先日ミーティングをしているときに出た話題。
 近年の「ハイボール」ブーム。ハイボールっていう言葉は少し前まではちょっと昔の言葉のニュアンスを持っていた。10年くらい前に流行っていたのはバーボンソーダ。バーボンウィスキーがブームになり、フォアローゼス、ワイルドターキーといった銘柄のバーボンをおしゃれなバーで飲む。そんなライフスタイルが流行していた、その時、「ハイボール」といういわゆるウィスキーソーダはあまり飲まれていなかったし、日本のウィスキーも人気が無かった。
 それがここ数年であっという間の「ハイボール」ブーム。もちろんご存知の日本のウィスキーの復権。まさに温故知新。中高年は懐かしい気持ちでその言葉を聞き、若い人たちは新しいものとして聞く「ハイボール」。世代の挟み撃ちともいうべき作戦が大当たりしたようだ。
 それと同じことがラジオでも出来ないだろうか、という議題。
 そのミーティング中に答えは出なかったが、そのあといろいろ考えて見た。
 ハイボールのように古くて新しく響く言葉は無いだろうか?思案しているとふと浮かび上がってきた言葉が「BCL」。
 Broad Casting ListeningまたはListenersの略だ。
 70年代中盤に若者たちの間で爆発的に広まったのが海外の短波放送を聞き、受信報告書なるものを送りベリカードをもらう、という行為だった。
 各電機メーカーが競って「BCLラジオ」を発売し、BCLは若者たちの趣味の王様となった。ベリカード収集に熱中し、イギリスのBBCやアメリカのVOAといった放送局の放送、その中には日本語放送をしている局もあり、受信困難でその放送局のベリカードを持っていると自慢だったアルゼンチンのRAEという放送局、などなど、そんなことを思い出したのだ。
 現在は電波を受信するラジオのみならず、インターネットやスマートフォンで聞けるradikoもあるし、ポッドキャスティングにインターネットラジオもある、ネット上には世界中に放送局の番組が聞けるしかけもある。音声コンテンツは花盛りだ。
 これを総じていまのところ「ラジオ」と呼んでいるが、これをBroadcast、もしくはBroadcastingと言い換えたらどうだろうか?
 IT用語的な使われ方として、ネットワーク上で、ひとりに向かって送ることをユニキャスト、複数の人に向かって情報を発信することをマルチキャスト、不特定多数に向けて発信することをブロードキャストと呼ぶ。
 音声コンテンツを聞くことをブロードキャスト・リスニング(Broad Cast Listening)という言い方で括ってしまうことで新しいライフスタイルが生まれそうな気がしないだろうか?
 音声コンテンツの魅力は言うまでもなく「ながら聴取」である。
 PCに向かって作業をしながら耳は音声コンテンツを楽しむ。そんなライフスタイルがブロードキャストリスニング、BCLライフ。
 まあ、そんなに簡単でないことは分かっているが、「ハイボール」のように流行ったりしてくれたら本望だし、ラジオの潜在需要を掘り起こすことになればいいのに、と夢想している今日この頃なのだ。
 
 僕は勤め先が有楽町で通勤に千代田線を使っている。
 ある日会社の帰り、千代田線日比谷駅の改札を抜け、階段を下りホームに辿りつき、夕刊紙を買うつもりで売店に向かった。
 が、あれ?売店がない。飲料の自動販売機はホームに何台か並んでいるが、おかしいと思いよくよく確認してみると、売店のあった場所は何台かの自動販売機が集めたスポットになっていた。
 飲料の販売機はもちろん、新聞、軽食も自動販売機の中に入っている。
 軽くショックを受けた。
 駅の売店には大抵おばちゃんが居て、雑誌や新聞の値段を暗記して即座につり銭を差し出す職人芸もあり、「何か買おうかな」と立ち止まり売店のまわりをうろうろする時間も嫌いじゃなかった。
 文庫本や、ちょっと不思議な本、たとえば「実録!残酷日本芸能史」みたいな文庫本サイズの漫画とか、占い本とか。
 これだけの商品の種類は人間が裁くからこそ扱えたのだと思うが、さすがに自動販売機には文庫本は無い。
 駅のホームからなにかぬくもりが消えてしまったような気がした。

 こういうことはこれまでも良く起きてきた。
 駅の改札もそうだ。すでに自動改札化はほぼ100%達成されているのだと思うが、少年時代に駅員さんが切符を切るのが面白くてずっと眺めていたことがある。
 そうしたらある日駅員さんに廃棄になったパンチをもらうことができた。たぶん毎日のようにそこでじっと切符を切る姿を見つめる小学生に気付いてくれたからだろう。
 子供の僕はすごく嬉しくて、家に帰って片っ端から紙を切って怒られたっけ。
 でも今はそんなことは起こりようもない。
 
 最近僕のまわりでは話題になっていたが、コンビニのレジでお酒を買う時にレジについている客向きの液晶に「あなたは成人ですか?」と出てくる質問。
 なぜ、口頭で聞けないのか?そしてそれに対して「はい」と押せば、それが明らかに未成年だとしてもお酒を売るのか?
 自動化が便利で効率化に貢献することはわかっているが、あまりにも機会任せにして、人間にできることを放棄してサービスの質を下げては本末転倒ではないだろうか?
 
 いろんな場所から人間が消えていく。
 いても言葉の通じない外国の人だったりする。
 これが時代の趨勢というものなのか。
 でも、人間により接客というのは僕らが思っている以上の役割がたくさんあるような気がするのだけれど。
 月島の「肉のたかさご」にしゃぶしゃぶ用の肉を買いに行き、ふと思い立って昔月島に住んでいた頃よく行っていたバーのマスター柴田さんが2年前にオープンした店「LAST STAND」に立寄り、ちょっとだけ飲んだ。
 そのときに一杯めにビール、二杯目に柴田さんおすすめのウィスキーを頂いたが、そのウィスキーは「ウシュクベ」というものだった。
 飲んだことのあるものだが、どこで飲んだのか思い出すことが出来なかった。
 ロックで注文し、ひとくち含んだ瞬間に突然僕の中に懐かしい気持ちが広がった。
 それはすごく不思議な感覚で、まるで昔読みかじったプルーストの「失われたときを求めて」で主人公がかつてよくやっていた紅茶にマドレーヌを浸して食べる食べ方を久しぶりにやってみると、それがきっかけになって過去の記憶が次々に蘇ったごとく、僕の中に初めてスコッチウイスキーを飲んだ頃の記憶が呼び起こされた。
 
 僕は詩人の田村隆一が好きで、彼が書いた詩はもちろん、エッセイをよく高校時代に読んでいた。
 エッセイの中の田村隆一は材木座海岸のそばに住み、海を眺めながら「金色の液体」を飲む。
 僕はこの「金色の液体」に憧れた。
 まだ飲んだことのない「金色の液体」は一体どんな味がするのか。10代の僕は思いを巡らせていた。
 大学に入り酒を飲むようになったが、当時流行っていたのはいろんな味のサワー。僕が初めて口にしたウィスキーはホワイトやオールド。でもその味は僕の憧憬とは違っていた。
 イメージ通りのウィスキーに出会えたのは20代の半ばで大学の同級生がバーテンダーになり、彼にいろいろ酒を教わった頃だった。
 バーボンソーダに飽きてウィスキーをロックで飲むようになり、少し敷居が高く感じて踏み込んでいなかったスコッチやモルトに挑戦するようになった。
 友人からスコッチとバーボンの味の違いがなぜ出来るのかを聞きながら飲んだスコッチウィスキー。吉田拓郎を気取ってバーボンを飲んでいたその頃の僕に高校時代の記憶が蘇った。
 田村隆一の飲んでいたウィスキーの味だった。
 もちろん田村隆一が飲んでいたウィスキーの味は知る由もないが、エッセイを読んで僕が思い浮かべた味はスコッチウィスキーの味だったのだ。
 その記憶は強烈に僕の記憶に刻み込まれたらしい。感動と憧憬が入り混じって震える思いがこみ上げた。
 「ウシュクベって”命の水”って意味なんだよ」とバーテンダーの友人が教えてくれた。
 ”命の水”。
 この水で救われた命が世界にどれほど存在するのだろうか。そして僕もそのひとりになった。
 そしてその友人、小野圭司が開いた店は「命の水」という名前になった。
 訳も分からず仕事に立ち向かい、玉砕しては立ち上がっていたあの20代後半。そんな時代を僕が酒で表現するならやはりスコッチウィスキーであり”ウシュクベ”というこの酒になるのだろう。
 
 そんなことが月島でウシュクベを口にした瞬間、脳の中いっぱいに広がったのだった。
 それを飲み干し、もう一杯頼みたい気持ちを我慢して店を後にし、肉をもって自宅へ向かう僕だった。