先週と今週の2週間断酒をしている。
 理由は今週日曜日にマラソン大会に出るからなのだが、この1年ちょくちょく自分の健康にとってもいいことなんじゃ無いのかと思い断酒をたまにしている。
 その期間中に飲むものは食事の場ではノンアルコールビール。そのあとは炭酸水。家ではのんある気分というノンアルコールカクテルを飲んでいる。
 ビールと較べるとノンアルコールビールは美味しく無いという人も多いが、僕は断酒期間に限って言えば結構満足してしまう。飲みに行っても炭酸水にレモン入れて飲むと何となくジンソーダのような気もするしレモンサワーのようにも感じるし。家で寝る前にテレビ見ながらポテチでも食べつつノンアルコールカクテルを飲んでいるとまるで酒を飲んでいるかのような気分になるものだ。
 酒を抜くと寝起きがよくなるし、熟睡しているようにも思う。とするとお酒を飲む理由って何だろうか。

 人間の歴史を見てもどこの国にだってアルコールはあるし、太古の昔からお酒は飲まれている。いつの時代にも酔っ払いはいるし、酔って大いに語り合うなんてことは現代に至るまでそこらじゅうで見られる光景だろう。
 僕の好きな読み物で、プラトンの対話篇「饗宴(Symposion)」という古典がある。これは簡単に言うと、哲学者のソクラテス、喜劇作家のアリストファネスほかの面々がエロス(愛)について酒を飲みながら語り合う架空宴会を読み物にしたものだ。プラトンは紀元前427年生まれの人なのでこの「饗宴」はキリスト教が生まれる前の読み物である。
 キリスト教の倫理観が生まれる以前に書かれたその内容の奔放さには驚かされる。
 「エロスについて語る」というと古典だからもっともらしく聞こえるけれど、要は下ネタである。酔って恋愛や男女のこと性に関して話しているのだ。
2400年前の人たちもやっぱり男女の話、誤解を恐れず言えば酒の席では下ネタを話していたのか、と改めて人間が昔も今も変わらないことにも元気づけられる。
 この古典の中では同性愛についても肯定的なトーンだし、「昔は男と女以外に両性具有の人間がいた」というトピックが出るに至っては、「そんなこと言っていいの?」と思わせられる。
 こうした自由な議論が酒の力を借りて行われることに僕はお酒の魅力を感じているのかもしれない。お酒というの自分の中の一線を超えるスイッチの役割を果たしているのかもしれない。

 かなり前だがミュージシャンの吉井和哉さんが一時期お酒を止めていたことがある。
 ツアー先に取材に行って一緒に食事をしたとき、飲まない吉井和哉さんに気付いてその理由を聞くと、「もう十分すぎるほど飲みましたから」と答えた。その姿は当時の僕には聖職者というか求道者というか何か水墨画で書かれた1シーンのように感じられ、妙に感心し尊敬の念を感じるとともに少しがっかりしたのだった。
 しかし、何年か前に吉井さんにたまたま六本木の路上で出くわしたことがある。
 「飲みに行きましょう」と彼に誘われるがままに合流し、深夜まで酒を飲んだ。そのときにかつて吉井さんが酒を止めていたことを思い出し、元気に飲んでいる目の前の吉井さんを見て、「やっぱりロッカーはこうでなくちゃ!」と改めて吉井和哉という人を好きになったことを思いだす。
 なぜ酒を止めていたのか、そしてなぜまた飲み始めたのか、その理由は何であれ僕は酒を飲み交わし、語るあの場が大好きなのだと改めて思った夜でもあった。

 もしかすると酔ってエンディングおぼろげになる事も酒席の魅力なのかも知れない。なんだかまだまだそのシーンがto be continuedとなるような気がして。
 だから僕は来週からまた飲み始める。酒を飲まない期間があるから余計にお酒は美味しく感じられ、飲める歓びを心から享受できる気がして。
 今、ニッポン放送の「ザ・ボイス~そこまで言うか!」という番組にご出演いただいている勝谷誠彦さんがよくご自身のメルマガで使うフレーズに「大マスコミ」というのがある。
 これは権限が巨大化して驕りをみせるマスコミを揶揄した言い方であるわけだが、いつもその言葉を聞くとラジオが大マスコミに入っていない(たぶん)ということにえも言われぬ戸惑いを感じるのだ。
 ラジオというメディアはかねてよりテレビ、新聞とともに「マス・メディア」と呼ばれてきた。しかし、近年ネットメディアの台頭で相対的にさらに影響力が下がったように感じられ、「そもそもメディアっていうのはさあ・・」という議論のときにその話題の中に入れてもらえてない印象を覚えることも多くなった。
 もちろん昔からテレビとは違った方法論にラジオの生き方があるのだと僕自身は思って来たのだが、ここのところますますネットメディアの発達や多チャンネル化により、テレビさえも相対的に影響力が下がってきている気がして、もうテレビも新聞も「大マスコミ」と感じられなくなっているのが正直なところだ。
 このことをよくよく考えると、そもそも「体制」と「反体制」という構図が成立しなくなってきていることと関係している気がする。
 安倍総理が総理になる前からソーシャルメディアを使って活動をしているし、ソーシャルメディアによってテレビなどでされる中傷に対して反撃をする場面も多々見られていた。
 そもそもソーシャルメディアとかネットに本来ある性質は「水平志向」だと思っている。これまで社会構造の主たる要素は年代だった。ロックも大人に対する反抗の音楽だし、若者文化というのは常に年上世代に対する反抗をそう動機とするものだった。また理由なき社会的慣習や社会制度も前世代から押し付けられたものとして捉えそれに反抗していくことが社会が前へ進むひとつの要因であったことは間違いない。
 しかしネットが一般化するに従って社会は違うグルーピングの動きを見せている。
 今は「コミュニティ」と呼ばれることが多いが、同じ趣味嗜好を持った人間同士が集まる場のことだ。それがネットを介することで成立しやすくなった。結果としては世代や社会的バックグラウンドを超えた交流が生まれ、そのこと自体は歓迎すべきことだと思うけれど、我々が「体制」だと思っていた強大な「何か」が消滅しかけているように感じる。
 これは評論家の宇野常寛さんがその著書「リトルピープルの時代」の中でジョージ・オーウェルの「1984」と村上春樹の「1Q84」を比較して、オーウェルの言う国家権力の比喩である“ビッグブラザー”が現代では解体し貨幣と情報のネットワークこそが現代人の「壁」になっていると論じていることにも影響を受けているのだが、今や僕らは批判すべき仮想敵を持つことが難しくなっている。
 自分が年齢を重ねたせいだろうか、勘違いもあるのかもしれないが、国家中枢にいる政治家たちが自分たちとかけ離れた人たちだと感じることが出来ないのである。
 すなわち安倍晋三総理であろうとも、「ゴルフが大好き」という趣味で括れば同じコミュニティの人間であると感じられるのが現代なのだろう。
 このことが果たしていいことなのか悪いことなのか、今の僕には判断がつかない。
 でも常に新しいことは正しいし、若者のいう事が正しいことは、それが本当に正しいかどうかとは別の年老いた者は消えていくし、常に新しい子供が生まれてきているこの世界の法則なのだ。
 理解不能と年上に言われた若者たちももうすぐ社会の中枢に入っていく。昔の「新人類」たちも今や老年に差し掛かっている。
 だから僕はなるべく冷静に時代を観察し、新しい流れに与して行こうという気持ちけは失わないようにしている。
 番組の打合せで東京の街の話題になり、地方出身の人が「東京はどこの街も何だか合わない」と言った。今、その人は高田馬場に住んでいるが、そこが彼にとっては数少ない許容できる東京の街であるらしい。
 その他にも「東横線沿線にあるスノッブな感じが嫌だ」とか、渋谷と世田谷があまり好きじゃないが、このふたつの街の影響を受けている杉並もあまり好きじゃない」・・・などなど、東京の街論が盛り上がる。
 僕自身は東京の出身なので少し背景が違うものの、ある程度納得できるところがその話にあった。僕は三多摩地区の出身。三多摩地区は多摩ニュータウンに代表されるような戦後の東京が発展するに従って人が住み着き新興住宅地、「ベッドタウン」として栄えた場所だ。
 僕の父親は福岡出身なので、東京の人になったのは父親の代からである。僕が住んでいた三多摩地区はあまり「濃い」場所ではない。住んでいる人間の質が揃っているというか。それはそうだろう。ほとんどの人たちが戦後東京に移住して来た人たちなのだ。その土地の歴史とは深い結びつきは無く、継承されてきた習慣や風習にも疎い。近隣との付き合いも最近始まったばかりなのでそれほど密接では無い。
 高校生のとき、東京の中心部から東にある三多摩地区から僕が都心に向かって行くとき、西の臨界点は新宿だった。でも就職してからはいわゆる下町方面にも行くようになり、同じ東京の中でこれほどまでに文化が違うのか?と驚かされる事実に遭遇した。
 僕の友人の下町生まれ下町育ちの人によれば、小中のクラスメイトには当たり前のよう反社会的勢力のご子息たちがいるし、すごくお金持ちの家の子から貧乏な家の子までいたそうだ。こうした様々なバックグラウンドを持った子どもたちが同じ学校にいたときの異文化体験?は子どもが社会に対する理解度に強い影響を与えるに違いない。
 学校に行こうと家の玄関を出るとそこに泥酔した酔っぱらいが寝ているとか、僕の住んでいた場所では考えられないような光景が日常的に繰り広げられていたそうだ。
 東京に来て外国人が驚くことはまず、その広さだそうだ。というのはニューヨークだってパリだって東京に較べると相当小さい。
 ロスだって大きいと言いながら、その密度はスカスカで建物の密集地以外はかなり閑散としている。ところが東京という街は行けども行けども建物ばかり。それほどまでに人間が集中している街は海外にはなかなか無い。
 調べてみると今の首都圏の人口は相変わらず増え続けていて、2010年で3600万人弱。僕が社会人になった24年前は3400万人と教わったことを考えると200万人もあれから増えている。

 都市に集まる人たちが描き出す重層的な文化模様。最近そのことを語る人がいない、とその地方出身の人は言った。その人こそ評論家の宇野常寛さん。4月からニッポン放送で毎週金曜日深夜3時からのオールナイトニッポンゼロのパーソナリティを担当する人だ。
 宇野さんのあまりに鋭い視点、評論にすでに知られているところだが、リアルタイムで今、考えていることを伝える場にラジオがなることはとても興味深い。
 僕は彼のような人がオールナイトニッポンに登場することがすごく今の時代を表していると感じている。