メディチ家(雑)研究・その7 | スーラ・ウタガワの「画家ごっこ雑記帳」

スーラ・ウタガワの「画家ごっこ雑記帳」

画家ゴッホではありません、画家ごっこです。

浮世絵名所の再発見をコンセプトに自分の気に入った名所を探して油絵を描いています。

そんなリタイア後の画家ごっこライフや、美術についての受け売り雑話をアップしているブログです。


メディチ家出身のローマ教皇誕生


華王ロレンツォの長男アホのピエロは追放後、フランズ軍と

ともにいたが、大砲を船で運送中に河で溺死(本当に不運な男だね)

その結果、枢機卿であった次男のジョヴァンニ・デ・メディチが

メディチ家の頭領として家門の復興を担うことになった。


この男はなかなかやり手で、当時の教皇ユリウス2世にミケランジェロを

紹介して、「天地創造の天井画」を描かさせたり、ラファエロをつれてきて

「アテネの学堂」をやらせたり、はたまた隠し財産を提供してご機嫌を

とったのか、詳細は謎だが、ユリウス2世の信頼を得てスペイン軍とともに

フィレンツェに進軍し、再びメディチ家の支配下においてしまった。

さらにユリウス2世の死去にともない、なんと教皇に即位したのだ。


ローマ教皇レオ10世である。この方


教皇レオ10世肖像
レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)
在位:1513~1521年
メディチ家伝統の華麗なメチェナティズモ
(美術・文学などの様式)を教皇庁に持ち込み
ローマをイタリアの芸術と学問の最大の中心地
とした。


さらに、1代おいて、もうお一人メディチ家から教皇に即位されています。


それがこの方


教皇クレメンス7世肖像
クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)
在位:1523~1534年豪華王ロレンツォの弟
ジュリアーノの長子、レオ10世の従兄弟。

息子のアレッサンドロをフィレンツェ公にして
メディチ家はついに正式な君主となった。
また、フランス王家に一族のお姫様の
カトリーヌ・ド・メディシスを嫁がせている。
(未来のフランス王妃となる)


しかし、このお二人の時代は文化的には熟爛したが、

政治的には大変な時期で、レオ10世のときはルターがプロテスタントを

たちあげ、ヨーロッツパはカトリックとプロテストに二分されて大騒ぎ
((>д<))


クレメンス7世はフランスとドイツ(神聖ローマ皇帝)の両大国に翻弄され、

とうとう皇帝軍のドイツ人傭兵部隊、あの悪名高いランツクネヒト軍団が

ローマになだれ込んできた。

<1527年:ローマ攻略(サッコ・ディ・ローマ)>世界史を復習してね。


また、1534年には絶倫男のヘンリー8世の離婚・結婚問題でギリスが

英国国教会をつくり正式にカトリックから分離した。トホホ・・・



では、気分を変えてこの時代の前後も含めて活躍した

ルネッサンスの三大芸術家、

ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチの

ルネッサンス盛期の代表的絵画作品をみてみましょう。


ミケランジェロさんからどうぞ



システィーナ礼拝堂内部
バチカン宮殿・システィーナ礼拝堂内部の天井画 と壁画 
フレスコ・天井画(36x13m) 壁画 (13.7x12.2m)
神と世界の全貌に迫る、史上最大の絵画と讃えられている。



え、小さくて見えない?

仕方ないですね、では天井画の一部分を拡大してみましよう



デルフォイの巫女
デルフォイの巫女(システィーナ礼拝堂天井画・部分)
フレスコ・350x380cm

ギリシャ神話で預言の能力を持つとされた巫女を描く。
ミケランジェロの描いた女性像のなかでも、もっとも美人像として
賛美されている。


ミケランジェロは「私は彫刻家だ。」と主張されているので、彫刻も・・・

メディチ家墓所
ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑
フィレンツェ:サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
1520~34年 大理石
このジュリアーノは豪華王ロレンツォの子であり、レオ10世の弟にあたる人物。

この、中心にあるジュリアーノの像は美術の勉強で石膏像「メディチ」と

してデッサンの教材に使われているよ。


メディチ半身像
ジュリアーノ像・部分(石膏像メディチの原型)


(陰の声:阪神淡路大震災のとき、ごっこスーラが学生時代から持っていた

石膏のメディチ像が机の上から落ちて割れてしまった。

これが、ごっこスーラ家、唯一の被害だったのは幸いだったが、

奥さんと子供が、「この像、気味が悪かったから、割れてよかったね(^_^)v」

と、言っていたのはいかがなものかな、)




まったくです。芸術は理解されない場合が多いですね。


さて、おつぎは誰からも愛されたラファエロさんです



署名の間壁画
アテネの学堂
フレスコ・幅7.7m・ヴァチカン宮殿「署名の間」
ラファエロは聖母マリアだけでなく、このようなダイナミックな絵画も
鮮やかに描き出す天才であった。


はい、はい、拡大部分図もどうぞ


アテネの学堂部分
アテネの聖堂・部分
プラトンと(左)とアリストテレス(右)が描かれている。
「真実は天上世界にある」と説いたプラトンは右手を上にさし、
「地上での実践」を重視したアリストテレスは、手のひらを大地にむけている。
また、プラトンの顔は、先輩のレオナルド・ダ・ビンチをオマージュして
描いたと伝えられています。


さて、おおとりはレオナルド・ダ・ビンチさんですが、

この方の作品は意外にも多く残っていないのだ。

この方は自分を芸術家だと思っていなかったふしがあり、

ミラノ公に提出した自薦状にも10項目のうち9までが軍事に関することで

芸術については最後に記するだけだった。


そんな訳で。残された絵画はわずかに十数点だけ、

しかも、いろいろ考えすぎて、大変遅筆であり、

パトロンと喧嘩して中途放棄もしたりした。

また新しい試みをするのは
いいのだが、

結果、完成後に絵の具が剥がれてきてボロボロの場合もあった。



この作品もそんな残念な作品の一つ


最後の晩餐
最後の晩餐  テンペラ・漆喰・420x910cm
ミラノ:サンタ・マリア・テッレ・グラツィエ修道院
絵遠近法と独特の構図を駆使した傑作。


最後の晩餐部分
最後の晩餐・部分(手の表情とテーブルの上の静物)
この部分だけでも、静物画としてすばらしい!
しかし、時間に追われるフレスコ画製法をとらずに、乾いた漆喰の上にテンペラで
描いたため、絵の具が剥がれ落ちてしまってい
る。(>_<) 


どうもローマと相性の悪かったレオナルドは、とうとうイタリアを離れ

フランソワ1世の招きにより、フランスへ旅立った。

あの「モナ・リザ」とともに・・・

かくして、「モナ・リザ」は現在フランスのルーブル美術館にあるのだ。


(陰の声:得しちゃったね、ルーブル美術館
o(^▽^)o )




    <メディチ家の(雑)研究:その7・つづく>


 


長々とブログを書いたので、少し疲れました。

私もレオナルドにならいパリへ・・・

行ける訳もないので、かわりに秋の信州へプチ旅行してきます。

では、行ってきま~す
(^O^)/



スーラ・ウタガワの
私撰:関西名所図絵・美術館のご案内


このブログの各ページで個別に発表した、スーラ・ウタガワ作品の
名所絵を場所別に集め「美術館」と称して再度アップロードしています。


第1室:大阪南部の名所図絵   開館中
第2室:大阪北部の名所図絵   開館中
第3室:大阪湾岸部の名所図絵  開館中
第4室:神戸地区の名所図絵   開館中
第5室:京都地区の名所図絵   工事中

*各展示室へのご入場(アクセス)はサイドバーのブックマークをご利用ください。

以上、ご案内申し上げます。     館長:スーラ・ウタガワ