今日(2012年10月20日)の午後1時から放送のAM1242ニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」にゲスト出演する橋下徹大阪市長の収録が3日前の水曜日に行われた。
 旧知の在阪キャスターの辛坊治郎さんと橋下徹大阪市長の関係から実現したゲスト出演だったが、番組収録時はやはりキャスターと政治家の向き合いになり、インタビューする人、される人として見事なまでのトークを繰り広げた。
 もちろん、世の大きい話題になった週刊朝日の「ハシシタ 奴の本性」と題する佐野眞一さんの連載第1回掲載誌も出たばかりだったので、それについても聞いているし、その後連載中止が決定するわけだが、一番本人の率直なリアクションが出ているインタビューでもあった。

 この模様は本日の午後1時からの放送で聞いていただきたいが、僕が今日のタイトルにした「違和
感」を感じたのはその収録が終了した後だった。
 ディレクターが番組宣伝スポット用に橋下徹市長にセリフを収録させてもらおうと用意した原稿をご本人にお見せしてお願いしたところ、「こういうのはいいじゃないですか」と言ってやんわり断られた。セリフといっても自己紹介プラスひとことくらいのもので、メディア出演経験が豊富な橋下市長なら収録させていただけるのではないかと考え用意したものだった。
 ディレクターが食い下がり、「ひとことなんでお願いできませんか?」とさらにお願いしたが、マネージャーさんが割って入り断られて録ることが出来なかった。
 そのときに僕は身に覚えのある違和感を感じたのだ。

 それは旬な人、大物、人気者、いい表現が見つからないのだが、多くの支持を集めている人とでも言おうか、そういう人に必ず感じる違和感なのだ。
 それもそれぞれのジャンルで「一流」とか「トップクラス」とか場合によっては「世界一」のような人に必ずある違和感。
 一見ソフトな見た目、触り心地だが、中に入っていくとすごくゴツゴツした固い芯にぶち当たるような感覚だ。自分の思い通りにできそうだと思って始めたのに絶対に思い通りにならないことを思い知らされる違和感。

 僕自身は同じ感覚を番組を通して長い付き合いのある福山雅治さんにも感じたことがある。
 彼はフランクに酒を飲んだりしていても、その流れに乗じて仕事のお願いをされることをすごく嫌うところがある。
 自分で体験したり、目撃したりしたことがあるのだが、こうした楽しい会合をしながらも、ドサクサに紛れて難しい話をしようとする人がいて、その話を始めようとするときには会合の空気が変わるものだ。
 そのわずかな雰囲気の差を察知して福山さんは必ず何らかのリアクションをする。それは「絶対に仕事の話をするな!」という殺気のようなものだったり、サッと退出してしまうフットワークの軽さだったり。
 遊びの場、楽しい場には絶対に仕事の話は持ち込まないと決めた厳しさが常にある人だ。
 もちろん、改めて正式に仕事の話をしても、ご自身が納得しないものについては「仕方なく」受けることも絶対無い人なのだが。
 やはり、それだけの意志の強さが今の福山雅治さんという人のポジションを作っていることは間違いにないと感じている。

 それと同じものを橋下徹大阪市長に感じたのだ。
 政策などの主張を通す意志の強さはもちろんなのだが、言葉を大切にする橋下徹という政治家だからこそ、その言葉の恐ろしさもよくご存じ方だからこそ、他人が書いた原稿を自分の言葉のように発することは無いのだ。
 「責任」を取れる言葉しか発しない「自立」した人であることを痛感した瞬間だった。
 一流の人は絶対に「曲がらない」。
 一時の義理人情に流されることなど無い。
 ときには冷酷、独裁者と称さようとも自分の気持ちを貫き通す。
 そういう強さのある人だからこそ一流であり、一線で活躍し続けられる。
 そんなことを感じさせられたインタビュー現場であった。

 そんなことがあると思って聞くとまた味わいが違うかもしれません。本日午後1時からのニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」。radiko.jp からインターネットでいい音で聞くこともできますので是非聞いてください。
 最後は宣伝ですみません。
 ちなみに放送終了後もポッドキャストで聞くこともできるのでよろしくお願いします。

 
 
 
 
 「自立」という言葉を近ごろよく聞くようになった。
 「自ら立つ」というのだから誰かの力を借りずに自分自身の力で立つということなのだろう。
 親元を離れることも「自立」という。経済的な意味合いも強いのかも知れない。自分が稼ぐ収入だけで自分の生活を始める。
 最近聞いて印象的だったのは中田宏元横浜市長がこの「自立」を口にした時だった。
 「日本人はもっと自立しなければならない」
 国の補助を必要としている地方自治体の自立。生活保護を受けている人たちの自立。税の減免処置を求めてばかりいる企業の自立・・・日本に巣食う「依存心」から脱却して「自立」していかねばならないというのが中田宏さんのいう「自立」だった。
 つい最近、また「自立」という言葉が印象に残ることがあった。それは橋下徹大阪市長が口にした「自立した政治家」というフレーズだった。
 日本維新の会は来るべき衆院選に向けて衆議院議員選挙立候補者の募集を行っているが、その応募して来てほしい人材についての説明の中でそれは語られた。政治家にならなくてもすでに生活できるだけの収入がある人、そう言う人に応募してほしい、そう語っていたのだ。
 その意味するところはこうだ。政治家には「職業政治家」とも言うべき人が多い。生活のために、収入を得るために政治家をやっている人たちのことだ。だから当然のことながらそれは二世議員を生むバックグラウンドにもなる。
 政治家はもっと志高く、私利私欲から考えずに出来る人がやるべき。そう言う考え方から充分に収入のある人を求めているという。これが「自立している政治家」の真意だ。

 維新の会の「維新八策」には以下のようなことがある。
『大阪維新の会の理念は、個人の自由な選択と多様な価値観を認め合う社会を前提に、
・ 自立する個人
・ 自立する地域
・ 自立する国家
を実現することです』
やはりここでも「自立」が語られている。
 
 「自立」、それは国に目を向けても同様だ。やはり国政においても日本の借金すなわち赤字国債の発行を前提とした予算編成を見ると日本国自体が「自立」していないことを痛感する。
 社会で働くほとんどの人が自分を「自立」していると言うだろう。しかし、実際には日本という単位で見れば「自立」とはほど遠いと感じるのは僕だけではないはずだ。
 「自立」には必ず「責任」が伴う。
 「責任」を果たしてこそ「自立」していると言える。
 そして「自立」してから自分の足で走る「自走」の段階に入って行かねばならない。
 
 一見当たり前のことのように見える「自立」という言葉は新しい日本を語るときに今改めて見つめ直す言葉なのかも知れない。

 
 エンターテインメントの仕事に関わっていると、若い人たちの変化をリアルに感じることが多い。
 あ、何か新しいことが起きているなと突然感じる瞬間があるのだ。
 それは世代の意識の変化として起こり、実際の現象として現れてくる。
 近年で大きく感じたのは今から10年前くらいだ。
 のちのちその若者世代を特集した番組を作ったことがある。そのときのキャッチフレーズは「天才十代の時代」。
 10年前と言えば2002年。日本と韓国共催でサッカーのワールドカップが開かれた時だ。
 街に外国人観光客が溢れ、六本木のバーが外国人で大騒ぎになり、東京が国際都市であることを実感する出来事も様々起きた。イチローがメジャーリーグで活躍し始めたその頃、十代の意識が劇的に変化が起きたことを感じた。それは「海外コンプレックスの克服」とも呼べばいいだろうか。
 それまで日本人にあった海外コンプレックス。
 街で英語で道を尋ねられても上手く答えられなかったり、気後れしたり。
 そんな日本人の中で海外で活躍する人たちはほんの一部。メジャーリーガーになったイチローや、当時のサッカーで言えば中田英寿。すごく特別な存在だった。
 ところがその頃十代たちからその「海外コンプレックス」が消えた。
 当時高校生だった野球のダルビッシュ有。それに続くように現れたゴルフの宮里藍、石川遼。
 サッカー界にも本田圭佑のような存在が現れてきた。
 スポーツの世界で顕著に見られるのだが、僕が普段ラジオ番組で接する十代のリスナーたちの感覚にも明らかに同様の変化が感じられた。
 日本に留まらず、世界の舞台で活躍する、そのことを当たり前に目指す若者が登場してきたのである。それまでの日本は野球やサッカーだったら日本で活躍してから海外へ行くことが多かったが、その頃を境にして、日本の高校生がそのまま海外のチーム入りするようなことが増え始めた。その姿を見て、すごい時代が始まったな、と感じたものだ。

 最近、あの頃と同じような若い世代の変化を感じることが多くなった。
 ウィンドウズ95が発売された95年以降に生まれた「デジタルネイティブ」とも言うべき世代が今思春期を迎えている。
 彼らのITリテラシーの高さや適応力は、ひとつ前の時代の人間とは比べ物にならない。しれは言うまでもないことだ。
 しかし、その能力を発揮するのにひとつ問題があった。それはパソコンの保有率である。
 大人の世界では一人一PCは常識だ。会社にもあるし、家にも自分が自由にネットをみることが出来る環境がある。しかし若者たちの環境は少し違う。
 今現在でもアンケートをしてみると大学生でさえ自分専用のPCを持っている子は多くは無い。
 そんな彼らに劇的な事件が起こった。スマートフォンの登場である。
 何度か書いているが、今の中高生に聞くと携帯電話はほとんどの人が持っている。しかし、スマートフォンになると持っているのは最近携帯電話を手に入れた中一、中二が圧倒的に多い。
 ご存じのとおりスマートフォンは小さいパソコンである。つまりは今まで自分専用ではなかったパソコンを自由に使えなかった十代が自由に縦横無尽にネットと接点を持てるようになってきているのだ。
 その結果何が起きるか。例えば音楽について言えばここ5年から10年近くのあいだ、「ラジカセ」に変わる音楽を聞くためのデバイスは登場していなかった。
 CDラジカセブームがCDの売り上げに大きく貢献したことはいうまでもないが、その後のMDラジカセ以降は音楽はデジタル携帯プレーヤーに移行したが決定版といえるほどのものは登場していない。
 そこへスマートフォンである。かつては音楽業界から子供のお小遣いの使い道を奪った携帯電話と音楽プレーヤーが一致したのである。
 僕が仕事をしているラジオ業界にとってもスマートフォンは強力な味方である。
 いまどき携帯ラジオを持っている人など一部のマニアか競馬好きしかいないわけだが、スマートフォンはradikoというアプリを通じてラジオに成り得る。
 もうすでにスマートフォンを通じて音楽体験、ラジオ体験の洗礼を受けている若者がかなり増えているようだ。
 こうした彼らの主力世代はまだ10代前半であるが、あと5年経てばこうした世代がさらに新しいムーブメントを生み出すに違いないと確信している。
 世界に対してコンプレックスの無い彼らがスマートフォンという武器を得てどのように変化していくのか?
 今の僕はそれをすごく楽しみに待っているのだ。