大晦日なので願望も含めて来年のことを。
 明日、年が明けてからでもいいのだけれど、明日は忙しそうなもんで。
 
 僕が今興味を持っていることは若い世代の人たちのことだ。
 10代、そして20代。
 年末に読んだ「絶望の国の幸福な若者たち」(古市憲寿)に刺激を受けたこともある。
 日本は国民総若者症候群じゃないかと思うのです。というのは、近年老人が減っていると思いませんか?会社にも定年を過ぎているのに若々しくてロックな感じな人がいる。
 「長老」みたいな人、イメージで言うと禿げ上がった白髪で長い髭のおじいさんは今見つけることは難しい。
 かつては野球をしていてボールが飛んで行って窓ガラスを割り、怒鳴られる頑固ジジイが近所にいなかっただろうか?今もいるのだろうか?
 昔、アメリカのおじいさんはジーンズを履いてピザを食べているらしい、なんかカッコいいと思っていたが、日本でジーンズを履く還暦過ぎの人が普通になっているのを見ると、ふと、世の中におじいさんが居ないことを寂しく思う瞬間がある。
 こういう時代に本当の「若者」たちはどこに居て何を考えているのか?ということに興味が出て来たのだ。
 10代や20代にとっては30歳を超えた人たちはオトナに見えるだろうし、自分たちの考え方が理解されているとは思っていないだろう。
 でも40代や50代からしてみると、その若者たちの考え方は理解しているような気になっている。それはなぜかと言えば、自分たちが若い時と同じであると感じているからだろう。
 でも、若い時と同じであるということは「古いまま」ということであって、本当に若い人たちは恐らく全く違う考えかたをしているに違いない。
 
 社会保障的な観点から見て、団塊世代以上のひとたちが年金とかでも得をして、その負担を続く世代に押し付けている構図があるし、40代、50代は押し付けられた感を感じながらも、旧制度の恩恵にギリギリ預かりつつ、同じ「若者」として被害者ヅラしながら、実はちょっとだけ自分たちの世代が得していることも知っている。
 そんなズルさには10代、20代はとっくに気づいているような気がしている。
 だからこうした若い世代はオトナのことを信用していないとも感じるのだ。

 2013年はこうした若い世代のプロフィールと若者ヅラしている中高年の化けの皮がよりはっきとむき出しになるような気がしている。
 だから僕はもう、若者ぶるのを辞めようと思っている。
 今の年齢でしか出来ないことは何かをやるために。

 結局、今の中年、主に自分と同じ40代たちは上手く中年になれずにいて何かをごまかして生きていいるような気がしてならないのです。
 2012年相変わらず不況が続き給料も下がり続ける一年だった。
 どの業界もあまりいい話はなく、株価も低迷、自民党の大勝で終わった衆議院選挙も決して自民党が信任されたわけでは無いことは周知の事実。民主党時代の総理よりも支持率の低い安倍政権がスタートしたが、それも他に選択肢が無いがゆえの様子見。
 こんな閉塞感を感じる今の時代、方々で聞くのが「原点に戻る」というセリフだ。
 僕自身もある時期、企画書を書くと必ずといっていいほど「原点に戻り・・・」という表現を使っていた。

 でも、最近思うのだが、一体何回原点に戻るつもりかだろうか。
 選挙の度に原点に戻る政治家、年末年始特番のたびに原点に戻るディレクター(自嘲気味)、アルバム発売のたびに原点に戻るアーティスト、年始の挨拶の度に原点に戻る経営者・・・・。
 原点に戻るというフレーズに隠されているのは「成功体験に戻る」ということではないだろうか。
 かつての成功の要因をよく研究することこそが「原点に戻る」ことに他ならない。

 イノベーションのジレンマという言葉がある。
 イノベーションを果たし成功した特色を持つ企業がその成功ゆえに持続的なイノベーションしか行えず、全く違う特色を武器に破壊的なイノベーションを果たした企業に凌駕されることを言う。
 ソニーはウォークマンの成功体験が故にアップルのi-pod、i-tunesの爆発的な成功に対抗することができなかったのもイノベーションのジレンマだ。
 そう考えると「原点に戻る」とは企業論理としては一見正しいのだけれど、原点に戻ることによってイノベーションのジレンマに陥っていると言えないだろうか。

 「原点に戻る」という言葉にはもう飽きた。
 本当は原点に戻っている場合ではないのだ。昔の成功体験の研究や確認をしている場合ではないのだ。重要なのは原点に戻らずに新しいチャレンジをすること。
 破壊的イノベーションを果たすために「原点」のことなど忘れること。
 それが今必要なことなのではないかと思う。

 2013年こそ日本が原点に戻らずに新しい一歩を踏み出す年になることを新政権に期待する。
 今、僕は「若者」に興味があって、いろいろ読み訊きしている。きっかけは先日の衆議院、都知事ダブル選挙のときの投票率の低さについてあらゆるメディアで「若者」が選挙に行かない、というコメントがなされていることにふと疑問を持ったからだった。
 20代の生活満足度は戦後最大で7割くらいの人が「生活に満足している」と答えている。でもその一方で20代の6割以上の人が「悩みや不安を感じている」のだそうだ。(2010年:国民生活に関する世論調査)この結果を見てなるほど、と思った。要するに今は幸せだが未来には不安を感じているのだな。
 もしかすると未来に不安を感じているから「今が幸せ」と感じるのではなかろうか。
 そのような分析を「絶望の国の幸福な若者たち」の中で著者の古市憲寿さんはしている。古市さん自身がこの本を書いた時点で26歳。一般的に「若者」と呼ばれる人の「若者論」は大変に興味深く読ませてもらった。
 村上龍さんが「希望の国のエクソダス」の中で『この国には何でもある。だが希望だけがない』と書いていたことを思いだす。
 20世紀の終わりに書かれたこの物語の中では、現在社会に絶望した約80万人の中学生達がある日、日本を捨てパキスタンで地雷処理に従事する16歳の少年に触発され集団不登校の行動をとる。
 そして、彼らはインターネットなどを駆使して新たなビジネスを始める。最終的には、北海道に広大な土地を購入し30万人規模で集団移住、「日本からの実質的な独立」を果たす。
 
 希望こそが生きるために必要なものであると僕は信じている。
 今日より明日が、今より未来が「良く」なると思えるからこそ希望を感じることができるのだが、そうは思えないのが今の時代なのかもしれない。
 そして、その誰もが感じている不安を「若者」に押し付けているのが僕たち中高年なのかもしれない。
 そもそも「よくなる」ってなんだ?経済的に富むことが「良い」ことなのか?幸せなのか?高度経済成長は本当に幸せをもたらしたのか?
 あえて「若者」という言葉を使うなら、その若い感性は既成観念、概念に疑念を持ち始めているからこそ、今を幸せと思うのだろう。
 そんな今の時代、人々を癒してくれるのは「自分の居場所」だ。誰もが自分の居場所を求めている。学校、地域、世代、趣味・・・自分との共通点を発見し、それを共有することで「一人じゃない」と癒される。そう、コミュニティこそ僕たちを癒してくれる場所だ。

 今の幸せ、未来の不安、コミュニティの癒し。
 
 そこにある問題点を若い世代のせいにしているように思えて仕方がない。
 高速道路無料化もまた先延ばしになった。
 若い世代のせいにするばかりか、負担を押し付けてもいる。
 まず、そのことを自分たちで気づいて修正していかないと何も解決しない。
 問題は「若くない人」にこそあるのだと思うのだ。