昨日、日本の本当の中心は実は東京ではなく大阪なので無いか?という話を書いたが、この話を一歩進めて考えてみた。
 「センター・ペリフェリー理論」というのがある。文化人類学/社会学において、都市を「センター(中心)」と「ペリフェリー(周縁)」に分ける考え方で、今回の件との関連性で言えば常に新しい動きは「ペリフェリー」から生まれるという理論だ。
 「センター」は支配層であり、権威であるのに大して、「ペリフェリー」は大衆、被支配層であるが、歴史は常に被支配層が支配層の権威をひっくり返すことで進んで来たというのだ。
 当然、現在の「センター」は東京で、「ペリフェリー」は地方、今回の場合は大阪のことだが、場合によっては大阪だけでは無いのかも知れない。今回の大阪維新の会関係の注目人物である中田宏大阪市特別顧問は元横浜市長、東国原英夫は元宮崎県知事、と地方自治経験者。
 まさに「ペリフェリー」から新しい波が生まれていることを示す象徴的な人物ではないか。
 よく言われることだがアメリカ大統領はビル・クリントンが元アーカンソー州知事、ジョージ・W・ブッシュは元テキサス州知事で地方自治を経験した上で大統領になっているすなわち「ペリフェリー」の出身、オバマは州知事は経験していないものの黒人初の大統領である事実を考えると黒人であること自体が「ペリフェリー」であるとも言える。
 アメリカ大統領は常に「ペリフェリー」から生まれているのだ。

 東国原英夫さんが最近「明治維新で作った中央集権システムを検証し、その長所短所を分かった上で地方自治体にもう一度権限を委譲して行く時期」という趣旨の発言をしているが、時代はまさに「江戸/東京中心主義」の見直しの時期に入っているのかも知れない。
 僕自身が政治の世界を眺めてみるときに「東京中心主義」の大きい綻びのひとつが二世議員の台頭なんじゃないかと思っている。
 大阪維新の会という新しいムーブメントに対して今ひとつ新勢力に成りきれない新しい世代の政治家たち。自民党幹事長の石原伸晃、維新の会に近いが煮え切らない安倍晋三、維新の会に党員を奪われそうなみんなの党の渡辺喜美、みんな二世議員。
 昨日の維新の会の討論会に出席していた松野頼久、松波健太議員にしても参加議員同士で事前に口裏を合わせて来て「概ね政策に対する考え方が一緒」と平気で言うあたり「あなたはTPP反対じゃないんすか?松野さん!」と言いたくなる薄気味悪さがある。
 そんな彼らも二世議員。なんとなくお坊っちゃま育ちの打たれ弱さを感じる人たちだ。
 彼ら自身、僕と同じく「東京が日本の中心、だからそこで生まれ育った自分は地方出身者とは違う」というエリート意識を持って生きて来て、今その根拠の無い自信が揺らいでいるんじゃ無かろうか。
 僕自身はあまり政治にコメントすることは好きではないが、そんなことをぐだぐだ考えていると、今は本当に時代の変わり目、潮目なんだなあ、とつくづく思うのだった。皆さんいかがでしょう?
 
 僕は東京生まれの東京育ちで、自分を「東京の人間」と強く自覚している。
 東京は「首都」だし、世の中のほとんどの会社の本社は東京にあるし、世界の大都市と肩を並べられるのはやっぱり東京だし・・・と東京が日本の中心であると思い込み、その価値観を振りかざして育ってきた。
 あまり大きな声では言えないが、「あいつは田舎者だから」という悪口だって言うことがあったのは、自分が都会である東京に生まれ育った人間だというプライドがあるからだ。
 ところがここのところ、その考え方覆すような事件が巻き起こっている。
 それは橋下徹大阪市長を中心とする「大阪維新の会」の動きだ。
 今年の4月からニッポン放送毎週土曜日の「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」(13:00~15:00)という番組の担当プロデューサーとなり、大阪在住の辛坊さんとの打合せなどで度々大阪出張をするようになった。
 そして在阪の辛坊さんと話をさせていただいたり、読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」を見学させていただいたりして、東京では感じることが出来ない大阪の空気を感じるうちに今まで自分が抱いていた「東京中心主義」とでもいう考え方が激しく揺らぐようになっている。
 大阪を発信源とする日本を変えようとする動き。
 東京には石原慎太郎都知事という人もいるが、それとも違う若々しく、熱い正論と、かなり考え抜かれた戦略とそれを後押しする時代の波。
 「空白の10年」と言われた時代がもはや「空白の20年」と言い直されつつある停滞している日本を変えようとする動きは“やはり”関西からやって来た。
 なぜ“やはり”なのか。
 うすうす関東人は気づいているのだが、日本という国の歴史はほとんど関西・近畿地方が中心だった。
 関東が日本の中心になったのは鎌倉時代と江戸時代以降であり、それ以外の時代は日本の中心は関西だった。
 明治維新でさえ、主な動きは関西で起こり日本が変わった。
 関西人、大阪人のDNAの中には自分たちが本当は日本を動かす存在であり、関西こそが真の日本の中心なのだという自覚が埋め込まれているのではないだろうか。
 それをぼくが一番感じるのは自分がラジオの仕事をしているからなのか、マスコミにおけるニュース報道番組における関東と関西の違いである。
 その違いは簡単にいうと、東京には報道番組とバラエティ番組は作る人も内容も全く別物だが、関西には「報道バラエティ」と呼べるジャンルが存在することだ。
 僕の私見だが、関西の番組のほうが議論が自由闊達に交わされていると感じる。
 一般的な通念として、「関西のほうが放送基準が緩い」と言われている。
 それは東京だとアウトになのに関西ではセーフという事例が存在するということ。
 僕自身も関西でテレビを見ていて、「これは東京でアウトだなあ」と思うことがある。
 最近だと竹島問題や尖閣国有化の話題などで顕著だ。
 先週も出張先の大阪でずっと「竹島が日本の領土である根拠」についてバラエティタレントのハイヒールや北野誠が司会する番組があった。
 東京にはここまでオピニオンがはっきりしたバラエティはほとんど存在しない。
 よくよく考えると、ここまで情報テクノロジーが発達している日本で関東・関西にこのような差が生まれていること自体がおかしいのではないかという気持ちになる。
 その理由は自分も含めた東京人の「へたれっぷり」にあるのではないか?
 東京人が誇りにしていたはずのクールさ、冷静さ、客観的視点が、じつは第三者的な視点で当事者意識に欠けているだけなんじゃないかということだ。
 
 もしかすると時代は「東京的なもの」の見直しを迫っているのかもしれないし、明治以降の東京中心主義が作り出したマイナス面を修正するべきときが来たのかもしれない。
 そんなわけで最近東京人としての自分のレゾンデートル(笑)を深く反省している今日この頃なのだ。


 facebook上でシェアされていた「JPモルガン社長が『お金持ちと結婚したい美女』に語った言葉が秀逸すぎる!『美女はレンタルで十分!』」のエピソードが面白く、思わず納得してしまった。
 話の内容は簡単に紹介すると、「お金持ちと結婚したい美女」がどうしたらお金持ちと結婚できるのかをJPモルガン社長に書簡形式で相談しているもの。美女はいう「なぜお金持ちの妻たちのほとんどが特に可愛くもない平均的な容姿なのですか?」、それに対するJPモルガン社長はまず「あなたがやろうとしていることは『美』と『お金』の交換です」と話し始める。「もし『美』があなたの唯一の資産であるならば、それは『急激に値下がりする資産』です」と続け、取引には「短期保有」と「長期保有」があり、結婚は「長期保有」であると説く、その上で「賢い選択をするなら『急激に価値が値下がりするものは、売ってしまうか、レンタルするくらいで十分なのです」、「それよりあなたが年収50万ドル稼ぐ人になるのです。それがのアドバイスです」
 もっとちゃんと読みたい方はネットで探していただければと思うが、いやあ笑いながらも大変に納得。
 結婚とか恋愛とか曖昧なものを数値化することはとても難しいけれど、なんとクリアな考え方。
 ちょっといやらしいが人生で出会う様々な人を自分の資産であると考え、もしくは出会ったその人のどんな要素が自分にとって資産になるのかを考え、その資産を自分としてはどんなかたちで「保有」すべきか、「短期保有」なのか「長期保有」なのか?この考え方で最終的に豊かな人生を過ごすために必要な友人、知人を分けていく・・・残酷だが非常に明快だ。
 でもこの話が教えてくれるのは、最終的にモノと人の資産価値は自分で決めていくべきものだということ。
 他人が見てなんであんな女性とずっと一緒にいるのか?と言われても自分にとっては値上がりを続けていく「長期保有」に値する資産であればいいわけで、その自分が決める資産価値にしたがって生きればいいのだ。
 そしてまずは自分の資産価値を上げていくために何するかを考えることにしようっと。