メディチ家(雑)研究・その5 | スーラ・ウタガワの「画家ごっこ雑記帳」

スーラ・ウタガワの「画家ごっこ雑記帳」

画家ゴッホではありません、画家ごっこです。

浮世絵名所の再発見をコンセプトに自分の気に入った名所を探して油絵を描いています。

そんなリタイア後の画家ごっこライフや、美術についての受け売り雑話をアップしているブログです。


ロレンツォとボッティチェリ


大なる“豪華王” ロレンツォ・イル・マニフィコ、

父ピサロの死後、弱冠20才であとを継ぎ、優れた政治・外交能力を

発揮し、幾多の芸術家のパトロンにもなり、フィレンツェの最盛期を

現出させた男がこの方だ



ロレンツォ肖像
ロレンツォ・イル・マニフィコ
(本名:ロレンツォ・デ・メディチ)
1449~1492 年
イル・マニフィコは偉大・華美などの意味。
その華やかな繁栄に”豪華王”とも称された。


このロレンツォと年齢が近く、若い時から”タメ口”で付き合いして

いたのが、画家ポッティチェリだよ。

この人



ボッティチェリ肖像
ポッティチェリ
本名:サンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ
1545~1510年
ポッティチェリは通称、太っていた長兄のあだ名
ポッティチェロ(小さな樽)を受け継いだという。
ポッティチェリ=ぽっちゃり、日本語みたいだね(?)


彼は、フィリッポ・リッピの工房に入門し、

そこでメキメキ頭角を現して、ピエロに見いだされて

ロレンツォとも遊び友達になり、彼の黄金時代の画壇の寵児として

活躍したのだ。


ロレンツォが彼を評して言った言葉が残っている。


彼(ボッティチェリ)の

おしゃべりを聞くのは

なんと楽しいことか・・・


(諧謔詩『響宴」より)


別の資料ではこうも言ったと伝えられている。


食いしん坊で

ハエより厚かましい

おしゃべり上手の

ポッティチェリ


(陰の声:まあ、かなりおしゃべりだったようだね 
(=⌒▽⌒= )


人文の知識もあり、話好きで、いたずら好きの

陽気な楽しい男だったらしい・・・(若い時は
(;^_^A)


女性を描かせれば師匠フィリッポ・リッピゆずりの当代一の腕だったし、

メディチ家の人物も多く描いているよ。



ラーマ家の東方三博士
ラーマ家の東方三博士の礼拝 (1475年頃・テンペラ・板・111x135cm)
ポッティチェリ
フィレンツェ・ウフィツィ美術館

本作はメディチ一族の集団肖像画にもなっている。
聖母の左の黒衣の博士は祖父、老コジモ、中央で赤いマントの横顔の博士は父のピエロ、
彼と目を合わせる白い博士は、叔父ジョヴァンニ、その後ろの黒衣の男は弟のジェリアーノ。
そして、画面左で胸を張る赤い服の男がロレンツォ。
さらに、画面右端でこちらを見ている茶色い服の男はなんと、ポッティチェリ本人なのだ。
自画像を、ロレンツォと同じくらい大きい姿で描き込むできるほどの仲だったようだ。



そして、黄金期の20年間に次々と傑作をメディチ家の依頼で制作して行く。

春
春<プリマヴェーラ> (1482年頃・テンペラ・板・203x314cm)
ポッティチェリ
フィレンツェ・ウフィツィ美術館

この作品はロレンツォの一族の結婚を祝ってポッティチェリに描かせた
「祝宴図」と伝えられている。
研究家によれば「愛によって、人間は神の領域に達することができる。
花咲く森を舞台に神々が演じるドラマに、今、私たちは理想の愛と人間像を
うたったルネッサンスの思想をここに見る。」そうだ。

描かれている神々はすべて名前と役割が与えられているのだが、解説は面倒
なので、例によって興味のある方は自分でお調べください。


(陰の声:はい、もう大部長くなっているので次いこう!)


ビーナスの誕生
ヴィーナスの誕生 (1485年頃・テンペラ・カンヴァス・172.5x278.5cm)
ポッティチェリ
フィレンツェ・ウフィツィ美術館

この作品は古代ローマ以後、はじめて絵画史上に現れた全裸像と言われている。
4世紀にキリスト教が公認されて以来、神話は異教となり厳しく排除された。
しかし、ルネッサンスにより、神の似姿である人間の理想的な姿を描くことは
純粋にキリスト教的行為であると考えられるようにした、記念すべき絵なのだ。
これ以来、神の姿として描けば裸体画は許されるようになった。
蛇足だが、神の姿ではなく普通の人間として描いて、大スキャンダルをおこし
たのが、そう、あのマネの「草上の昼食」なんだよ。400年後の話だけどね。

この絵の絵画的素晴らしさや内容の神話については、あまりにも有名でみなさま
ご存知と思いますので省略させていただきます。


ポッティチェリの作品をもう1点ご紹介しよう。

いま、上野の東京都美術館で開催しているウフィツィ美術館展の

目玉作品といわれている作品です


パラスとケンタウルス
パラスとケンタウロス 
(1482年頃・テンペラ・カンヴァス・207x148cm)
ポッティチェリ
フィレンツェ・ウフィツィ美術館

ケンタウルス(人間のうちに潜む野獣性を暗喩)を知性と理性の
女神パラスが諭しており(イジメているのではありません?)
ルネッサンスの人文主義が唱える「人間のあるべき姿」を
表した絵と言われている。
また、女神の衣装には三つの指輪を組み合わせたロレンツォの
個人紋章が柄として描かれ、メディチ家を女神に暗示させている。
(陰の声:調子の良いポッティチェリはパトロンにゴマをすって
いるね(^O^)/ )


このように、メディチ家の繁栄とともに傑作を生み出してきた

ボッティチェリだが、ロレンツォの死去により、メディチ家が

没落して行くと、キリスト教原理主義者の修道士サヴォナローラの

影響を受け、作品はどんどん宗教画に落ち込み、創作活動は

急速に衰えて行ったという。

(陰の声:祇園精舎の鐘の声・・・だね(x_x;)


さて、それは少し先の話で、ロレンツォはポッティチェリ以外の芸術家も育てていて

少年ミケランジェロなどは自宅に住まわせてもいた。

当時のイタリアの代表的な美術家や著述家600人のうち、約三分の一が

フィレンツェのトスカーナ地方の出身者であったと言われている。

そして、ルネッサンスの精神をローマ、ヴェネツィア、ミラノ、マントヴァ、

ボローニャ、ウルビーノなどの宮廷に広めていた。

その方法の一つに、若きレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの

優秀な芸術家をどんどん各地の宮廷に送り出していた。


これが、ロレンツォ流の学芸保護であり、このため後にフィレンツェが

衰えてもルネッサンスの大輪はイタリア中に咲き誇り、

また北ヨーロッパまでも影響を与えたのだ。



しかし、盛者必衰は世のならい、さしもの栄華を誇ったメディチ家にも

大きな試練が待っていたのだ・・・



  <メディチ家(雑)研究:その5・つづく>




スーラ・ウタガワの
私撰:関西名所図絵・美術館のご案内


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名所絵を場所別に集め「美術館」と称して再度アップロードしています。


第1室:大阪南部の名所図絵   開館中
第2室:大阪北部の名所図絵   開館中
第3室:大阪湾岸部の名所図絵  開館中
第4室:神戸地区の名所図絵   開館中
第5室:京都地区の名所図絵   工事中

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以上、ご案内申し上げます。     館長:スーラ・ウタガワ