朝、始発の電車に乗ってAkiさんと一路

仙台へ。
今回は日帰りです

びゅうの日帰りプランで格安のを発見したので、すんごいお得に

仙台駅に行くのは、すっごい久しぶり。…あれ?もしかして盛岡以来??少なくとも震災以後は初めて

駅で竹さんと、KOKOさんに合流して、今回の目的地新庄とかみのやまへ。
新庄では、10/21迄で「新庄ふるさと歴史センター」で
「戊辰戦争と新庄藩」
小規模とは聞いていたのですが、それでも玄蕃様が大活躍の新庄での戊辰展となれば行かない訳に行きません(笑)

でも、ツっこまれて気が付いたのは、新庄からすると敵方なんですよね(苦笑)

建物の表には「戊辰戦争と新庄藩」の展示案内すら無く、本当にやっているのか不安になりながら館内を回ると、2階の歴史民俗資料展示室の一角。本当にパンフレットには「企画展示館」…館と書いてますが、実際には「企画展示コーナー」的な規模。
ふるさと歴史センターを出て、折角なので新庄城へ。
お昼ごはん

は途中東根の
「桃山」
という蕎麦屋さんで、山形名物の
山形肉そば(冷)。
そこから、寒河江の左沢「称念寺」にある
柴田小文治墓へ。前に一度チャレンジして見つけられず断念したトコ。山門入って左に立派なのが建ってました

柴田小文治(1813~1882)は左沢の侠客で、左沢の博徒の親分末吉と争い殺害。戊辰戦争が起こると子分22人を率い、また次男の雄蔵が子分17名を率いて庄内藩に編入となる。閏4月の天童攻めで活躍、7月5日家中組に召抱えられ緑百石給与、組下は足軽となり寒河江詰を命じられ、長男友七には7人扶持年手当15両が与えられた。のち秋田攻めにも参加し、戊辰後は左沢に帰り遊女屋を営んだ人物。
そして、以前に一度行った柴橋代官所跡。
河野俊八が代官をやっていたトコですね。
河野俊八の墓は今谷中にあるようなのですが、まだ見つけられず…

そして、今回初めての長崎落合口古戦場跡
ここは閏4月4日に庄内藩と山形・天童藩との間で戦闘が行われた場所で、「戊辰庄内戦争録」によると、
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一、左澤ヨリ船ニテ下リ長崎ヨリ上陸 (中村)次郎兵衛、(石原)藤助、(堀)平大夫
一、天童向島渡リ (服部)純蔵、(土屋)新三郎前三人ニ次テ渡ルヘシ
一、仁田ノ渡リヨリ 中村省造ノ(最上)農兵、(萱野)正助
一、野田ヨリ (中村)七郎右衛門半隊、(俣野)市郎右衛門
一、溝延ヨリ (高橋)金蔵、(平林)祐吉、(宮坂)文右衛門
一、谷地ヨリ 吉之丞本陣
一、寒河江ヨリ (酒井)兵部本陣、(水野)藤彌一小隊
一、蔵増ヨリ (中村)七郎右衛門カ半隊
右ノ手配ンテ天童エ可打入事
(中略)
閏四月四日天明ニ総軍押出セル中ニ(堀)平大夫(石原)藤助(中村)次郎兵衛昨夜ヨリ左澤ニ向フヘキ手筈ニテ大運寺ヨリ繰出シ四艘ノ船ニ乗平大夫隊ハ長崎渡場上ヨリ上陸シ次郎兵衛藤助ハ落合手前ニ上陸シ直ニ砲戦ス平大夫隊砲聲ヲ聞テ駈着シニ戦最中ナル故東南ナル菜及麥等ノ生タル中ニ兵ヲ布テ進ミタルニ敵所ニヨリ出來ルヲ千坂力彌抜(大内義春コト次郎兵衛ニ属セル戦士ナリ)刀シテ立向フ所ニ敵力彌ニ切テ掛ル暫シ戦テ力彌其敵ヲ斃シ首級ヲ得(天童藩井上文蔵トアリ)平大夫出榎本斧太接戦シテ敵一人ヲ切同隊兼子傳之助敵一人砲殺ス二人トモ首級ヲ得味方透サス追掛タルニ敵三十人計集居テ朝食ヲ喫セシ所ニ発砲スレハ狼狽シテ走ル其邊ニ設ケ置タル大砲モ捨去ル川ニ沿テ引ナカラ発砲セシヲ味方横合ヨリ打掛シニ北方ノ敵モ亦退ク林茂平治(平大夫組)敵一人ヲ斃シ藤彌トトモニ二軒屋ニ放火ス平大夫尚敵ヲ追フ蔵増村外れニ駈行タルニ同村西北ニ當リ砲聲頻リニ聞ユレハ藤助トトモニ天童ニ打入ント引返ス斯ル所ニ先ンセシ味方所々ニ放火ス之ヲ制セント金蔵川ヲ渡テ進ミ來ル(平林)祐吉(萱野)正助川ニ沿テ追來レハ仁田ノ方敗レタニルヤ火煙高ク見エケレハ川向ノ敵色メキ立テ散走ス祐吉正助船ニ乗テ追掛ル敵農家ニ入ルカト見ユレハ味方又放火ス(宮坂)文右衛門正助等川越シニ砲戦ス船ナク渡リ兼シヲ百姓体ノ者川上ニアリテ招キツル故駈行テ其船ニ乗両隊渡テ敵ノ陣屋ニ打込ミシニ敵ナシ夫ヨリ天童エ進ム途中大沼祐治(文右衛門隊)後レ來ルニ見馴ヌ者二人ケールヲ携來ル祐治飛掛テ二人ヲ縛ス此時味方落合テ力ヲ添タレハナリ味方ノ兵隊諸方ヨリ城ヲ差テ進撃スレハ敵人家ヲ楯ニ取テ頻リニ発砲ス味方風上ヨリ火ヲ放テ攻立レハ敵城ヲ捨テ走ル火煙盛ンニ風又烈シ城市暫時ニ焼亡セリ依テ兵部カ一軍ハ天童ヨリ西北ン畑ニ引上此夜長瀞ニ宿陣吉之丞ハ若木ニ引上此夜楯岡ニ宿。
(中略)
石原藤助覚書「天明落合村ニ上陸シテ探索セシニ同所ニ山形勢守居タルト云レハ直ニ敵陣ニ向ヒシニ敵兵駈出タル故藤助立向テ何方ノ藩ナルト問フニ答エスシテ発砲セシ故止ムヲ得ス陣所ニ打入接戦ニ及タルカ暫時ニシ退走ス敵五人打取大砲一挺小銃二挺ヲ分捕ル直ニ仁田ニ応援シ(以下略)」
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ざっくり言うと、庄内藩士石原藤助・堀平大夫・中村次郎兵衛の三隊が善や大運寺を発して左沢へ移動、舟四艘で最上川を下り、長崎・落合で上陸。守備していた山形藩守備兵と交戦。最も早く戦場に達して寺津守備の天童藩支隊と銃撃戦を開始。 天童兵は退却していった。
この日の戦闘での庄内藩の死者は四名。長崎では「小文司組 福田傳一郎」の一名のみ。
イヤイヤ、結構ノーマークでしたよ

玄蕃サマは長崎落合自体には布陣してないけど「長崎落合口の戦い」なんてピンポイントでいうからピンとこなかったけど、天童の戦いの中で、中村次郎兵衛、石原藤助、堀平大夫の隊が布陣した場所ですね
そうと知ってたら、もっとガッツリ浸って来たのに~
浄光寺の金子与三郎墓。
金子与三郎清邦は上山藩の家老だった人物で、薩摩藩邸焼き討ちの際に戦死してます。
もしかしたら一般的には、清河八郎が暗殺される際に訪ねた「友人の金子」で有名かもしれないですね。
仙台藩大槻平泉の門下となり、仙台藩校養賢堂に入学し、のち昌平坂学問所で学んだ。とにかく秀才です!!のち弘化4年25歳で藩校明新館の都講となり、藩校の改革に尽力した事で評価されて中老になった。ちなみに江戸で清河八郎が暗殺された際に訪ねた友人の金子というのが与三郎の事でした。
そして慶応3年12月25日の薩摩藩邸焼討の際は、上山藩は裏面を固めており、邸内から逃げ出す薩摩側突破口の正面となり、与三郎は流れ弾が当たり重傷を受け翌日45歳で死去。本当に惜しい人物を失ったもので、生きていたら戊辰戦争でどんな政治的活躍をしたのか、明治期にどんな活躍をしたのか見てみたかった人物です。
最後に久しぶりの「上山城」へ。
敷地内の月岡神社の入口脇に金子与三郎の頌徳碑があります。立派な碑の周りには漢文がいっぱい刻まれてます。
上山城の中は展示室になっています。
本丸西側に西内堀が残り、この他、土塁、石垣の一部と庭園が現存していて、また他に、薬医門形式の門が山形県南陽市の「いきかえりの宿 瀧波」という旅館に、城内にあった兵糧米保管庫の籾蔵が市内御井戸丁の某家に、それぞれ移築され現存しているそうです。
そこから天守閣の資料館へ。
資料館では「幕末維新と明治 近代かみのやまへの転換展」が前期10/6~10/26、後期が10/27~11/24でやっていて、大きくは無いものの、すっごい充実した展示で図録が欲しかった。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
金子与三郎の書や頼三樹三郎の墓碑銘拓本、山内典子の遺書など心浮かれるものばかり。特に山内典子の遺書などは凄かった!見れて良かったです

残念なのは、後期に庄内藩旗や庄内藩兵肩章、薩摩屋敷焼撃之図、操兵練志録、等々庄内藩関係が多いコト

これで、今回の目的は完遂したので一路仙台に戻る

コトに。
通常のメニューではなくて、限定メニューで「松島コース」という牛タン尽くしのコース料理。牛タン焼き(漬け物、南蛮味噌漬け)、牛タンシチューハーフサイズ、牛タンのつくね、牛タンいぶりのサラダ、麦ご飯、とろろ、テールスープで、結構豪華で美味しかったです

19:13の新幹線

で一路帰郷。
最後にAkiさんへ

石川朝暘。石川猪大夫の関係ではありましたが、言ってたのとは違いました(てへぺろ)
1762年~1835年、石川光元の子で、祖父が石川猪大夫の次男として生まれて100石を給されて一家を創設。寛政10年から藩士に儒書を講じ、同12年藩主侍読、同年御抱守。文化2年近習頭取に選ばれ4年5月まで在任。その後藩校入費取締役、側用人を経て14年小姓頭、5月致道館祭酒を兼ねたが文政4年病の為祭酒を辞し、同12年隠居。加増を重ね400石を給された。74歳で没し鶴岡洞泉院に葬られる…だそうですヨ。儒者だそうですヨ。
ちなみに、私が言ってたのは「石川(淡水)正庸」と「石川(淡遷)静正」の兄弟でした