門松は冥土の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくも無し
この一休が詠んだという狂歌が好きだ。
それは僕が年男で還暦までの12年という時間をすごく意識するようになったからだと思われる。
僕はこれまで「いつかは・・・」と思って生きて来たようなところがある。
そしてそのいつかを想定していろんなことをやってきたような気がする。
例えば「いつかは海外と日本を行ったり来たりするような仕事がしたい」という願望が未だどこかにある。そしてその願望のために英語の勉強を中途半端ながらしていたりする。
でもそのブームは突然やって来て本屋でテキストを買い込んでそれを始めるが結局最後までやらないし、モノにもならない。
携帯音楽プレイヤーにそのテキストの音声データを入れこんで会社の行き帰りで聞こうと思うが、いつの間にか音楽を聞く方が楽しいので、結局聞かなくなっていたりする。
どうして?と自分でも続かないことに情けなくなるが、そもそも日本と海外を行き来する仕事にこれから変わることがそもそもあるだろうか。
僕は47歳。ラジオ局に勤めて25年目を迎える。すでにもう分かっている。そんな仕事に就くわけが無い。なので今から英語にそこまで熟達する必要も無いし、今くらいの英語力で海外旅行は充分だし。
要するに僕は中年期に入っても少年期に抱いた儚い願望を捨てきれずにいるのだ。
これは「夢を叶える」といった類いのこととは異なり、ただ単に余計な思いを断捨離できないでいるということではないだろうか、と思い至った。
だって、本当に「海外と日本を行き来する仕事に就きたい」と心から思っているならとっくにその道へ踏み出していると思うからだ。
今のラジオの仕事やエンターテインメントの仕事に就くときにその準備をしたかといえば全くしていない。想定をしたことも無い。その仕事に就きたいと思った瞬間にはその仕事の現場に入って行き、何の迷いも無くアルバイトとして働いていた。
本気の時というのはそう言うものであろう。
そう考えると、「いつか海外と日本を行き来する仕事に就きたい」というのはある種の心の無駄であり、もうさすがに捨てて行かないといけないのだろう。
こうして自分の行動を見直すとそういう無駄な準備とでもいうことが結構あるようだ。
同じ行動なのだけれど、英語以外にも「中国を勉強しよう」ともよく思う。ウチには何種類かのテキストが転がっている。そう思って本棚を見るとフランス語の本もあった。ワインを飲むようになったときに勉強しようと思ったのだった。すっかり忘れていた。
しかしながら残された時間を意識したときに、無駄なことをする時間は残されていないのだと思うようになった。
こうやって歳を取るとともにだんだんシンプルになる。
やりたいことをすぐにやる。
きっと英語の勉強だってその行為自体に楽しいと思える要素があればいいのだろう。
やりたいと思って瞬間にもう始めているのであって、そのテキストブックを本屋に買いに行っているようではダメなんだ。
昔松任谷由実さんは「何かをやろうと思ってまず学校に行ったり習いに行ったりする人は大成しない。本気でやろうと思っている人は人に教えてもらう前にもう自分で始めているものだ。私も音楽は習いに学校へ通ったことは一度も無い。」と言っていた。
今年は少しこうした心の無駄を断捨離することに心を傾けたいと思う。
この一休が詠んだという狂歌が好きだ。
それは僕が年男で還暦までの12年という時間をすごく意識するようになったからだと思われる。
僕はこれまで「いつかは・・・」と思って生きて来たようなところがある。
そしてそのいつかを想定していろんなことをやってきたような気がする。
例えば「いつかは海外と日本を行ったり来たりするような仕事がしたい」という願望が未だどこかにある。そしてその願望のために英語の勉強を中途半端ながらしていたりする。
でもそのブームは突然やって来て本屋でテキストを買い込んでそれを始めるが結局最後までやらないし、モノにもならない。
携帯音楽プレイヤーにそのテキストの音声データを入れこんで会社の行き帰りで聞こうと思うが、いつの間にか音楽を聞く方が楽しいので、結局聞かなくなっていたりする。
どうして?と自分でも続かないことに情けなくなるが、そもそも日本と海外を行き来する仕事にこれから変わることがそもそもあるだろうか。
僕は47歳。ラジオ局に勤めて25年目を迎える。すでにもう分かっている。そんな仕事に就くわけが無い。なので今から英語にそこまで熟達する必要も無いし、今くらいの英語力で海外旅行は充分だし。
要するに僕は中年期に入っても少年期に抱いた儚い願望を捨てきれずにいるのだ。
これは「夢を叶える」といった類いのこととは異なり、ただ単に余計な思いを断捨離できないでいるということではないだろうか、と思い至った。
だって、本当に「海外と日本を行き来する仕事に就きたい」と心から思っているならとっくにその道へ踏み出していると思うからだ。
今のラジオの仕事やエンターテインメントの仕事に就くときにその準備をしたかといえば全くしていない。想定をしたことも無い。その仕事に就きたいと思った瞬間にはその仕事の現場に入って行き、何の迷いも無くアルバイトとして働いていた。
本気の時というのはそう言うものであろう。
そう考えると、「いつか海外と日本を行き来する仕事に就きたい」というのはある種の心の無駄であり、もうさすがに捨てて行かないといけないのだろう。
こうして自分の行動を見直すとそういう無駄な準備とでもいうことが結構あるようだ。
同じ行動なのだけれど、英語以外にも「中国を勉強しよう」ともよく思う。ウチには何種類かのテキストが転がっている。そう思って本棚を見るとフランス語の本もあった。ワインを飲むようになったときに勉強しようと思ったのだった。すっかり忘れていた。
しかしながら残された時間を意識したときに、無駄なことをする時間は残されていないのだと思うようになった。
こうやって歳を取るとともにだんだんシンプルになる。
やりたいことをすぐにやる。
きっと英語の勉強だってその行為自体に楽しいと思える要素があればいいのだろう。
やりたいと思って瞬間にもう始めているのであって、そのテキストブックを本屋に買いに行っているようではダメなんだ。
昔松任谷由実さんは「何かをやろうと思ってまず学校に行ったり習いに行ったりする人は大成しない。本気でやろうと思っている人は人に教えてもらう前にもう自分で始めているものだ。私も音楽は習いに学校へ通ったことは一度も無い。」と言っていた。
今年は少しこうした心の無駄を断捨離することに心を傾けたいと思う。