メディチ家出身のローマ教皇誕生
豪華王ロレンツォの長男アホのピエロは追放後、フランズ軍と
ともにいたが、大砲を船で運送中に河で溺死(本当に不運な男だね)
その結果、枢機卿であった次男のジョヴァンニ・デ・メディチが
メディチ家の頭領として家門の復興を担うことになった。
この男はなかなかやり手で、当時の教皇ユリウス2世にミケランジェロを
紹介して、「天地創造の天井画」を描かさせたり、ラファエロをつれてきて
「アテネの学堂」をやらせたり、はたまた隠し財産を提供してご機嫌を
とったのか、詳細は謎だが、ユリウス2世の信頼を得てスペイン軍とともに
フィレンツェに進軍し、再びメディチ家の支配下においてしまった。
さらにユリウス2世の死去にともない、なんと教皇に即位したのだ。
ローマ教皇レオ10世である。この方
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/175.gif)
レオ10世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)
在位:1513~1521年
メディチ家伝統の華麗なメチェナティズモ
(美術・文学などの様式)を教皇庁に持ち込み
ローマをイタリアの芸術と学問の最大の中心地
とした。
さらに、1代おいて、もうお一人メディチ家から教皇に即位されています。
それがこの方
クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)
在位:1523~1534年豪華王ロレンツォの弟
ジュリアーノの長子、レオ10世の従兄弟。
息子のアレッサンドロをフィレンツェ公にして
メディチ家はついに正式な君主となった。
また、フランス王家に一族のお姫様の
カトリーヌ・ド・メディシスを嫁がせている。
(未来のフランス王妃となる)
しかし、このお二人の時代は文化的には熟爛したが、
政治的には大変な時期で、レオ10世のときはルターがプロテスタントを
たちあげ、ヨーロッツパはカトリックとプロテストに二分されて大騒ぎ((>д<))
クレメンス7世はフランスとドイツ(神聖ローマ皇帝)の両大国に翻弄され、
とうとう皇帝軍のドイツ人傭兵部隊、あの悪名高いランツクネヒト軍団が
ローマになだれ込んできた。
<1527年:ローマ攻略(サッコ・ディ・ローマ)>世界史を復習してね。
また、1534年には絶倫男のヘンリー8世の離婚・結婚問題でギリスが
英国国教会をつくり正式にカトリックから分離した。トホホ・・・
では、気分を変えてこの時代の前後も含めて活躍した
ルネッサンスの三大芸術家、
ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ビンチの
ルネッサンス盛期の代表的絵画作品をみてみましょう。
ミケランジェロさんからどうぞ
バチカン宮殿・システィーナ礼拝堂内部の天井画 と壁画
フレスコ・天井画(36x13m) 壁画 (13.7x12.2m)
神と世界の全貌に迫る、史上最大の絵画と讃えられている。
え、小さくて見えない?
仕方ないですね、では天井画の一部分を拡大してみましよう
デルフォイの巫女(システィーナ礼拝堂天井画・部分)
フレスコ・350x380cm
ギリシャ神話で預言の能力を持つとされた巫女を描く。
ミケランジェロの描いた女性像のなかでも、もっとも美人像として
賛美されている。
ミケランジェロは「私は彫刻家だ。」と主張されているので、彫刻も・・・
ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑
フィレンツェ:サン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂
1520~34年 大理石
このジュリアーノは豪華王ロレンツォの子であり、レオ10世の弟にあたる人物。
この、中心にあるジュリアーノの像は美術の勉強で石膏像「メディチ」と
してデッサンの教材に使われているよ。
(陰の声:阪神淡路大震災のとき、ごっこスーラが学生時代から持っていた
石膏のメディチ像が机の上から落ちて割れてしまった。
これが、ごっこスーラ家、唯一の被害だったのは幸いだったが、
奥さんと子供が、「この像、気味が悪かったから、割れてよかったね(^_^)v」
と、言っていたのはいかがなものかな、)
まったくです。芸術は理解されない場合が多いですね。
さて、おつぎは誰からも愛されたラファエロさんです
アテネの学堂
フレスコ・幅7.7m・ヴァチカン宮殿「署名の間」
ラファエロは聖母マリアだけでなく、このようなダイナミックな絵画も
鮮やかに描き出す天才であった。
はい、はい、拡大部分図もどうぞ
アテネの聖堂・部分
プラトンと(左)とアリストテレス(右)が描かれている。
「真実は天上世界にある」と説いたプラトンは右手を上にさし、
「地上での実践」を重視したアリストテレスは、手のひらを大地にむけている。
また、プラトンの顔は、先輩のレオナルド・ダ・ビンチをオマージュして
描いたと伝えられています。
さて、おおとりはレオナルド・ダ・ビンチさんですが、
この方の作品は意外にも多く残っていないのだ。
この方は自分を芸術家だと思っていなかったふしがあり、
ミラノ公に提出した自薦状にも10項目のうち9までが軍事に関することで
芸術については最後に記するだけだった。
そんな訳で。残された絵画はわずかに十数点だけ、
しかも、いろいろ考えすぎて、大変遅筆であり、
パトロンと喧嘩して中途放棄もしたりした。
また新しい試みをするのはいいのだが、
結果、完成後に絵の具が剥がれてきてボロボロの場合もあった。
この作品もそんな残念な作品の一つ
最後の晩餐 テンペラ・漆喰・420x910cm
ミラノ:サンタ・マリア・テッレ・グラツィエ修道院
絵遠近法と独特の構図を駆使した傑作。
最後の晩餐・部分(手の表情とテーブルの上の静物)
この部分だけでも、静物画としてすばらしい!
しかし、時間に追われるフレスコ画製法をとらずに、乾いた漆喰の上にテンペラで
描いたため、絵の具が剥がれ落ちてしまっている。(>_<)
どうもローマと相性の悪かったレオナルドは、とうとうイタリアを離れ
フランソワ1世の招きにより、フランスへ旅立った。
あの「モナ・リザ」とともに・・・
かくして、「モナ・リザ」は現在フランスのルーブル美術館にあるのだ。
(陰の声:得しちゃったね、ルーブル美術館o(^▽^)o )
<メディチ家の(雑)研究:その7・つづく>
長々とブログを書いたので、少し疲れました。
私もレオナルドにならいパリへ・・・
行ける訳もないので、かわりに秋の信州へプチ旅行してきます。
では、行ってきま~す(^O^)/
スーラ・ウタガワの
私撰:関西名所図絵・美術館のご案内
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第1室:大阪南部の名所図絵 開館中
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以上、ご案内申し上げます。 館長:スーラ・ウタガワ