心理学の1ジャンルに「行動分析学」というものがあります。
 これは人間の精神分析学てきな心理学とは一線を画するジャンルで、無意識、リビドーなどといった概念を使って人間の心理を説明しようとする精神分析学に対し、行動分析学は人間を中身のわからないブラックボックスと考え、刺激を与えた結果起こる行動の変化のみに着目して客観的な観察によって人間の心理を説明しようとするジャンルの心理学です。
 この行動分析学の考え方で基礎となる実験で有名なのがパブロフの条件付けです。
 行動分析学では正の刺激と呼ばれる人間にとって嬉しい刺激と、負の刺激と言われる人間にとって不快な刺激を使って人間の行動を制御することを実験していきます。
 この考え方によれば実験者が意図した通りの行動を取ると正の刺激を与え、実験者が意図した以外の行動を取ると負の刺激を与えると、実験者の意図した通りの行動を取るようになります。
 こうした行動分析学の実験は実験バトやラットで行います。
 しかしこの理論は大きい意味では人間にも応用できると考えられています。
 そのため、実際に会社のような組織において社員の行動をコントロールするために行動分析学的な考え方を社員教育に応用するチャレンジも行われているようです。

 刺激によって動物の行動をコントロールする、僕は体罰とはこの行動分析学的に見れば、負の刺激によって生徒の行動をコントロールしようという試みでしょう。
 教育というのはある種、正の刺激と負の刺激を使って社会行動を覚えさせていく場であるとも言えるわけで、必ず負の刺激としての「体罰」というのは昔から存在していることは否めません。

 教育の場、学校における体罰について自殺者が出たことで話題になっています。
 モンスターペアレンツなどという言葉が出てくる現代にまだ体罰が行われていることが信じがたいですが、体罰の是非の論議ももう飽き飽きだという感想を持ちます。
 「愛のある体罰ならOK」とか「何発も殴るのは体罰としては行き過ぎている」とか言った議論についても、一体いつまでこんな議論を続けているのかと思うのです。
 「これは体罰ではなく傷害事件だ」という議論も見受けられます。
 大体の議論はどこで暴力と体罰の線を引くか、ということに終始しています。
 先ほどの行動分析学的な考え方で言えば、教育とは「正の刺激」と「負の刺激」を上手く使って社会的行動を取れるように制御していく作業なのであって、例え顔が腫れあがるほど殴られるような体罰であっても、その一方「正の刺激」をきちんと与えていれば自殺することなどなかったと僕は思うのです。
 この学校という場において「負の刺激」しか与えないシステムになっていた。そういう機能しか学校というシステムが果たしていなかったことが問題であると思います。
 
 もちろん、「負の刺激」の強さが度を超えて与えてられると被験者が壊れてしまうこともありますが、今回の場合は自殺なので、明らかに正の刺激が足りなかったのだと推測されます。
 やはり、「褒める」と「叱る」のバランスがとれてこそ人は育つということなのだと思いますし、今回の件を教訓としてシステム変更を図らなければ、体罰自体は絶対に無くならないいうことも確信しているのです。 
 そして何より大事なことは「話してわかることばかりではない」ということ。
 今回の解決策が「生徒の話をよく聞き・・・」といった結論にならないことを望んでいます。
 今話題の占い師(本当は放送作家で元芸人なんだけど)のゲッターズ飯田さんが番組のゲストに来たついでに「まあ、新年だし」と占ってくれるというので言葉に甘えて占ってもらいました。
 はじめに基本的な性格とかをいろいろ言われる中で「節丸さんは精神年齢が中3で止まっている人ですね」と言われました。面白いことが好きで面白いしかやらないところとか、自分の思い通りにならないとふくれるようなところとかが中3なのだと言うのです。
 自分の性格を振り返ればそういうところがあるような気がします。でも中3かあ、と自分の中3時代を思い返してみると、いろいろ思い出されます。聞いている音楽がジャズに傾いて行き、自分でもサックスをやりたいと思ったのが中3だったなあ。初めてバンドを組んだのも中3だった。
 中高一貫校に通っていたので高校受験も無く、緩みっぱなしの学校生活。でも、それなりにマジメに本を読み、サッカーをし、音楽を聴いていた。多分、恋に憧れているけれど上手く行かず女性に対して苦手意識が育ったのもこの頃か。ついでに言うならラジオに夢中になり、カセットテープに録音していたのもこの頃だ。それが今のラジオ局勤めにつながっているのかも知れません。

 「中二病」という言葉があります。中学二年生頃の思春期の少年少女にありがちな自意識過剰やコンプレックスから発する一部の言動傾向を揶揄した俗語(wiki)のようだが、よくよくルーツをたぐって行くと伊集院光さんがラジオの中で発した言葉が最初のようです。
 はじめは「社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると『アメリカって汚いよな』と急に言い出す。」のような笑えるコーナーのネタだったようですが、時代の空気を反映していたのでしょう、「中二病」という言葉は心理学的、社会学的な意味を持ち始め、現代の若者の中のある種の傾向を表す言葉になりました。
 僕の「中三のまま」は考えてみれば中二病の延長線上のようにも思えます。
 どこか、自我と社会との接点がどんどん大きくなる中でその折り合いが上手くつかなくなってしまう、そんな思春期の状態を表している言葉だと思いますし、未だに中二病のオトナも多いような気がします。いや、もしかすると自分が中二病のままだからこそ、今の若い人たちのことば分からないのではないかと思います。
 というのは、最近「若者のことがわからない」という声をよく聞くからです。
 団塊世代以下の今の中高年というのは高度経済成長期の中で育ち、日本の歴史の中で言えばかつてないほど恵まれた環境で思春期を過ごした世代なのではないかと思われます。
 未来は必ず良くなる、バラ色の21世紀がやってくると希望に溢れていた時代。若者は「若いというだけで価値がある」とまで言われ、社会にある現実に押しつぶされること無く育った世代。
 だから社会と自我の折り合いがつかないことを放置したまま年を取ること出来た世代。
 
 「今の若い人は貧困と向き合っているから、少しでもいい状況を作り出すためにすごく空気を読む。職場では年長者が望むことをするように気を配っているので、実際には上司が部下に接待されているような状況が生まれているんですよ。それを節丸さんたちの世代は気づいていない」と最近年下の人から言われたことが忘れられない。
 
 極端かもしれませんが、僕は今の社会にある問題の多くが、団塊世代以下の中高年が「大人になれなかった」から起こっているような気がしてならないのです。
 10代や20代は僕たち中高年より「オトナ」なのかも知れません。
 
 2013年は巳年。僕は年男です。
 つまり、今年の誕生日で24歳でも36歳でも、ましてや12歳でもない。48歳になるのです。
 次に巳年が来る時は還暦ですから。つまり還暦までの最後の一回りに入るということ。
 いろんな人たちは48歳のときどうしていたか調べてみました。
 ジャズトランぺッターのマイルスデイビスは48歳のとき音楽活動休止直前で、大方の大きい仕事はやり尽くした時期。54歳で復活するまで体調を崩すなど下降気味。
 同じくジャズサックス奏者のマイケルブレッカーはどうか。彼は57歳で亡くなっているのですが、48歳のときはいわゆる円熟期。若い時の戦闘的なプレイではなく、余裕を感じさせる音楽性を発揮していた時期。
 文学界ではどうか。僕が一番好きな詩人田村隆一は48歳のとき何をしていたか。代表作のひとつ「言葉のない世界」が英訳されて出版されたりしてる。すでに代表作と言えるものは作っていてこれまたある種の円熟期。
 やはりほとんどの場合、48歳という年齢は「余裕」とか「円熟」という言葉で表されるような時期になるようだ。
 その一方で小室哲哉さんは48歳のとき例の逮捕される詐欺事件を起こしていて、運気は下降し始めた時期。
 政治家で見てみると田中角栄は48歳のときは自民党幹事長。大臣は歴任しているが、総理にはなっていない。総理になったのは54歳の頃。さすがに政治家の48歳はまだ中堅か。
 スティーブジョブスではどうか。48歳のときはi-podで音楽業界に進出、まだi-Phoneが発売前の時期だ。とは言うものの、すでに今現在のapple製品のアイディアは既にあったでしょう。

 こうして偉人たちの48歳をいろいろ見てみるとやはり還暦までの最後の一回り。良くも悪くもこれまでやってきたことを礎として更なる飛躍を遂げるべき年齢であるということは言えるかもしれません。
 ときたま自分の父親が言っていたことを思い出します。
 「今の年齢でやるべきことをやれ」
 背伸びするのでも無く、卑屈になって遠慮するのでも無く、今の自分らしさを見極めろ、そういう意味だと思っています。
 あまり人の人生と較べて焦ったりするよりは自分らしい年男とになれるように努力することを決意した年頭でした。