昨晩は河口恭吾さんのビルボード東京のライブを観せていただいた。
 感想はひとこと、すごくよかった。
 ライブの良し悪しを分析して言葉にすることが無意味なことは分かっているが、今日は敢えてそのことを書きたい。それくらいよかったのだ。
 この日のライブは、音楽を聴きながらアタマの中に絵が浮かぶ、そんなライブだった。

 昔聞いた話でやっぱりそうか、と思った話がある。
 それはディズニー映画の名作「ファンタジア」。1940年に公開されたこのアニメーション映画には11人の監督、60人のアニメーター、103人編成のオーケストラ等、投入されたスタッフはのべ1000人、音楽と映像の織りなす芸術性高い名作だ。
 この「ファンタジア」は音楽に合わせて映像が作られたという。つまり、音楽を映像に先行させたとうことだが、これを聞いた松任谷正隆さんは「ディズニーが音楽を映像に先行させて作ったという事実は、音楽制作に関わる人間としてとても勇気づけられた」という。
 そう、僕も音楽は映像に先行する思っている。
 アニメーションのセリフ入れを「アフレコ」という。「アフターレコーディング」言葉のとおり、映像を作りあとからセリフを入れるということだが、制作者によっては映像を作る前にまずラジオドラマを作り、それに合わせて映像を作っていく人もいるということだ。
 そちらのほうが自然な芝居になるということがその理由のようだ。

 質の高い音楽は映像を連れてくる。

 この日のライブは、まさにそうしたものだった。
 河口恭吾さんが歌う1曲1曲が映像を脳細胞の記憶の底から呼び起こし、そこに歌詞が絡み物語を紡ぎだす。
 ゲストの中孝介と唄う「花」や、ニューアルバムの楽曲、そして1930年代から60年代くらいまでの日本の古い歌謡曲から選んだカバー曲。そのすべてが河口恭吾の声が筆となりキャンバスにさらさらと描き出された絵のように僕に迫ってくる。
 ある意味脳内ドラマを見ているような気分になり、ただただ心が共振する。
 
 その中で日本で最初のCMソングを作ったという三木鶏郎さんという方の曲がすごく印象に残ったのだが、残念ながらタイトルを忘れてしまった。
 歌詞をもう一度読んでみたくなるような歌詞だった。

 歌が連れてくる風景は普通の人の普通の生活のなかにある宝物のようなドラマ。
 恋する気持ちや家族を大切に思う気持ちが、人間にとって大切なものであることを改めて気づかせてくれる、そんな「歌風景」。

 ふと思い立って旅に出かけているような、そんな気持ちにさせられた夜だった。
 河口さんありがとう。


 2009年に出版された本、クリス・アンダーソンの「FREE」。
 「ソフト」と「ハード」の時代は終わり、「ビット」と「アトム」の時代が来る。
 「ビット」(データ化できるもの)は限りなく無料(FREE)を志向し、「ビット」を無料配布するフリーミアムモデルを使いながら「アトム」(データ化出来ないもの つまりモノ)を売ることがビジネスのかたちになる。「ソフト」(例えばDVD)を作って「ハード」(例えばDVDプレーヤー)を売る時代が終わる・・・ということを説いた。
 この本が出版されてから3年。その通りになっていることに驚く。音楽CDはどんどん売れなくなり、かつてはハードメーカーが作ったレコード会社からハードメーカーが離れて行き、ソフトはハードを売るためのものではすでに無くなった。
 海外で流行るクラウド音楽サービスPandora RadioやSpotifyはまさにFREEが予言したフリーミアムモデルによるビジネスに近い。
 CDは売れないがコンサートに人が入り、グッズが売れるという現象も同様だ。
 こうした波は確実にやってくるが、来る前にその波を読むことはとても難しい。
 今、本屋に行くと「日本経済は大丈夫」という本と「日本経済は危ない!」という本が並んでいる。一体どっちが正しいのか。株の上がる下がるを当てた人はいないそうだし、それだけ先を読むのは難しいと言うことなのだろう。

 時代の風を感じて半歩先を読む。尊敬する会社の先輩の言葉だ。
 一歩先では早すぎる。半歩先だからお客にとってちょうどいい。半歩後では遅すぎる。
 サーフィンに人生を見る人がいる。
 波は待っているから乗れる。乗るためにじっと待つ。ジタバタしても波が来なければ始まらないし、波は過ぎてしまうと追いかけても絶対に乗れない。
 ヨットをやる友人が言っていた印象的な話。
 ヨットに乗っている時は感覚を研ぎ澄まし、動物になる。動物本来の生存本能を発揮すると「風が見える」のだそうだ。
 ヨットの進む先に吹いている風が見えればそれに合わせて舵を切り、風を捉えてヨットをグッと進める。
 どうも時代を読むためにはまず、じっと感覚を研ぎ澄ましてよく感じることが重要なようだ。
 
 毎年この時期になると年末年始の番組企画を考える。
 そのときに必ず今年を振り返り、来年を読む、という企画が出る。
 昨年末のことを思い出すと、2012年は復興需要で景気が上向くという読みがあった。復興予算が組まれたのでそれなりに信憑性がある話だったが、今となって今年を振り返るとあまりその恩恵を受けた印象は無い。
 迷走する民主党政権、いつになるのか総選挙。そして尖閣、竹島の領土問題と隣国との緊張関係。
 昨年末には読み切れなかったことだ。
 来年は一体どんな年になるのか、また今年も考えている。
 さあ、僕は時代の風を感じるヨットマンになることは出来るのかどうか。
 まずはじっと感覚を研ぎ澄ますことに挑戦してみようか。
 
 橋下徹大阪市長がゲスト出演した先週土曜日のニッポン放送「辛坊治郎ズーム そこまで言うか」の放送のリアクションは大きく、番組に届いたメールもそうだが、普段はそんなこと言わない人からも「聞いたよ」と言われることが多く、やはり今が旬の人をゲストに出演していただくパワーを改めて実感した。
 この番組の収録時、橋下徹市長に「一流の人にある違和感」を感じたと書いたが、「違和感」という言葉を使ったことでネガティブな印象を持った人もいたようだ。
 僕自身としてはこの「一流の人にある違和感」というのは、言葉のとおり普通の人には感じないもので、一種の畏怖の念を表現すると「違和感」という言葉になったのだ。
 羨望も感じるし、それと向き合った時にドキリとさせられることもあり、表現しがたい感覚ではある。

 この違和感はなぜ生まれるのか、を考えた時にふと矢沢永吉さんを思い出した。
 真偽のほどはともかくだが、よく言われているエピソードがある。矢沢さんとミーティングしているときに矢沢さんが「オレはいいけどYAZAWAは何ていうかな?」とスタッフに投げかけるという話。
 これはある種の矢沢永吉さんらしいエピソードとして都市伝説のように伝わっているのだが、このエピソードは人前に出ていく仕事の人には二つの顔があり、その二つの顔の間で葛藤する様子がよく表れている。
 一個人としての矢沢永吉さんと、多くのファンに慕われ、常に次の展開を期待されている「YAZAWA」の判断は異なる。そして「YAZAWA」には常にファンからのプレッシャーがかかる。
 矢沢永吉さんはこうしたプレッシャーを乗り越え、音楽生活を還暦過ぎまでやってきた人だ。
 大変なことだと思うし、だからこそ矢沢永吉個人とYAZAWAというふたつのキャラクターが生まれたのだろう。
 
 橋下徹市長もタレント弁護士であったとは言いながら、知名度を武器に政治家になった人である。そのバッシングの厳しさは想像を超えるものがあるのだろう。
 そのときの「公人」と「私人」の立場の葛藤はどれほどのものか。
 やはり普通の感覚ではとても耐えられないだろう。今回の事件は「私人」としての立場にまで深く踏み込み、橋下市長のお子さんにまで影響を及ぼすものであったからこそ起きたものだと思う。
 
 いつも一流と言われる有名人たちを見ていてスゴイと思うことがある。
 どんなジャンルの人であれ、多くの人に期待されその期待に応えようとする。ところが期待に応えるだけでは人々は満足しない。ときには期待をいい意味で裏切らないと人心は離れていってしまう。
 「期待に応え、期待を裏切る」ことは何年も続けていくには、周囲の状況に簡単には影響されない確固たる個人としてのキャラクター、意志の強さが必要だろう。
 そしてその強さが「違和感」を生む。
 普通とは違っていなければいけないのだから。
 
 こうした存在にはなろうと思ってなれる訳ではない。その立場になって、次々に襲ってくる困難を乗り越えてこそ身に着く強さ。
 僕らにできるのはその違和感をきちんと受け止めて伝えていくことだけなのだと思うのだ。