫は、山形県今イチオシのお米ブランドです。よくTVでも紹介されてます。
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そしてまさかの、「山形代表」のラ・フランスのペットボトルびっくり
抜群の安定感の美味しさですびっくり
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ちなみに、夕食には早速今日買ったばかりの「中味汁」
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新しい家族が届きました!

お友達のテディベア作家のLilac Bearのmisaさんの作品です!

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ちなみに、ミニチュアダックスのバックチャームです。サイズが6.5cm×12cmです。
誕生日は2013年11月11日(ポッキーの日だわ)

名前は悩んだのですが、一緒に届いた殿下から名前を頂いて「エドワード」の「エド」にしようかと。空色だから「そら」とかも考えたんですがやはりエドワードの方がしっくりくるので。
そして、愛称はエディよりはエドかな?…と。
テッドは、別のブラックなクマさんイメージしちゃうので(笑)

ちなみに、一緒に頂いた殿下の本です{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/31/3141592/1638.gif}
英国の黒太子エドワード殿下です。
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東京大学の本郷キャンパス行って来ました!!

何しに行ったかと云うと、東京大学史料編纂所で、11/8.9の二日間のみで「東アジアと日本、世界と日本」 展をやってるので常盤さんと、尚白さんとで見て来ました!
(常盤さんありがとうございました!)

12時に、かの有名な赤門前で待ち合わせ。通称赤門は徳川家斉の二十一女の溶姫が加賀藩主前田斉泰に輿入れする際に建てられたモノです。
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史料編纂所は赤門入って直ぐの建物で、たった2日の展示なのに、入館無料な上に、立派な図録book*まで無料配布してましたびっくり
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そして、今回の一番の目当てハート
「横山主税」関係。
*会津藩士等旅券添状
*海外旅行券取極通知一件
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※パンフレットより

横山主税のパスポートは白虎隊記念館で展示されてますが、今回のはパリで昭武一行から離れた横山主税等に、外国奉行の向山一履からそれぞれに渡された御印章添書で、これは「これを所持した者に対する一定の保護を各国に要請したのも」であるという。いや~実物見れて良かったですハート
責任教授の方に少し話しを伺ってから、遅いお昼カトラリーを食べに。


…が、食堂に行くと残念なコトに14時終了・・・他も14時終了だったり土日休みだったりで、結局史料編纂所前のカフェカップでスペシャルパスタランチカトラリー。明太子パスタだったのですが、絶品でした!
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帰り際に、赤門前の和菓子屋さん『扇屋』さんでお土産に「赤門もち」という菓子を購入。山梨の信玄餅みたいな感じです。美味しかったです。
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やっと週末です{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/ma/marble-10cho21ap/1338.gif}

が、今日は朝から夕方までさいたまスーパーアリーナでの展示会応援です。

平日なんで、あまり人の入りは良くないけどパラパラは来る。でもパラパラだから時間経つのが遅くて疲れる~

朝から夕方6時まで立ちっぱなしだったから、足は痛いし、腰も痛い……{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/s0/s0111012/2539.gif}
3日目、最終日の朝は8:30に出発。

天気予報通りの雨空雨
しかも、天気予報では「大荒れ」的な話がっかり

まず、以前行った時には修復中だった新潟大神宮の殉節之碑に。

ちなみに、気がついちゃいけない恐ろしい事に気がついちゃいました…。以前新潟行った時のブログをアップしてません冷や汗…もう時効ですよね冷や汗

この殉節碑。毎年10月に新潟大神宮殉節之碑慰霊祭が殉節之碑祀裔会事務局の主催で行われていて、今年は終わってしまったので、興味のある方は是非来年にでも。
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次に念仏寺へ。ここには米沢藩士の墓があります。
だいぶ雨雨も強くなり墓地に池が出来始めてました冷や汗
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戊辰公園。ここは前回行きました。
色部長門追念碑がある小さい小さい公園です。
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新潟清徳寺の「会津藩精義隊碑」です。
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「精義隊」とは、会津藩の飛び地であった西蒲原郡内野村の庄屋渡部三郎兵衛が組織した農民義勇兵で、戊辰戦争がはじまった際に、会津藩から義勇兵を組織し、何かの際には協力するように命じられ、村内の20~40歳の農民の次男三男と、渡部家の奉公人の約20名程で結成。5月22日に藩より出兵命令が下り出陣。7月9日「精義隊」と命名され、会津藩士佐藤織之進を隊長した隊となる。その間、巻・吉田・小須戸・三条等を転戦。その後、新潟守備に米沢藩の要請により精義隊は米沢藩の配下となり、米沢藩に帯同して転戦、しかし、米沢藩が降伏。その後帰郷する事となりましたが、この戊辰戦争で精義隊は数名の戦死者を出している。
ちなみに、この碑は明治三年六月に建立されたもの。

酒屋陣屋跡
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ここは初めてのトコで、最近出来たようです。
会津藩は、慶応元年会津藩領となった酒屋村を外港として阿賀・信濃川を経由して物資の運搬などを行う為、水原の陣屋をここに移した。慶応四年戊辰戦争が始まると、2月に会津藩を中心に越後の諸藩がここに集まり8日間の会議が行われた。世に「酒屋会議」として知られる。
しかし、8月2日朝、酒屋陣屋は俵柳村出身の小林政司率いる金革隊(農兵隊)に攻撃され陣屋は炎上したという。
KOKOさんの先祖が自刃してるらしいので、何か無いかと近くの会津藩が陣を置いたと言う寺に行ったのですが、御住職はお出掛けでしたが、どうも先代の時に会津藩関係の遺物は焼却してしまったらしいとの話で残念冷や汗

新発田角石原古戦場跡碑へ。
ここは随分昔に一度行った場所でしたが、昔過ぎて見てる最中にぼんやり思い出した程度冷や汗ちなみに、いつ行ったのかと調べたら2004年7月でしたビックリもう9年も前の事になるんですね冷や汗たしか、あの時は寄合白虎隊に興味以て津川とセットで行ったので、本当に新発田のみ見て終了だったんで、あまり見てないんですよね冷や汗
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ちなみに、有名な飯盛山で自刃したのは士中白虎隊ですが、士中隊は上級藩士子弟、寄合隊は中級藩士子弟、足軽隊は下級藩士子弟で、その寄合白虎隊は、一・二番隊共に7月12日越後口への出動命令が下り、15日出陣。18日より津川に駐留し、新発田藩が裏切ると、一番隊は赤谷口防衛の為赤谷口へ。二番隊は石間口守備へ。一番隊は8月6日から戦闘が始まり、14日ここ角石原の戦いで佐々木新六郎(16)が戦死しています。

この碑は、旧新発田藩が建立したもので、戊辰の役後七十年を記念して建立されたモノ。


近くの赤谷古戦場へ。
ここも角石原古戦場跡と同じ9年前に一度行った場所。ここは途中でなんとなく思い出して自分の史跡のページを見返しちゃいました冷や汗
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ここ赤谷は戊辰戦争当時会津藩領で、境川を挟んで新発田藩と相対していた場所で、慶応4年8月13~15日にかけて激戦が行われた。8/13午前4時から銃撃戦が始まり、新政府軍千六百名、迎える会津藩兵は百六十名、農兵隊六十名で、圧倒的数の差があった。この地の住民は会津藩代官の命令により避難していたが、屈強の男子や主だった衆は会津藩に協力して農兵となり協力したのである。

碑の裏面には16名の赤谷・新谷で戦死した会津藩士の名前が刻まれています。もとは明治17年7月に村民の手によって赤谷不動堂の傍らに建立されたもので、戊辰百二十年の節目にあたる昭和63年にこの場所に移されたモノ。


おなじ新発田の大慶寺へ。ここには会津藩士五人の墓があります。
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写真一番左が五人墓です。
「戊辰役殉難者」と一番上に刻まれ、樋口又右衛門、阿部豊之助、神田源左衛門、神田万蔵、星悦之助の五名の名前が刻まれています。


村上の宝光寺鳥居三十郎墓へ。
本堂の小ささにびっくりしながら、奥にある鳥居三十郎の墓へ。
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鳥居三十郎は、天保12年代々村上藩の家老職についた鳥居家の嫡男として生まれ、戊辰戦争時には村上藩最年少の家老
奥羽越列藩同盟に参加するも、新政府軍が迫ると藩論は抗戦か帰順か統一出来ずにいたが、三十郎は抗戦派藩士約200名を自ら率いて村上を脱出。庄内藩を目指した。その間久永惣右衛門・江坂与兵衛ら帰順派藩士らが新政府軍の詰所に出頭して村上藩は降伏。
三十郎達は庄内藩兵と合流し、羽越国境の鼠ヶ関で庄内藩兵と共同戦線を取った。三十郎らは9月1日鼠喰岩の戦いなど地の利を生かした戦いで約一ヶ月もの間、戊辰戦争終結まで新政府軍の庄内侵攻を防いだ。一方新政府軍に帰順した村上藩士らは新政府軍の要請によって鼠ヶ関に藩兵を派遣。結果村上藩は両陣営に分かれて戦うことになり、羽越国境の戦闘においては村上藩兵同士が戦うという事態が発生している。
戊辰戦争後には、村上藩の戦争責任を一身に背負って切腹涙
ちなみに、藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、処刑前の6月20日、三十郎を陥れたとして帰順派の代表江坂与兵衛が抗戦派藩士らに暗殺されるという事件が起きている。
庄内藩ですよびっくりなんと素晴らしい人物でしょうハートハートハート

一日目の記事にも書きましたが、5月に弥彦・寺泊に陣していた石原多門の元を村上藩の隊長島田丹治が訪れ、庄内藩の指揮下に入りたいと申し出て、その後この村上藩の島田丹治はのちに庄内軍と共に羽越国境防衛戦を戦っています♪


村上藩主菩提寺光徳寺へ。
ここの御住職というかお寺さんは、自藩の戊辰の犠牲者を大事に供養されてて、ご厚意でお位牌をお参りさせて頂きました。戊辰戦争についても色々調べられてて凄いなぁと感心しきり。境内には戊辰戦争で戦死した村上藩士の墓も幾つかあります。
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折角村上に来たって事で、昼ご飯ごはんはお腹すいたのを我慢して「鮭公園」内にある「サーモンハウス」 「秋鮭定食」ですあははやはり、村上といったら鮭でしょう♪
サーモンの刺身、焼鮭、小鉢、御飯、味噌汁、漬物の定食で、やっぱりサーモン絶品ハート 1Fでは鮭関係の土産物が売ってます。
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ここから、海沿いを走って鶴岡方面へ。
途中、鼠ヶ関近くの「ラスベガス」というパチンコ屋さんの敷地内に「戊辰東北戦争の古戦場」という案内板と共に、官軍戦死者墓がニ基。
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土佐藩、薩摩藩、加賀藩、越前藩、新発田藩計16名の合葬墓。
鼠ヶ関の戦いについては長くなるので、今度別途ページをとって紹介しますね!


この先、新しい高速道路車を使って一気に鶴岡市内へ。
しばらく雪のない庄内は行けないと思っていたのですが、急遽間に合いそうなので庄内へも寄り道して貰っちゃいました冷や汗夕暮れとの競争です逃げる

戊辰戦争関係ではないのですが、去年から行きたかった「加藤直矢」の墓と碑。

本住寺加藤直矢墓があります。
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加藤直矢と聞いてピンとくる人は殆ど居ないと思いますが、あの松本十郎の実弟ですきらきら

戸田家から加藤勘四郎の婿養子になる。
直矢は赤川改修工事の工事監督となるが、地元の費用負担問題で責任を負い、竣工後に自刃。自刃に際し遺書を残しており、遺書には(郡長に)<不正ノ件ヲ引受ケ>させられたので、<我カ良心ニ問>い<決心不得已事ナリ>として、北向きに剣を伏せて死んだという。

水神社には加藤直矢の碑があります。
碑は鳥居神社入ってすぐの右手にあります。
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やっと念願の加藤直矢の墓と碑が行けて良かった~ハート
その後、折角なので「安国寺」に行って、越後戦線に参戦した中村七郎右衛門松本十郎、そして以前にKOKOさんに聞かれた時は知らなくてご案内出来なかった庄内藩の戦犯として処理された石原倉右衛門の墓へ。やっと案内出来て良かった~。最後に、大督寺で玄蕃サマに御挨拶して鶴岡を後にして一路仙台へ。

竹さん、KOKOさん、羽角さん、常盤さん、旅行中は大変ありがとうございました♪
おかげでとっても楽しかったですハート
さて、
2日目の朝はAM8:00にホテルを出発車

まず、市内を中心に。
栄涼寺へ。ここには長岡藩士河井継之助墓お墓をはじめ、北越戦争招魂碑、同じく長岡藩士の二見虎三郎墓お墓三島億二郎墓お墓秦八郎墓お墓西軍供養墓お墓があります。

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そこから長興寺山本帯刀墓お墓山本五十六墓お墓へ。
約10年振りに来ました{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/ma/marble-10cho21ap/1338.gif}中越地震の前に来て以来ですが、地震で倒壊したニュースを見ましたが、ちゃんと直ってて良かったです。
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山本家墓域からすぐ近くの長岡藩士酒井貞蔵墓お墓堀口良次右衛門墓お墓へも。

次いでに同じ境内にある長岡藩家老の稲垣茂光の墓お墓へ。もしかしたら杉本鉞子の父親の方が有名なのかな??長岡藩の西郷頼母的存在の人物で、戊辰の際には非戦恭順を説き、開戦直前で逃亡し、各地を転々とし、最後に江戸に辿り着いた際に新政府に出頭し藩主一族の除名嘆願したという。けれど、今でも「逃亡」というのが尾をひいて評判は悪いようです冷や汗
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前島神社にある河井開戦決意の地車
小さい神社の本殿脇に立派な石碑が建立されています。
小千谷会談が決裂し、長岡城に帰路の途中の河井継之助が、既に戦争に備え前島を守衛していた親友の川島(三島)億二郎を訪ね、前日の小千谷慈眼寺での岩村精一郎との会談の状況を説明し、川島は開戦に反対したが、結局協議の上長岡藩は新政府軍と開戦する事となり、二人はここから摂田屋の本陣
に向かい諸隊長を前に開戦を決意したという。
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次に願誓寺の河井継之介の従僕だった木川松蔵墓お墓車
木川松蔵は天保10年生で農家の谷五郎の長男として生まれる。
河井継之助の従者として献身的に仕え、戊辰の際も継之助の妻から自分の代わりに仕えて欲しいと命じられ、継之助が負傷し八十里越えの際も付添い、最期を看取り遺骨の搬送にも尽力した人物。
ちなみに、元々松蔵は城で下働きしていたのですが、藩主牧野忠訓の正室つね姫がイケメン松蔵を見初めてしまい、子供が出来た事で発覚。打ち首になるのを河井継之助が一度死んだ気になって自分に仕えてみないかと救ったようです。
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ここから関原の西軍本陣とそこにあった物見の松跡車

戊辰戦争の際の5月中旬、このすぐ近くの高木家と池田家が新政府軍の宿舎となり、山県狂介に木に登っての偵察を命じられた兵が、邪魔な枝を切り落としたが、神木のように扱ってきた家の松を切られた家人近藤勘太郎が起こり、山県がわびたという。
その松も、昭和34年に伐採されたという。
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蔵王堂城跡車
蔵王堂城は、もともと
今は公園と神社や寺になっていて、一部に堀や土塁などが残ってます。

戊辰戦争の際には、長岡藩士達がこの土塁や堀を利用して、新政府軍と交戦。

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そして、蔵王堂城跡目の前の官軍松代藩士之墓お墓へ。
金峯神社目の前の松代藩士十四名の合祀墓で、7月25日の戦いで戦死したもの。
石内に宿陣していた松代藩士は、八丁沖渡河作戦で蔵王に追い詰められた新政府軍の応援として長岡藩士達と交戦その戦いで戦死したもの。
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そして、ここは十年程前にも行った日光社鬼頭熊次郎碑中川文蔵戦死地碑
上の八丁沖古戦場パークから直ぐ近くの日光神社に、大正4年に建立された八丁沖渡河の立役者であった鬼頭熊次郎の碑がある。

八丁沖で漁をしていて八丁沖をよく熟知していて、4夜かけて攻撃ルートを構築し、長岡城回復に貢献、敵陣に斬り込んだ熊次郎は銃撃に倒れ、その遺体は兄嫁が曲がった足によって確認したという。長岡市民は城に戻ってきた藩士達に道路に酒樽を持ち出し兵に振舞い喜んだという。
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そして、以前行った際には気が付きませんでしたが、7月25日越後富島村で戦死した中川文蔵の戦死の地碑(写真右)も同じ敷地にあり、鳥居を挟んで二つの碑が向かい合ってます。


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八丁沖古戦場跡へ。
この辺りは何となく昔の記憶が蘇って来ました。たしかこの碑の前でゲートボールしてて、写真撮りづらかった覚えが…。

八丁沖は長岡の東北郊外、百束、大黒あたりから、南は富島、亀貝にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地で、河井継之助は、長岡城奪回のため、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画。 そして慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ行動を開始し、全軍六百余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島へたどり着き、大激戦のすえ宮下の西軍前線基地を占領しました。さらに、全軍を4手に分け、長岡城をめざして猛進撃に移りました。不意を突かれた西軍は、必死に防戦したが昼すぎには勝敗は明らかとなり、長岡城の奪回に成功しました。余りにも突然の攻撃に驚いた山県有朋は西園寺公望と錦旗を関原の本営に送り、干城隊隊長前原一誠に退却を促し、自らも軍を立て直す暇なく退却した。
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諏訪神社福島村夜襲戦跡碑へ。
ここは初めての場所。
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平成24年5月26日にオープンしたばかりの、北越戊辰戦争に特化した資料館!しかも、なんと入場無料凄いです!他の東北・越後地域などにも見習って作って欲しい冷や汗

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そこで見せて貰ったもので、一番凄かったのが「長岡藩士伊東祐国が斃した長州藩士藤井正治・斎藤義友ゆかりの品」の袖章なのですが、写真には『振武隊 斎藤梅之進義友』と記されており、左には小さい字で書いている文字があるのですが、これは『討ち取った相手の首を取る代わりに袖章を取って、討ち取った状況を記している』そうなのです。
「慶応紀龍集戊辰七月廿五日暁 長岡回復之時於石内●●殺之 藤原祐國」
※すみません一部読み取れない所があります。
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ただの袖章は良く見ますが、こういう討ち取った時の状況が書いていあるのは珍しいかと冷や汗


そして、長岡市北越戊辰戦争伝承館の庭に大黒古戦場跡碑があります。

慶応4年(1868)の夏、このあたりは北越戊辰戦争最大の激戦地となり、長岡、会津、米沢藩兵らの奥羽越同盟軍と薩摩、長州藩兵らの新政府軍との間で幾度も激闘がかわされた場所で、付近の人びとは、その勇戦を讃え碑を建てました。
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普済寺は藩主の菩提寺の一つで、ここには少年隊士在名碑戦死供養塚「致命所事嗚呼哀哉」碑という戊辰戦争の慰霊碑らしき碑があります。かなり階段を上がった藩主墓前にあります。階段がなまった体に辛かった冷や汗
でも、紅葉がとっても綺麗でした~momiji*

少年隊士の墓は、長岡藩士の少年兵で「西郷勇英久(16)/5月妙見にて負傷、後生家にて死」、「三間豊蔵正英(18)/7/25新保村にて負傷、8/25会津城下にて死」「牧野金太郎(17)/7/29片貝にて戦死」の三名。
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栃尾にある西巌寺会津藩士成田悌次郎墓お墓、徳力金吾墓お墓、雪下辰治墓長岡藩士風間太五右衛門墓お墓
最初下の駐車場に、ひたすら階段を上って「秋葉公園」に辿り着いてみると、まさかの車が…しかも道路に沿ってる……挙句、公園にあるのかと思いきや、公園を通り過ぎて道を渡った墓地へ…???遠回り??(笑)
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お昼ご飯ごはんは、栃尾の「道の駅R290とちお」 栃尾名物の「油揚げ」ハートです。
栃尾のあぶらあげは、分厚くて周りはカリカリで、中はふわふわで絶品ですハート表のあぶらあげ焼き立て販売ワゴンでは常に行列が絶えませんでした冷や汗
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次に、三条の赤坂古戦場跡へ。
木の根元には村松藩士金子喜兵衛墓があります。
慶応4年の5月村松藩を主とする奥羽越列藩同盟軍約五百名が駒込の石動社から観音堂に陣取っていたが、6月1日鹿峠・長沢の同盟陣地を背景として赤坂の敵を総攻撃。村松藩は米沢・会津藩と共に松代藩を加えた新政府軍と激戦を行う。村松藩はこの戦いで隊長青木剛八が戦死、軍監奥畑傳兵衛は十数人を切り倒したが狙撃で倒されてもまた立ちあがり勇猛な戦い振りは後世に語り継がれた。同藩の戦死者は金子喜兵衛(下写真墓)、皆川亀治、内藤伝太郎、渡辺延平、船山石平の七名であった。
実際の古戦場は裏手の松林である。
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見附の不動院小栗山古戦場記念碑へ。
表には山縣有朋の歌が刻まれ、裏面に小栗山古戦場の説明が刻まれた大正15年6月に建立された碑です。
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本当はこの後加茂方面に行く予定でしたが、雨は降らないまでも空がどんどん暗くなり、通常よりも早く日が暮れてしまい到底辿り着いても見える明るさではないので断念涙


本日の宿は新潟市内。


夕飯は、途中コンビニで休憩した時に「新潟」のガイドブックで見た新潟駅近くの「翔ぶが如く」 という店。ガイドブックには「地ビール飲み会♪、地酒熱燗、地元の食材」という言葉に釣られて行ったんですが、店の名前に一抹の不安はあったものの、ガイドブックの御当地グルメの紹介だし「地ビール・地酒・地元食材」って書いてあるので偶然と思って行ってみたら、まさかの完全新政府軍中心。薩摩を中心とした九州料理・・・…騙された…・・・とりあえず新潟地ビールの「スワンレイクビール」飲み会♪で乾杯。阿賀野市のビール飲み会♪のようですね。
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早々に2軒目に移動。


携帯で調べて駅近くの「越後番屋酒場」 という居酒屋飲み会♪へ。『ここ一軒で新潟県』のフレーズに釣られ、行ってみたのですが、お店のコンセプトも面白いし、味も美味しかったです。
くじらの刺身や枝豆、どれも美味しかったし、最後にお味噌汁のサービスもあったし、お店を出るときに店員さんの「火打ち石」での厄除け縁起担ぎとしての切り火で送りだしてくれるのも嬉しい。
月虹徒然日記
晴れ、AM5:30に仙台駅前に到着車
マクドナルドhamburger*で朝食を取って、竹さん・KOKOさん、そして、前泊していた羽角さんと合流して一路越後車へ。

仙台からひたすら走る車こと5時間程。
途中米山SAにて休憩しましたが、ここから日本海が見えてキレイでした!
月虹徒然日記

上越高田に到着。
高田は大佗坊さん・ApplePeachさんとひたすら謹慎寺を廻った時冷や汗以来です。

まず金谷山官軍墓地お墓と、会津藩墓地お墓へ。すでに3度目という事にビックリ冷や汗
八重の桜桜の影響か、綺麗な案内板が出来てました。

月虹徒然日記

月虹徒然日記

高田城址城
こちらも前回同様特に変わりも無く。
基本、高田は前回行ったトコばかりなので、こちら をご覧下さい。

月虹徒然日記

最後に高田の図書館book*へ。
立派な郷土史料コーナーがあって、目移りしましたが、時間も無いので2種類位一部コピーして、後ろ髪引かれながら図書館book*を後に涙

とにかく、良い天気晴れで上着がいらない暖かさでした冷や汗

ちなみに、北越戦争というと、もちろん長岡藩、会津藩、米沢藩、桑名藩なんかの参戦が有名ですが、あまり知られてないながら庄内藩も出兵させてます。

5月11日
小隊長兼主将 士25人 石原多門
小隊長 士25人 石沢清兵衛
大砲隊長 徒28人 榊原十兵衛
大砲分隊令 徒28人 田中弥和太
銃隊頭 4箇銃隊 服部十郎右衛門
幕僚は軍監 石原友太夫(石原莞爾の祖父)
軍目 関茂太夫
周旋方 犬塚又兵衛、鱸孫治、
探索方 中村又太郎
※以下5人は臨時に新徴組から派遣され、北越諸藩の向背を偵察し、同盟軍への出兵を求めるなどに動く。
軍医 小池仲恵(医師格)、栗本節安(儒医栗本道意の嫡子)、鳥海綱道、
輜重 石原利兵衛、西堀総太夫、安部藤蔵、重田安太夫、黒崎又四郎、相良文八郎等約400人余とみられる。

とりあえず、あまりに北越戦争でも庄内藩の存在の知名度の低さったら…って事で、庄内藩の動向に力入れて書いてみたいと思います。

5月18日水原軍議所での作戦地域画定に於いて協議するが、浜手は桑名・衝鋒隊が戦い後退、会津の佐藤駒之進の新遊撃隊と水戸脱走兵も大兵に攻められ苦戦していたから会・米共に浜手方面を嫌がり議論が決せず、最後に石原多門が「庄内藩は事のやさしい、むずかしいで選り好みをしたくないので、どの方面でも引き受けましょう」と言い、庄内藩は弥彦方面の浜手担当に決まる
庄内四百、会津二百、村上百五十、山形二百は弥彦に拠って弥彦峠、浜手、中島方面担当となる。

御野立公園鯨波古戦場跡へ。
鯨波は以前に来たことあるのですが、ココは初めて。前回は海見て帰りました(笑)
でも、谷干城の忠魂碑があるはずなんですが、とにかくかなりの藪過ぎて断念しました下げ


柏崎の勝願寺。ここは桑名藩本陣跡碑桑名藩戦没墓お墓桑名藩戦没碑があるお寺で、本堂脇には碑が建立されてます。桑名藩主松平定敬書の山号額があるとなっていて、でも本堂に掛かっているのは違いそうだな…というとこで御住職が出ていらして、伺うと本堂内部にあるという事で出掛け際でしたが見せて頂けました。お寺も弘化4年建立で、約165年程経過しているそう。山号額は慶応3年の日付になっていて、御住職が上洛した際に書いて頂いたものとのこと。本当は陣笠などもあるらしいのですが、時間の関係で見られず。立派な太鼓も桑名藩士が皮を破いたらしいのですが、張り直してしまったそうで、面影はありませんが偲ぶ品でしょう。更に、桑名藩士墓の側にある、、、の墓というのも、桑名藩士で、、、だった人物との事。見つけられませんでしたが、会津藩士の墓お墓もあるとか冷や汗

月虹徒然日記

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出雲崎護国神社へ。ココは戊辰戦争戦死者墓お墓戊辰戦争戦死者追悼碑があります。

鳥居脇に戊辰戦争戦死者の追悼碑と、奥の右脇に戊辰戦争戦死者の墓があります。
戦死者墓は詳細な説明は無く、東軍西軍どちらのものか、もしくは両方含めたものかは不明ですが、碑には「櫻井松平」の名前が。調べてみると、「櫻井松平」とは松平宗家5代松平長忠の次男松平内膳信定を祖とする松平氏の庶流で、三河国碧海郡桜井を領したことから桜井松平家といわれたようです。
十八松平の一つで、その後は転々とし最後戊辰戦争の頃は摂津尼崎藩で、鳥羽伏見の戦い直後に新政府軍に恭順しているので、もしかしたら西軍側なのか???
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6月24日の戦いでは庄内藩からも中村小隊半隊長中村陽之助、中村隊三浦間右衛門、山田隊村上弥藤太、伴隊弭間松助・三宅隊松浦石蔵の五名が戦死、負傷が小隊長三宅弁治以下17名。会津藩戦死は9名、桑名2名。

寺泊の常禅寺へ。ココは桑名藩士の墓お墓が。
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同じく、寺泊の聚感園へ。
ココには長州藩士の大村益次郎を暗殺した五十嵐伊織墓お墓があります。公園になっている聚感園の階段上の方でヘトヘトでした冷や汗

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最後に、すぐ近くの聖徳寺へ。
ココの御住職(野崎大蔵/円一)が戊辰戦争に参加して戦死したという碑が本堂近くに建立されてます。
新政府軍の桂太郎隊に属し、秋田戦線の8月14日角間川の戦いで21歳で戦死したという。
まさか、ここで庄内藩の名前を見ると思いませんでした冷や汗
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ちなみに、5月23日榊原十兵衛は相良文八郎を伴って寺泊に留守する大砲隊長中根米七を訪ねている。寺泊の会津藩兵は僅か50名、他に観音寺村の親分松宮雄次郎が手下100人ばかりで加勢してくれているだけで他に応援が無いと言い喜んだという。
そして、その要請に応えて庄内軍は石沢清兵衛隊が寺泊に26日から移陣しました。

28日会津結義隊長渡部英次郎が庄内陣に来て出兵を依頼。島崎の敵を一掃する申し出に、えたりと安部藤蔵銃隊が10時頃寺泊を出発し、島崎の敵を一掃。この時加賀藩関原源左衛門と高田藩川島左京を討ち取り、生け捕り7名という。
この頃中村七郎右衛門隊が増援として5/30に鶴城を出発。弥彦・寺泊に陣していた石原多門の元を村上藩の隊長島田丹治が訪れ、庄内藩の指揮下に入りたいと申し出て了承し、弥彦の守備を村上隊に一任し、石原隊は全て寺泊に進駐した。この村上藩の島田丹治はのちに庄内軍と共に羽越国境防衛戦を戦っています。

また、6/2浜手北野で戦闘があり桑名藩兵の請いに応じて寺泊から黒崎又四郎小隊を急派している。北野の桑名陣を敵が急襲、雷神隊が応戦、そこへ会津藩兵が来援し、さらに庄内へ救援を依頼している。庄内兵は北山に拠って俯撃し
敵は狼狽し出雲崎に退却していった。
この戦いで桑名藩神風副隊長小森民五郎(28)戦死。会津藩兵3名戦死。庄内兵の損害無し。
西軍は薩摩5、加賀5、高田2の戦死を出している。

史跡巡りは終了。すぐ近くの寺泊市場fish*で暫し自由行動。
イカ焼きイカ焼きや、つぶ貝串など美味しくて満喫しました~!ただ、残念な事に閉店直前だったので結構店じまい始めてました。帰る日だったら海鮮類も買うけど流石に断念・・・
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ちなみに、寺泊沖では幕府が所有していた蒸気船で旧幕府軍の一艦として新潟港への軍需物資を輸送していた順動丸が薩艦乾行丸(164トン)と、長艦丁卯丸(236トン)の二艦をによって攻撃を受け座礁の上、自焼しています。


夜は長岡宿泊。ホテル近くの「魚魚や」 で新潟グルメ堪能。
白子ポン酢や、白えび揚げ、白魚刺し・・・幸せですね~heart

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6月11日会津藩隊長が来て村田の敵を掃蕩する作戦を申し出、12日石原多門と服部銃隊長とが二手に分かれて南下。本来委は村田手前の浜手落水と与板道を進む会津兵と合流し、兵力を集結した上で一斉攻撃の予定をしていたが、先行の会津佐藤隊が戦闘を始めてしまい、庄内軍は急遽応援に向かう。この戦いで服部が佐藤に「なぜ勝手に先に発砲したのか」と詰問すると「村田山の敵番兵が撃ってきたので交戦に及んだ」と言い、服部は「それでは味方の主力が到着前に敵は大勢をととのえ、みすみす不利を招くではないか」とたしなめる。服部は日記に「会津兵は各個には勇敢だが無統制で集団戦闘んは熟していない」と記している。
昨日書き込みしたように、今夜から越後戦線に向かいます{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/ma/marble-10cho21ap/1338.gif}

久しぶりの夜行バス。
20代ソコソコの頃は、夜行バス結構京都や名古屋へ使ったけど、もう体力的に使わなくなりましたね{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/s0/s0111012/2539.gif}

そして、東北急行バスは初めて使うので、乗り場すらわからん。

とりあえず、会社終わってから大宮駅の駅ナカで夕食取ったりして、駅ナカも閉店するので、仕方なく東京駅へ向かう。

しばらくしてから、常盤さんと合流して一安心{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/pi/pink---rose/34719.gif}

思ったより寝心地は良いバスで良かった~{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/pi/pink---rose/34719.gif}これなら仙台まで熟睡出来そうです{http://ucs-emoji.ameba.jp/img/user/8k/8kagura8/3768.gif}
明日の夜に久しぶりの夜行バスで仙台入りして、この3連休は越後戦線です。

昔はよく名古屋や京都に夜行で行ったものですが、もう体力的にキツくなって夜行バス使わなくなったので、えらい久しぶり。

5月から決まってた旅行なのに、時間いっぱいあると思ってたら、気が付けばもう明日から……。全然調べてる余裕無かった~何せ、最近庄内ばかり調べてましたσ^_^;

「初孫」


とは言っても、別に私の…っていう訳ではなく、日本酒熱燗の銘柄です。


「東北銘醸」という会社が出している日本酒なのですが、今日庄内藩について色々調べていたら、この東北銘醸という会社は元々酒田で回船問屋をやっていた佐藤久吉氏が、庄内藩士酒井悌一郎氏から醸造技術を教わり「金久」という銘柄を出したのが始まりとの事。

そして、この金久は昭和初期に「初孫」に名前を改名しているのです。


そして、この酒井悌一郎氏は酒井奥之助家ハート