かつてあるマンガの編集者であり原作者でもある人が言っていた、「最近の漫画家が陥りがちな悪い傾向」の話。
 週刊漫画誌の評価の大きい指針は読者からのアンケート。売り上げはもちろんだが、それとアンケートの結果も大きく連載の継続や打ち切りに影響しているそうだ。
 当然のことながら漫画家本人は不安になり、近年はブログやSNSで読者とコミュニケーションを取る漫画家が増えているらしい。
 オフ会を開催したり、リスナーからの要望を募集してストーリー展開に取り入れたり。
 ところがそのマンガの編集者であり原作者でもある人が言うには、必ずと言っていいほど、読者とコミュニケーションを取り、その要望に影響された漫画家が描く漫画はつまらなくなって行き、むしろ打ち切りへの道をまっしぐらに走ったりするそうだ。

 これを聞いたとき、エンターテインメントの難しさを伝える典型的なエピソードだと思った。
 エンターテインメントの送り手、作り手は常に「期待に応えよう」とする。当たり前の事だが、お客さんが何を望んでいるのかを知ろうと努力する。
 だからマーケティングは重要で、その結果に基づいて戦略を練って行くことはどこでもやっていることだろう。
 ところがエンターテインメントの受け手は「期待に応えて欲しい」と望む一方で「(いい意味で)期待を裏切って欲しい」と望んでいる。漫画であれば自分では想像もつかないような展開や結果を望んでいる。これが非常にややこしいしエンンターテインメントの難しさであると思う。
 だから前出のネットやSNSで読者の期待に応えようとした漫画家は「期待を裏切ってほしい」と望む読者の期待には応えられなかったのだろうし、自分にアクセスしてくる積極的な読者の意見、いわゆるヘビーユーザーの意見については知ることが出来たが、それ以外の彼が描く漫画に関心が無い人々、または彼の漫画を読むが特に声を挙げな人たち、いわゆる「サイレントマジョリティ(声無き多数者)」の考えていることまで考えが及ばなかったのだろう。

 今のところこの「サイレントマジョリティ」の意見を聞くことができるシステムは存在しない。
 今のSNSでもいろいろなチャレンジはなされているがまだ有効なものは無いようだ。
 現在のマーケティングではこの「サイレントマジョリティ」の意見をピックアップすることは出来ない。ではどうするか?
 これは想像力を巡らすしか無い。
 自分の外側ではなく、内側に答えを求める。
 でも、実はこの行動がもっともクリエイティブなのではないかと僕は思っている。
 「こんなことをしたら喜んでもらえるかな?」「さすがにこの展開は想像できないだろう!」と自分でああだこうだとイメージを膨らませる。
 この作業無くしてアイディアなどまとまるはずも無い。
 そう分かっていても、僕たちはマーケティングデータを前にして何かを読み取ろうと思ってしまうのだが、ときには内側に向かっていったほうが有効な手だてを思いつくものである。

 こたえはすべて自分の中にある。
 人間のイマジネーションは無限。
 現在のインターネットの世界で繰り返しチャレンジされている「集合知」へのアプローチも結局は自分の外側に答えを求める限り徒労に終わるような気がしているのは僕だけでは無いだろう。

 「期待に応える」と「期待を裏切る」。
 全く逆のように聞こえるこの二つの要素、そしてそのバランスがエンターテインメントの面白さの核なのだとインターネットが発達すればするほど改めて感じるのだ。
 昨日は赤羽ハーフマラソンというイベントに出場したのだが、そこで走り終えた直後、かつて一緒に仕事をした仲間とバッタリ会った。二人とも走った直後に息を切らせながらの久しぶりの挨拶。
 お互い「こんなところで会うとは」と笑いつつ一緒にレース後のビールで乾杯し、ひとしきり話をして別れた。
 知っている人とバッタリすることはよくあるけれど、何か不思議な引き合いがあるような気がしてならない。僕にはひとり「バッタリ友達」とお互いが認識し合っている友人がいる。
 彼は中高の同級生だが、最初のバッタリは会社に入って数年渋谷の路上。彼はアメリカに住んでいたので、そのときは偶然日本に戻っている時だった。その次はニューヨークの路上でバッタリ。その時期は僕がニューヨークに住んでいたのだけれど、それでも驚いた。次は六本木のラーメン屋の前でバッタリ。さすがに「え?」という感じで、ここまで来るとお互いこの「バッタリの不思議」を意識せざるを得ず、次はどこで会うのだろうね?と話していた。
 しかしバッタリの神様?は期待を裏切らない。次はなんとロスの空港。さすがに二人で顔を見合わせて爆笑。その上、たまたま「どこに泊まるの?」と聞かれ、出張だったのでギリギリで取った予定されているホテルを答えると、「そこよりもいいホテルあるけど、取ってあげようか?」と取ってくれた。ここまで来るとホントに不思議だね、とロスで食事をしながら語り合った。
 その後彼は日本に戻って来ているのだけれど、それでもバッタリは続く。ある日僕が担当するラジオ番組にアメリカのコーラスグループがゲストにやって来た。そして何と、そのグループの通訳が彼だったのだ。これもある種バッタリだよな、この不思議な縁について語った。
 これは極端な例であるにしても、バッタリというのは偶然のようでいて必然のような気もする。
 会いたいと思っている人に会うこともよくあるし、特に会いたいとも思わない人とは気がつかないだけなのだろうか、あんまり会うことは無い。
 でも、そのバッタリがまた二人の縁を深めるきっかけになることはよくあることだ。
 昨日もそのバッタリがきっかけとなり、近いうちに飲みに行く約束をした。
 こうした偶然のような必然のような不思議な人との出会いは改めて大切にしようと思った一日だった。
 ヤンキー論に興味が出て「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析/斉藤環」を読んでみた。精神分析学的見地からヤンキーを分析した本で大変に面白く、いくつか僕にとっては印象的な内容があった。それは日本文化について触れた部分だ。

 この本によれば日本には西洋のような「過去」「現在」「未来」という概念が本来無いという。あるのは「いま~いま~いま・・・」という今の連続なのだと。
 「つぎつぎになりゆくいきほひ」と表現されているその概念。日本では古来、時間を今が連続していくものという捉え方をしていたという。
 そして伊勢神宮の式年遷宮を例に取り上げ、20年ごとに新しい社殿を建てて遷宮していくこの行事について三島由紀夫が書いた文章を載せている。
「いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである」(文化防衛論/三島由紀夫)

 西欧では建築物はどこまでいっても最初に建てたものがオリジナルである。その建物と同じ形状のものを別の場所に建てたからと言ってそれがオリジナルになることは無い。
 ノートルダム寺院に見た目が似た建物は数あれど、その似た建物は決してノートルダム寺院にはならない。考えてみれば当たり前のように思えるこのことが日本では全く通用しない。
 式年遷宮においては新しい社殿を建てるとそこが新しい“神様”の居場所になりオリジナルになっていく。

 このことを読み、武道における「守・破・離」を思い出した。
 日本にはマニュアルでもない、ノウハウでもない「型」という考え方がある。
 型を守り、型を破り、型を離れる。
 そこに式年遷宮と共通したものがないだろうか。
 目に見える社殿に目に見えない“神様”が宿る。
 目に見える「型」に目に見えない武道の精神が宿る。
 祭りにおける神輿もそうだろう。
 古くなった神輿は新しく作り変えられるが、それが新たなオリジナルとなる。
 このときオリジナルであるかどうかを決めるのは目に見えない精神性ではないだろうか。
 入れ物と中身。中に目に見えない精神性が宿ることが日本文化では重要なことなのだ。
 これは実はロックンローラーがリーゼントと革ジャンというスタイルをするときに、決してそこにあるファッション性が大切なのでは無く、「気合いが入っている」という精神性を表現する手段であることがポイントになることとも通じる。
 
 そんなことに深く感じ入り、ヤンキー性は様式美に精神性を見ることなのだとあらためて思い、そこにすごく日本古来のものへのリスペクトを感じる。
 ヤンキーが「横浜銀蝿」とか「夜露死苦」とか、やたら漢字で表記することも日本古来のものへのリスペクトなのだと思うと妙に納得できるのだ。