「相性」は何も男女のことのみならず、最近思うのは飲食店との相性のことだ。
 「食べる」という行為は人間にとって当然のことながら本能的なもので、食べなければ死んでしまうわけだし、飢餓状態に置かれなくと「食べる」ことへの渇望は毎日湧き起こるし、場合によっては満腹なのに何かを食べたくて食べたくて仕方が無い、ということだってある。
 こうした人間の根本的な欲望がバックにある行為が「食べる」であり、人間にとって「何を」食べるのかは日々の大問題である。
 まあ、何を大げさに語ろうとしているのかというと、期待して出かけて飲食店があまりに期待外れだったときの落胆はいい表すことが出来ない、ということだ。
 
 先日、ある和食系のお店に出かけることにした。その店はかねてより気になっていた店で土鍋による炊き込みご飯が売りの住宅街の中にひっそりとあるいわゆる「隠れ家」系。
 この3連休の中日の日曜日によく行く近所のイタリアンに電話を入れるとあいにく一杯だという。何軒か馴染みの店に電話をするがやはり満席。やはり月曜祝日の前日の夜は混んでいるな、などと思いながらネットで近所の店を検索、そのときにたまたま思い出したのがその店だった。
 ホームページを見るとそれなりにお洒落で素敵な雰囲気。ちょっと気になったのはテレビ番組の取材について少し『自慢げ』に書いてあったこと。でも電話をしてみるとそれなりに丁寧な対応で空いているという。これはラッキー!と思い予約。
 自宅から歩いて向かう。思ったより遠くて時間がかかり、予約時刻を過ぎて到着。
 外観は住宅街の中にあって雰囲気がある店構え。席に着くと「迷いましたか?」と訊かれたので、「ええ、ちょっとすぐわからなくて」と適当に答えると「うちは隠れ家でやってますからねえ」とのこと。どういう意味だ?嫌な予感。
 嫌な予感は次々に的中する。隣の席は6人組の女性客がおしゃべり中。となりはなぜか格闘家系の4人組が熱いトーク。ここは居酒屋か?
 出てくる先付は3品。どれも作り置きで冷蔵庫からの出したてで冷たい。続いてお造り。悪くはないが小さい器にごちゃごちゃに入れてあって盛り付けが雑。ていうかそもそも何でこの店こんなに暗いんだ?新宿とかで流行ってそうないわゆる合コン向きの店のような照明。刺身がどんな色をしているか見えない。
 続いて焼き魚。鮭が出てくる。不味くはないが・・・定食のおかず的味わい。そして最後は土鍋の炊き込みご飯。これって居酒屋だったらOKな味だがこれって一応5000円のコースですよね。(飲み物別)コースにしては安いと思ったがこれは・・・。
 お酒も進まず、日本酒を飲もうと思って来たのだが、ビール2杯でお茶にスイッチ。あとでビックリしたのだが、このお茶も「玄米茶」としてひとり500円づつ会計についていた・・・。
 炊き込みご飯は味が薄い鶏肉とさといも。炊き込み時間足りなかったのが米粒に芯が残っている。
 極めつけはそのごはんは当然食べきれずお土産にしてもらったが、その包みがコンビニ袋のようなものに入れられ、まるで犬の散歩の途中でした糞を飼い主がピックアップしてぶら下げてあるくような見かけのもの。なんというデリカシーの無さ。

 期待した僕が馬鹿でした。というかこの店は徹底的に僕とは相性が悪かったのでしょう。
 男女の相性も店との相性も似ている。
 噂ではちょっと高めのいいオンナだと聞いて、期待して会ってみたらすごく品の無い見せかけだけだった感じ。
 地味でももう一度会いたいと思う人もいれば、抜群に良くて、日常使いするには向かないが年に何回かは会いたい人もいる。
 この店は間違いなく2度と会いたくないどころか、不愉快さが残る珍しい店。
 でも、あの日あの店にいた女性6人組と格闘家系4人組はむしろ正しいあの店の使い方をしていたのかも知れない。となり格闘家4人組は韓国焼酎の鏡月をボトルでお代わりしていたことを思うと、「和食で鏡月?」と思ったが実はそれが正しかったのだ。
 飲食経験はそれなりと自負していたがまだまだ修行が足りないと思った夜でした。
 ちなみにあまりに気持ちがやさぐれたので、閉店間際の別の店に駆け込みワインとパスタ1品だけ腹いっぱいなのに無理やり詰め込んで少し幸せになって帰ったのでした。
 

 小林秀雄の「中庸」という評論がある。
 この評論は孔子の中庸について書かれたもので、改めて眺めてみて僕が引っかかったのは以下の部分。


 「中庸という過不及のない、変らぬ精神の尺度を、人は持たなければならない、という様な事を孔子は言っているのではない。いつも過不及があり、いつも変っている現実に即して、自在に誤たず判断する精神の活動を言っているのだ。」


 この前の土曜日、1回限りの番組で元横浜市長で大阪市特別顧問の中田宏さんがパーソナリティを務めた番組を聞いていて、ふと小林秀雄の「中庸」のことを思い出したのである。

 「いつも変わっている現実に即して、自在に誤たず判断する精神の活動を言っているのだ」

 小林秀雄が説く「中庸」という考え方は非常に烈しい。また、こうも言っている。

 「小人の浅薄な中庸は、一見自由に見えて、実は無定見に過ぎない事が多い。」

 実に耳が痛い。

 世の中にいろいろな主義主張があり、例えば右翼、左翼といった思想の区別についてさえ、どちらかの立場であることを明確にできる人は少ないのではないだろうか。少なくとも僕はそうだ。

 考えれば考えるほど、様々なデータをそろえ、自分が客観的な立場に立ち、いかにも中立であるがごとく、「どちらの考え方も一長一短あるよな」と言ってお茶を濁す。これこそが小林秀雄の言う「実は無定見に過ぎない事が多い」ということではないか、と気が付かされる。

 

 中田宏さんという政治家、そして今中田さんがかなり深い関係にある日本維新の会はまさに「いつも変わっている現実に即して、自在に誤たず判断する精神の活動」に挑戦しているように僕は見える。

 もう待ったなしの今の日本の政治。これまで何度も同じようなことが言われてきたが、その問題への各政権の対処はいつも「待ったなし」感に欠けるものだった。

 個人的には、小泉政権時代の郵政民営化のときだけ一瞬そうした期待を持った瞬間があったが。

 それ以外の政権では全くと言っていいほど、そもそも論に毎回遡り、議論がし直される。一体消費税増税などという議論は何度「根本議論」がされたのだろうか。

 もうそんな時間は残されていないというのに!

 小林いうところの「行動が思想を食い散らかす様」を見るようだった。

 

 この波乱の時代に日々変化する事態にきちんと適応し、間違いのない判断を下していける思考力、想像力。決して考える前に飛ぶのではなく、最低でも走りながら考えるという「思考」と「行動」がリンクした活動こそが今の時代に必要なのだ。

 それを彼らはやろうとしているように僕には見える。

 そう考えると小林秀雄の書いた「中庸」という考え方、「いつも変わっている現実に即して、自在に誤たず判断する精神の活動」という考え方は今の時代でも輝きを失わない。

 

 僕は放送局という「中立」であることを求められる職場にいる。

 でも、今その「中立」ということばを「中庸」に代えて対処していかねばならぬ時代なのではと思う。

 たとえ放送局という立場でも、いや、そういう立場だからこそ、世の中にきちんとした考え方を発信していかねば、という思いを強くしている。


 今日、仕事で女性ジャズサックス奏者の矢野沙織さんのコンベンションライブに伺った。
 高校生でCDデビューした彼女も現在25歳で間もなくデビュー10周年めに入るそうだ。
 彼女は中学卒業後アメリカに渡り、様々な場所で演奏体験を積んだとのこと。大御所サックス奏者ジェームス・ムーディに可愛がられ、住み込みでレッスンを受けていたこともあったそうだ。
 当時そのジェームスから「俺より早く死んだら許さない」と言われたことがあったそうだ。彼女は「そんなことあるはずない」と答えたそうだが、ジェームス・ムーディと言えばすでに亡くなっているが、彼女がレッスンを受けていた頃すでに80歳を超えていたはずだ。
 そのジェームスをして「早く死ぬな」と言わせる何か。
 「音楽のために生きるな。生きるために音楽をしろ。」とも言われたそうだ。それくらい矢野沙織さんという人は音楽に没頭して身を捧げるようなところがあるのだろう。
 この日のコンベンションでも十分それを感じることが出来た。
 MCとのやり取りの中で出た言葉「私なんて大して楽器上手くないし、きっと向いてたんでしょうね。音楽好きだったから。」
 いわゆる世の中で早熟の天才と言われる人たちのエピソードを聞くと、驚くほど共通しているのはこの迷いの無さだ。ふつうは中学卒業したら今の日本なら高校へ進学するものだ。それをアメリカにわたって音楽武者修行を選択するのは普通のメンタリティではない。もちろん親御さんの理解もあったのだろうが。
 親御さんにしても「娘の人生だから」とある種の決意をしなければ送り出せないだろう。
 僕だったら「高校ぐらい出ときなさい」って言いそうだもの。
 でもイチローも小学生のときからプロ野球選手になることを全く疑っていなかったらしいし、天才というのはそういうものらしい。いや、普通の人以上に純粋な人を天才と呼ぶのだろう。
 「私、悪いオトナに可愛がられたかったんです。」
 この彼女の言葉も本気なのか、嘘なのか、オトナなのか子供なのか全くわからないセリフだ。
 でもこの常識や年齢とは全く関係の無いピュアさこそが鍵なのかもしれない。
 そして、以前から思っていることだが、彼女、矢野沙織という人はサックス奏者に「なった」のではなく、始めからサックス奏者「だった」のだ。
 これほど強い信念は無く、僕らにしてみれば驚くべきことも彼女にとってはごく当たり前のこと。
 この「疑いの無さ」こそが人生の決断のヒントである気がして仕方がない。

 でも自分に置き換えるとどうだろう。僕はいったい初めから何だったのだろう。・・・思いつかない。