時間があったので、今さら・・・感もあったが映画「ヘルタースケルター」を見た。
 主演の沢尻エリカのベッドシーン・ヌードといった話題もなり、沢尻エリカが舞台あいさつをキャンセルなどのドタバタもあったこの映画、マスコミ業界で働く者として、「見とかなきゃ!」と思っていたけどなかなか映画館に足を運ぶことが出来ずにいたのだ。
 
ストーリーや出来不出来はともかくとして、『沢尻エリカのために撮られたの映画』いうのが僕の感想だ。
 主役のりりこと沢尻エリカの違いを感じられないほど役にハマっている。
 役者にふたつのタイプがあって、ひとつは「どの役を演じても同じになる」タイプ、これは東幹久とか小栗旬といった俳優。
 もうひとつは「役によって全く違うキャラクターになれる」タイプ、これは高良健吾や松山ケンイチみたいな俳優、あまりに映画ごとに違うので、見ているこっちのほうが戸惑うタイプ。

 で、この映画における沢尻エリカだが、これが見ていてわからなくなるのだ・・・。
 一般的なイメージ通りの沢尻エリカであり、それでいて役にもなりきっているといった、「ふたつのタイプ」が一つになっている不思議な感覚を持った。

 こんな風に現実と虚構が被る状況を人間というのは耐えることができるのだろうか?
 僕らの生活レベルに話を移せば、これってオンとオフがなくなるってことでしょ?仕事と遊びの差がなくなるってことでしょ?プライベートと仕事が分けられなくなるってことでしょ?恋人とのセックスを人に見せてお金を稼ぐみたいなことでしょ?考えれば考えるほど耐えられないと思う。
 
 でも考えてみれば僕たちも生活の中で「演じる」部分が少なからずあるものだ。
 父親を演じる、妻を演じる、子供を演じる、親を演じる、上司を演じる、部下を演じる・・・・。
 観察に影響を受けない現実は無い・・・自分がどのように他人に見られているか、は自分自身の自己同一性確保のためには重要だ。

 「自分が思う自分」と「他人に見られる自分」のふたつがあって初めて自分は成立する。
 どちらがいいというわけでは無く、要するにバランスが大切なのだということをまた思い知るのである。
 
 6月にハーフマラソン大会に挑戦して以来、走ることにはまり、週に2,3回家の近所を走っている。
 最近はマラソンブームと言われているが、本当に街を走っている人が多い。
 そうした市民ランナーとすれ違うことも多く、そのときに日本人同士ではまず挨拶をすることはないし、こちらからもしない訳だが、すれ違うのが外国人の場合、彼らは必ず何らかの挨拶のアクションをしてくる。
 こちらも何となく「HI!」なんて返したりしてみる。
 何で日本は挨拶しないのだろうか?
 よく言われることだが同質性が前提の日本と違い、例えばアメリカとかは世界中からあらゆる人種が集まってきてそれぞれのバックグラウンドも違い、理解も難しいため、危険を回避する目的で初対面の人間とフレンドリーに挨拶する傾向がある、との説がある。
 確かに一時期アメリカに住んでいて、他人とはフレンドリーにして敵意が無いことを示す必要があると感じたことがある。
 僕自身は相手が外国人だとそれっぽくアクションするし、日本人だと何もしないという典型的な相手に合わせる日本人タイプ。
 おそらく日本人はほとんどの場合がそうではないかと思う。
 でも、日本人でも山登りとかですれ違うと「こんにちわ」って挨拶するよなあ。ジョギングと山登りでのこの行動の違いは何なのだろうか?
 
 日本人には「みんながやっているからやる」傾向が強い。だからランナー同士挨拶する人増えて、ある臨界値を超えるとみんなが走りながら挨拶するようになる気がする。
 外国人の場合みんながやっているから、というよりは「他人に関係無く生き残るために本能的にやる」のではないだろうか?
 最近中国にイベントの仕事で行ったときに、出演者でもあるDJがあまりにも愛想を振りまかないことに驚いたことがある。性格が悪いのではなく単にシャイだったようで、初対面の人たちがたくさんまわりにいるとそうなってしまうようだ。それがだんだん分かってくるとそのDJともコミュニケーション取れるようになってくる。
 これはほかの中国人にも多かれ少なかれ感じた傾向で、その理由は急速に成長し、海外との接点が増えている中国といえども、一般レベルではなかなか外国人と会う機会はなく、一般的な経験値が低いからなのではないかと。
 日本に置き換えれば欧米に比べて日本もまだまだコミュニケーション下手ということなんだろう。
 そうはいいながら、やはり今日も僕は走りながらすれ違うランナーに会釈さえすることができないのだ。

 
 なぜ人間は勝負をするんだろう?なぜ勝ちと負けを決めるのだろう。
 最近の学校教育について語られることのひとつに「生徒に順位をつけることの是非」がある。
 子供のあいだに優劣、序列を作ることが教育上よろしくないという考え方。競争の良し悪しについての議論でもある。
 「生徒は全て平等で勝ち負けをつけるのはおかしい」と考える人たちはオリンピックをどんな気持ちで見ているのだろうか?もしかすると「人間の能力で勝ち負けを決めるこんなくだらない催し」と言って見ないのだろうか?
 「平等」という考えの裏にはいつも「負けを認めたくない」という恐怖が潜んでいるように見える。
 「人間は皆平等である」という考え方には必ず「しかし・・・」という接続詞が続く。
 生まれや育った環境は決して平等でないことは誰だってわかっていること。親から引き継いだ資産で自分は一生貧乏を知らずに生きる人間もいれば、生まれたときから食べるものにも困り、十分な教育も受けられずに飢えの恐怖に怯えて一生過ごす人間もいる。
 生まれた瞬間から負けていることだってあることは厳然たる事実だ。
 でもオリンピックが4年に一度あるように人生の勝負は何度でも出来ると思いたい。いや、出来るかどうかは自分次第。
 そしてそのスタートは常に「負けを認める」ことから始まるのだと思う。
 勝率10%と聞いてそれをどう感じるだろうか。成功する起業家は「9回負ければ勝てる」と考えるのだそうだ。
 勝つまで負ける。「負けを認める」ことができるから次の勝負を臨む。
 人間の一生はその勝負の繰り返し。だからいくら子供時代にその勝負から逃げたところで、生きている限り必ず勝負を迫られる。
 だからこそ、祖国の誇りを書けて臨む勝負の場であるオリンピックに人は感情移入し熱狂する。
 
 ロンドン五輪女子サッカー決勝戦、日本対アメリカを見ていてそんなことを思った。
 アメリカのGK、ホープ・ソロのHPにアップされた写真がネットで話題になっていた。それは金メダルをかけたソロ自身と銀メダルを首にかけた日本選手との笑顔の写真。
 勝負のあとに生まれた「何か」を見ている我々も感じることができる素晴らしい写真。
 こんな素敵な人生の瞬間は「勝負」をするからこそ生まれるのだと心から思う。