中国国家海洋局の航空機が13日尖閣諸島の上空を領空侵犯した。
 無害通航権が認められている了解への侵入と領空侵犯は全く意味が違う。
 国際法上、沿岸国以外の船舶であっても領海内に入ることはできる。侵犯となるのは「無害でない通航」となるときである。
 それに対して領空内に航空機が入ってくることは自衛隊法に基づき対処すべきこととなる。
 領空侵犯に対して当該国は対抗処置をとることができるが、それは一般的には強制着陸、撃墜などがある。
 そう考えると今回の領空侵犯は今までの領海ないの航行とかなり違うことがわかる。
 だからこそ、アメリカ政府も反応して中国政府に懸念を伝えたのだろう。

 「中国は本気で尖閣を獲りに来た」とコメントする評論家たち。
 それを聞きながら僕は既視感に襲われた。
 僕は戦後20年経った時代の生まれで、高度経済成長期を経験し、「日本は戦争をしない国」として憲法9条を教わってきた。
 そんな僕たちにとって戦争はフィクションの中だけ、地球の遠いところで行われている現実の戦争もテレビモニターの中で見るもの。
 必死で取材するジャーナリストたちの戦場の映像もお茶の間でお菓子を食べながら見たことしかない、そんな日常を送ってきた。
 そんな僕が鉄槌を食らったような衝撃を受けたのは阪神淡路大震災だった。
 震災当日大阪で揺れを体験し、その2日後に取材、放送のために車で現地入り、全く明かりの無い神戸の街、崩れた建物、焦土と化した長田区周辺。まだこの建物の下には圧死した人がいるのかもしれないと思うと、「戦場とはこのような場所では無いか」という想像力が働いたことが忘れられない。
 そのような体験をもう一度することになった東日本大震災。
 一日あれば被災地を横断することが出来た阪神淡路大震災の規模に較べ、行けども行けども津波被害のあとが広がる被災地。その光景を見て以前にもまして「戦場感」を感じた。
 天変地異による破壊でさえこれほどまでに無念なのに、これが人によって破壊されるとしたらどれほど悔しく、恨みを生むものなのかを考えると恐ろしい。
 その体験から逆算するように今回の領空侵犯のニュースを見聞きすると、これまで映画でこんなシーンを見たことがあるなと感じる既視感から、リアリティのあるものへ感覚が変化してきた。

 こういうものの考え方がいいのかどうか分からないけれど、すべては想像力。
 人間は幸せになるために生きているのだと思うから、少なくとも戦争という解決は誰かが確実に不幸になるという選択。
 領空侵犯は直接戦闘につながる可能性があることは間違いなく、領海への侵入とは全く違う。
 そういう意味ではこの尖閣問題、そして中国の態度の成り行きは注目したいし、この件については必死で想像力を働かせて何か出来ることを考えねばと思うのです。
 「面白い」という言葉はとても曖昧で正体不明なことばだ。
 ある人が「この映画面白いよ」というので観に行って同じく面白いと感じることもあるし、全然面白くないと感じることもある。
 でも、エンターテインメントの仕事に関わっている人たちはその曖昧な「面白い」を日々追求しているので、「面白い人がいる」とか「面白い場所がある」とか「面白い遊びがある」とか聞くとそれを確かめに出かけずにはいられないのだ。
 最近、ニュース番組のレーティングがいいようで、テレビ各局はこぞってニュースへシフトしている。やはり東日本大震災以降の雰囲気と長引く不況、政治の停滞などの状況を考えると人々の興味はニュースへ向くのかもしれない。
 バブル期に隆盛を極めたバラエティ番組も影をひそめている。歌番組も不調だ。フジテレビの「HEY!HEY!HEY!」の終了はひとつの時代の終わりを感じさせる出来事だった。
 ダウンタウンというお笑い芸人が司会の音楽番組、出演者も覚悟して出ないと鋭い突っ込みにあってぼろぼろになることもあった。だがその一方でトークで爆笑を取り一夜にして人気者になったアーティストも数多い。TMレボリューション西川貴教やSILVAといったアーティストはダウンタウンとのトークがあまりに面白く、歌よりもキャラクターが先行して売れた印象がある。
 その後TBSで始まった「うたばん」も歌番組としてはリミットを越えたバラエティ性で人気を博したが、その一方でこうした歌番組に出ないアーティストも多く、その当時からB'zのようなアーティストはテレビ朝日のミュージックステーションでしか見ることができなかった。
 やはり、「HEY!HEY!HEY!」も「うたばん」も時代を捉えていたからこそブレイクし、時代の移り変わりのとともに消えていくのだろう。
 時代によって「面白い」は移り変わっていく。

 エンターテインメントの仕事では「昨日では早い、明日では遅い、今日がジャストな」企画やコンテンツを選べるか、考えられるかどうかだという。「今しかできないこと」「今が一番旬なこと」を探せ、とも言われる。
 そう考えると今、必要とされていること、最優先されることは「食う事」であり、エンターテインメントの重要度は下がっているようにさえ感じられる。

 僕は以前、ネットに「エンターテインメントはパンに勝てないのか?」ということを書き込んだところ、同じく放送業界で働く先輩から以下のようなことばをいただいた。

『(中略)~子供が最初に覚える言葉は「ママ」とか「パパ」とか「ごはん」「お腹すいた」とか、とにかく生命と衣食住を維持するためのワードです。
でもね、うちの子供がその次に覚えたのは「ご本、読んで」でした。
阪神大震災の被災者たちが「被災した直後に支給されてありがたかったもの」に挙げたのは、衣食住の次に「音楽の生演奏」だったそうです。
少なくとも、エンタテインメントは「衣食住の次」に大切なものなんだと思います。パンに勝とうと思うよりも、明日もパンのために頑張ろうと思える活力の助けになるようなエンタテインメントを送り出したい、と私は思います。』

 すごくこの言葉に勇気をいただいた。
 今の時代の「面白い」を捕まえるために必死になるのは、誰かを笑顔にするエンターテインメントを作るためだ。
 『パンに勝とうと思うよりも、明日もパンのために頑張ろうと思える活力の助けになるようなエンタテインメントを送り出したい』
 僕もその通りだと思う。
 遠藤先輩、そのために僕も必死になろうと思います。
 
 中村勘三郎さんに小沢昭一さんと立て続けに亡くなった。それ以外にもジャズピアニストのデイブ・ブルーベック、政治評論家の三宅久之さん、森光子さん・・・。
 十分に長生きされたと思える方と、まだ若いのに・・・と思う方といるが、いずれにせよ誰にでも死はやってくる。
 そして、自分の年齢と照らし合わせるとだんだん人生の終焉を迎える方たちが自分の世代に近づいてくることを感じる。
 「角松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と一休が詠んだ正月も間もなくやって来る。ひたひたと自分のタイムリミットが迫ってくることを感じる。
 
 不謹慎だがこんなとき、どんな人たちが儲かるのだろうか?などと思ってしまう。
 数年前に自分の父親が亡くなった時に自分が葬儀を執り行うことになり、悲しむ暇もなく業者の手配などをするとき、一番わからなかったのは費用の相場だ。
 葬儀は金がかかる。目の前に棺桶のカタログを広げられて選ばされたときは戸惑った。
 そのカタログには一番高い桐で出来たものから一番安いベニヤまで載っている。焼き場で灰になってしまうのに。
 そこで父親の顔が浮かんで「こんなときに安いの選んだら向こうでオヤジが怒るかな」なんて考えてしまったが、思い直し一番安い棺を選んだ記憶がある。
 弁当の手配もそうだ。いわゆる「お浄め」と呼ばれる葬儀に来ていただいた方々へのおもてなしの食事やお酒。これもピンからキリまであるのだ。
 やはり、見栄もあるしあまり貧相でもな、などと考える。そこそこのランクのものにしたような気がする。
 他にも葬儀のお花についても祭壇に飾ることが出来る本数には限りがあるため、多めに来た時にはその分の花代を浮かせて葬儀の本費用に回したりという裏ワザもあった。
 いやいや初めてだったので知らないことばかり。
 そもそも世の中に「葬式慣れ」している人などいるわけないのだ。
 自分で出す葬式なんて言うのはどんなに多くたって親兄弟くらいのもので、一生で10回以上経験する人はそんなにいないだろう。
 だから常に詳細はわからないし、大体は言われるがままにいろいろやるしかない場合がほとんどだと思う。
 仏壇にしたってそうだ。いざ買おうと思うとその仏壇の値段が高いのか安いのか騙されているのかわからない。30万円だと言われればそう思えるし、いや、もっと安いはずだとも思える。
 人が死んだばかりのときに業者とトラブルを起こしたくないし、なかなか難しい。
 かつて祖父が亡くなった時に葬儀の進行をする葬儀会社から派遣されてきた人の司会?があまりもわざとらしくて思わず吹いてしまったこともある。
 そんな経験もあり、自分の父親の葬式のとき、進行は全て自分でやることにした。
 
 芸能人の葬儀ともなれば参列者も多いし、規模も大きい。動くお金の金額も大きいに違い無い。やはりこんなときでも儲ける人はいるわけで、それが悪いわけでもないが、ぜひ葬儀を執り行う方々におかれましては是非とも業者をよくよく選んで、後悔することの無きようお願いしたいものだ。