マラソンブームだ。場合によってはトライアスロンブームとも言える。
 なぜこれほどまでに人は走るのかを考えてみた。
 何しろ自分自身が昨年から走り始めたからでもある。
 ふと思いつくのは1980年ごろからアメリカからジョギングシューズが輸入され、アメリカでは金持ちほど走っているとそのライフスタイルを聞き、カッコいいと思いながらも何となく違和感があった。
 今のマラソンブームも結局は20年くらい遅れて日本にやってきたようにも思うのだ。
  
 流行というのは大体に日本においてはアメリカからやってくる。
 それはいい話ばかりではなく、犯罪の傾向にもそれを感じることがある。
 極端だが、1970年代にアメリカで起こったシリアルキラーによる殺人事件。次々に女子学生が殺されていく事件をニュースで報道されているのを見て、この「理由なき殺人」にすごく違和感を持ったものだ。日本じゃ起きないよな、と思ったことも憶えている。
 ところがその20年後90年代の日本ではサカキバラ事件や池田小学校事件など「理由なき殺人」が起きた。そのときに「ああ、ついに日本もそうなったか」と感じた。
 
 アメリカで流行った商売は必ずと言っていいほど日本で流行る。
 90年代にアメリカでスターバックスが大ブームになった。スターバックスはご存じの通り「フレイバー・コーヒー」と言われるその「香り」がアメリカ人にとってはカルチャーショックであったと言われている。
 アメリカにはいわゆる安価だが決して美味しいとは言えない、いわゆる「アメリカンコーヒー」があった。よくよく考えれば日本において「アメリカン・コーヒー」と言えばレギュラーコーヒーより薄いコーヒーを指す。このこと自体がアメリカンコーヒーを少し見下した名称であるようにも思える。
 だからアメリカ人がヨーロッパ風のエスプレッソ的コーヒーのインパクトにやれらることは想像に難くない。ただ、その一方でよく当時話していたのは「スターバックスは日本じゃ流行らないよな」ということだった。なぜかというと、日本には喫茶店という文化があり、美味しい喫茶店のコーヒーがある。ブルーマウンテンというコーヒー豆の最高級ブランドを頂点に豆にこだわる文化もある。
 そこにスターバックスが進出してもあまり受けないだろう、というのが当時の僕の周辺での感想だった。あの紙コップや飲みにくいカップのフタにしてもとても日本に馴染むとは思えなかったのだ。
 ところがどうだ。あれから15年。今や街にはスターバックスが溢れ、街の喫茶店のほうが存在感を無くしている。
 
 実は僕はこのことにすごく失望している。
 日本には「和洋折衷」「和魂洋才」といった言葉がある。島国らしく海外からやってきたものへの適応力を表現した言葉で僕は好きだ。
 しかし、最近「折衷」や「和魂」が失われている気がしないだろうか。
 
 アメリカで流行るモノは今のところ日本で流行る。
 日本独自の発信力、文化力が支えるプライドが崩壊しかけているように見える。
 柔道がJUDOになり、漫画がMANGAになり、アニメがJAPANIMATIONになり、日本だってその発信力、文化力は捨てたもんじゃない。
 でも最近はなんか結局、高いところから低いところに水が流れていくように、ただただ海外から優れたものが日本に流れ込んできていることが増えている気がするんだよな。

 話は飛ぶが金融緩和を始めとする金融政策で景気をどうにかしようという試みがなされていくようであるが、本当の景気対策は如何にして国際競争力のあるプロダクツを日本が生み出していくかなのだということなんじゃないかと思う。
 もっともっと「これって日本から始まったんだよな」という自慢を海外でできるようになってほしいものだ。
 昨晩、用事があったので夜、渋谷に車で行った。路上の駐車スペースは夜11時過ぎならどこから空いていると思い出かけたのだがこれがどこもすでに駐車されている。
 というか、渋谷駅前のTSUTAYAの周辺はオリジナルペイントをほどこされた派手な車が溢れていた。大型の古いアメリカの車だったり、キラキラ光る電飾が施してあったり。何ていうジャンルなんだろうか。そしていつからここに集まるようになって来たのか。
 そんな車たちが路上の駐車スペースに車を止め、お互いの車を愛でているというか、男同士のグループも彼女と一緒にきたカップルもいる。そんな人たちが車を降りて路上で何やら喋っている。
 
 少し前に勝谷誠彦さんが「橋下徹はヤンキー、石原慎太郎はオタク。だからあの二人は根本的に合わないのではないか?」と言っていたが、果たして最近の動向を見ていると当たっているなと思う。そして、日本には大きく分けてヤンキーとオタクがいることをその話を聞いてから意識するようになった。
 いまや40代半ば過ぎの僕の中高生時代にもヤンキーはいた。もちろんその前からいた。そしてまた昨日、土曜日の渋谷に溢れているデコカーの群れを見るにつけ、やはり今でもヤンキーはいるのだと実感。
 彼らの特徴は昔から様式美の中に精神性を見ることにあると思っている。
 リーゼント、革ジャンといったファッションが単なるファッションに終わらず、わかり易くいうと「気合いが入っている」ことの象徴になる。
 僕が昨晩渋谷で目撃した車たちも「気合いが入っている」彼らの生き方そのものを表現しているのではないだろうか。
 オタクの人たちはあまり自分たちのことを広く分かって欲しいとは思わない。「分かる人にだけ分かればいい。」という意識がある種の特権意識と聖域を生む。
 秋葉原は昔からオタクの街。その街を楽しむにはある種の特権意識の共有があり、聖域となる。

 どちらがどうだということは無いのだが、X JAPANとかEXILEとか浜崎あゆみとか、そこにあるヤンキーの匂い。何かを表現せずにはいられないその精神性。記号化したファッション、様式美。
 そのニュアンスは日本の祭りにも見ることが出来る。ハチマキに法被、そして神輿。様式美に精神的な表現を見る姿勢はここに始まっているのかも知れない。
 
 そうか分かった。古来から日本にある「ハレ」と「ケ」。
 「ハレ」がヤンキーで「ケ」がオタク。
 もしかするとヤンキーとオタクは表裏一体なのかも知れない。
 うーん。
 もう少し研究してみようっと。
 オールナイトニッポンが放送45周年を迎えているけれど、いろいろ作業をしていてふと気づいた。45年の半分以上が「平成」であることに。
 昭和42年にスタートしたラジオの深夜放送「オールナイトニッポン」だが、番組の有名パーソナリティ、カメ&アンコーや哲ちゃん、中島みゆき、タモリ、たけし・・・一般的に思い浮かべる面々はみんな「昭和時代」に放送されたオールナイトニッポンだった。
 もちろん、平成になってからも名パーソナリティは多い。松任谷由実、福山雅治、西川貴教、aiko・・・。でもいわゆる深夜放送として有名なものは昭和のものが多い。
 これは人口の中で数が多い「団塊の世代」がラジオの深夜放送を支えてきたからだけれど、その一方で45年を俯瞰してみると平成時代のオールナイトニッポンには劇的な変化があるように感じられる。
 一番大きい要因はコミュニケーションツールだ。昭和時代のラジオのコミュニケーションツールはご存じのとおりハガキ、そして電話。音楽リクエスト番組の電話受付センターで何十台もの電話の呼び出し音が鳴る光景はリクエスト番組の定番だった。
 これは昭和40年代から平成になるまでほとんど変化がなかったが、平成になるとコミュニケーションツールが劇的に変化していく。
 まず登場したのはファックス。ファックスの登場はラジオ番組を決定的に変質させた。
 それまでは放送で投げかけるとリスナーがハガキで返してくるので何日間か時間がかかった。ところがファックスは投げかけてモノに対する反応がその番組内で返ってくる。結果として「今日の募集テーマ」という手法が登場し、この手法は今でも使われている。
 放送局には何十台もファックスのおいてあるファックスセンターが出現した。
 次に携帯電話。僕が自分で携帯電話を初めて買ったのは平成5年頃だったと思う。そしてメール。はじめはパソコンから始まった。僕がパソコンを買ってメールを始めたはやはり平成6年頃だったと記憶している。そのあとはあれよあれよという間にインターネット環境が発達していく。
 番組でメール受付を始めたのが1999年、平成12年。そして「番組ホームページ」というものが始まる。当時、会社にいるほとんどの人がワープロを打てなかったことも懐かしい。
 現在コミュニケーションツールはさらに増え、twitterにfacebook、そしてLINE。
 かつてラジオはtwo way、パーソナリティとリスナーが向き合う1対1のメディアと言われていた。番組でパーソナリティで自分のハガキが読まれる「スペシャル感」がそれを支えていたのと思うが、今やブログやtwitterを通じて有名人とやりとりするのが当たり前になり、場合によってはAKB48のように「会いに行けるアイドル」が出てくると、ラジオの深夜放送が持っているある種の密室感にあまり価値が無くなってきているように思える。

 このコミュニケーションツールの変化が今どんな変化をリスナーに及ぼしているかまだ全体像は正直見えていないし、10年後どころか5年後のことさえ想像がつかない今、ふと昭和が遠くなったことを感じる今日この頃。
 
 ただ、ひとつだけ確信していることがある。リスナーが待っているのは「情報」ではなく「モノの見方、考え方」だということ。
 情報は検索すれば入手できる。ところがその情報をどう捉えれればいいのか、どう解釈したらいいのか、はインターネットでは手に入らない。だから誰か人に聞くしかない。
 ラジオは誰かが喋らなければ始まらない。風景映像を流すことができるテレビ、映像メディアと違うのはそこだし、ラジオが提供すべきなのは「モノの考え方」だと思う所以である。