時間があったので、今さら・・・感もあったが映画「ヘルタースケルター」を見た。
主演の沢尻エリカのベッドシーン・ヌードといった話題もなり、沢尻エリカが舞台あいさつをキャンセルなどのドタバタもあったこの映画、マスコミ業界で働く者として、「見とかなきゃ!」と思っていたけどなかなか映画館に足を運ぶことが出来ずにいたのだ。
ストーリーや出来不出来はともかくとして、『沢尻エリカのために撮られたの映画』いうのが僕の感想だ。
主役のりりこと沢尻エリカの違いを感じられないほど役にハマっている。
役者にふたつのタイプがあって、ひとつは「どの役を演じても同じになる」タイプ、これは東幹久とか小栗旬といった俳優。
もうひとつは「役によって全く違うキャラクターになれる」タイプ、これは高良健吾や松山ケンイチみたいな俳優、あまりに映画ごとに違うので、見ているこっちのほうが戸惑うタイプ。
で、この映画における沢尻エリカだが、これが見ていてわからなくなるのだ・・・。
一般的なイメージ通りの沢尻エリカであり、それでいて役にもなりきっているといった、「ふたつのタイプ」が一つになっている不思議な感覚を持った。
こんな風に現実と虚構が被る状況を人間というのは耐えることができるのだろうか?
僕らの生活レベルに話を移せば、これってオンとオフがなくなるってことでしょ?仕事と遊びの差がなくなるってことでしょ?プライベートと仕事が分けられなくなるってことでしょ?恋人とのセックスを人に見せてお金を稼ぐみたいなことでしょ?考えれば考えるほど耐えられないと思う。
でも考えてみれば僕たちも生活の中で「演じる」部分が少なからずあるものだ。
父親を演じる、妻を演じる、子供を演じる、親を演じる、上司を演じる、部下を演じる・・・・。
観察に影響を受けない現実は無い・・・自分がどのように他人に見られているか、は自分自身の自己同一性確保のためには重要だ。
「自分が思う自分」と「他人に見られる自分」のふたつがあって初めて自分は成立する。
どちらがいいというわけでは無く、要するにバランスが大切なのだということをまた思い知るのである。
主演の沢尻エリカのベッドシーン・ヌードといった話題もなり、沢尻エリカが舞台あいさつをキャンセルなどのドタバタもあったこの映画、マスコミ業界で働く者として、「見とかなきゃ!」と思っていたけどなかなか映画館に足を運ぶことが出来ずにいたのだ。
ストーリーや出来不出来はともかくとして、『沢尻エリカのために撮られたの映画』いうのが僕の感想だ。
主役のりりこと沢尻エリカの違いを感じられないほど役にハマっている。
役者にふたつのタイプがあって、ひとつは「どの役を演じても同じになる」タイプ、これは東幹久とか小栗旬といった俳優。
もうひとつは「役によって全く違うキャラクターになれる」タイプ、これは高良健吾や松山ケンイチみたいな俳優、あまりに映画ごとに違うので、見ているこっちのほうが戸惑うタイプ。
で、この映画における沢尻エリカだが、これが見ていてわからなくなるのだ・・・。
一般的なイメージ通りの沢尻エリカであり、それでいて役にもなりきっているといった、「ふたつのタイプ」が一つになっている不思議な感覚を持った。
こんな風に現実と虚構が被る状況を人間というのは耐えることができるのだろうか?
僕らの生活レベルに話を移せば、これってオンとオフがなくなるってことでしょ?仕事と遊びの差がなくなるってことでしょ?プライベートと仕事が分けられなくなるってことでしょ?恋人とのセックスを人に見せてお金を稼ぐみたいなことでしょ?考えれば考えるほど耐えられないと思う。
でも考えてみれば僕たちも生活の中で「演じる」部分が少なからずあるものだ。
父親を演じる、妻を演じる、子供を演じる、親を演じる、上司を演じる、部下を演じる・・・・。
観察に影響を受けない現実は無い・・・自分がどのように他人に見られているか、は自分自身の自己同一性確保のためには重要だ。
「自分が思う自分」と「他人に見られる自分」のふたつがあって初めて自分は成立する。
どちらがいいというわけでは無く、要するにバランスが大切なのだということをまた思い知るのである。