先日ある仕事関係の年下の友人から言われた。
 「何をやりたいか漠然と分かってはいても、その方法論や頭の整理ができにくかったり、具体的な動き出し方が分からないという問題は皆が抱えていると思います。」
 そうなのか。
 最近、採用選考時に最も重視される能力はコミュニケーション能力、社員に求めるスキルのトップはマネジメント能力だそうだ。今の経営者は「知識や資格」より「生きる力、コミュニケーション能力」を求めているとも。
 海外の大学には人材開発を専門に勉強できる修士課程もあるようだ。
 まあ、アメリカという国はどんなに曖昧なこともどんどん分析して学問にしていってしまうところがある。人材開発修士って言われてもなんか違和感は否めない。
 最近流行りの「グローバル人材開発」。企業の経営者もよくその本質が理解できないまま「グローバル戦略」を語り、それに社員が振りまわされている。
 グローバル人材開発に関連してよく語られるのは「ただ単に英語が出来ればいいというもモノでは無い」というような議論だ。もちろん、言葉はツールに過ぎないから英語が喋れるからってそれで仕事が出来ることにならないことはよくわかる。
 でも、世の中は英語勉強ブーム。会社はそうは言っても社員にTOEIC高得点を望み、社員側も必死で英語能力を上げようと努力する。

 どうも、最近のビジネスマンは掴みどころの無い課題を与えらて闇雲に取り組んでいるのではないだろうか。僕には幽霊に向かって殴り合いをしているようにさえ感じられる。
 たぶん、若いサラリーマン(この「若い」という曖昧な表現は問題だが)最近会社で「おまえは何がやりたいんだ?」と質問されているだろう。近年「自分で考えて行動しない新入社員」の話は定番だ。本当にそうだろうか?何をやりたいのかわかっている上司たちもその「やりたいこと」は実は前世代に提示されたものなのでは無いだろうか?
 どうも、最近組織で求められるのは「個人を尊重し、個人の考える力を育てること」のようだ。
 僕は思う。そんなこと今の社会じゃ無理に決まっている。なぜかといえば、「個人の考える力」は理念なき場所では育たないと思うからだ。
 戦後の高度経済成長期に共有されていた「夢と理想を求める時代」の理念は完全に崩壊した。
 でもそれを団塊世代を中心とした、高度経済成長期の成功体験を忘れられないお爺さんたち、つまり今の日本企業のほとんどの経営者たちは理解していない。
 今、日本社会に足りないのは理念、大きい考え方、そしてそれを提案してくれる人、政治家、経営者、メンター。
 グローバリゼーションは英語、外国語を学ぶことではなくて、海外に住んで現地の人、文化と接して自分の常識が全く通用しない異文化体験をすることからしかスタートしない、それが海外でビジネスを展開する唯一の方法だ。東京だけで生活していると大阪で売れるものも分からなくなるのだから、海外ならなおさらだ。
 この文章の冒頭で触れた「具体的な動き出しかたが分からない」年下の友人は何かこの時代の過渡期に生きているからこそ自分で自分の生き方を作り出して行かねばならない。彼らには前を歩いているひとはいないのだ。新雪に新しい足跡をつけていくが如く、新たな時代を切り拓いて行かねばならない。それは大変であるがとてもワクワクすることでもあると思う。
 僕自身はそういう若い世代のために何かをしなければならないのだとこの頃思っている。
 
 最近ちょっと反省モードである。
 今週からオールナイトニッポンゼロ金曜日のパーソナリティをお願いした宇野常寛さんと自民党の石破茂衆議院議員の対談本を今読んでいるのだが、その中で石破議員が「今の若者が車に乗らないのは“乗りたい車”が無いからではないか」と言っていた。
 要するにカッコいい車が存在しないからそこに需要が生まれないのだということ。
 車に乗らない若者が増えていることについてはこれまでいろいろな事が言われていて、「長期経済不況のためお金が無いから」とか「インターネットの発達によって若者のライフスタイルが変わり必要としなくなったから」と言うのがよく語られる理由だ。
 いつも若者が車に乗らないのは不景気のせい、とか社会の変化のせいにされてきたのに石破議員は「乗りたい車を作れないメーカーが悪い」と言うのだ。
 そして僕は「もしかするとそうかも」と思ってしまったのだ。

 こうした現象をソフトの質が低いからだ、と断じられることは耳が痛い。僕もラジオ番組の制作者の端くれであるからして、「ラジオが聞かれないのは面白い番組が無いから」と言われたくはない。だからやっぱりラジオを聴く人が減っているのはラジカセのようなハードが無くなったとか、ネットや携帯電話が発達したので相対的にラジオの力が弱くなった、という理由にすがる気持ちは強く、なるべくなら作り手である自分のせいでは無いと言いたい。

 でも、もしかしたらそうかも、と思ったのは、今週あることがあったからだ。
 今週月曜たまたま渋谷で仕事が終わった僕は自宅がある代々木上原まで歩いて帰ることにした。東急本店通りから神山町、NHKの裏を通って代々木八幡駅への道すがら、つい1年前くらいに出来たお店が閉店しているのを発見した。
 「もう、つぶれちゃったのか。最近は飲食店の入れ替わりが激しいなあ。」と思い、道すがら通り沿いの飲食店をなんとなく眺めているうちにあることに気が付いた。この日は月曜日、通常はあまり飲食店は盛り上がらない日。ところが僕が見た飲食店は満員の店と全く入っていない店と二極化していたのだ。ワサワサと賑わっている店の隣の店は店主が伝票を広げて事務作業をしている。あれ?閉まっているのかな、と思い店の入り口を確認すると「営業中」の表示。
 恐らくこれはネットメディアやソーシャルメディアが発達したからでは無いだろうか。グルメサイトのレビューや、ネット上の情報交換で「美味しい店」というのものがあっという間に広がる一方で、大して美味しくなく、売りも無い店は流行らない。だから結果としてこういう現象が起きる。
 ということは情報交流、共有が盛んになればなるほど美味しい店に人が集まり、美味しくない店には行かなくなるのだろう。結局は飲食は「美味しさ」というソフト力が高い店のみが生き残る。

 これは他のモノづくりのジャンルでも同じこと言えるだろう。
 ネットメディア、ソーシャルメディアが発達している今、面白い番組は聞かれ、ワクワクする車は売れるということになる。
 つまり昔以上にソフト力がその売り上げを左右する時代に入ったということなのかもしれない。 
 だからソフトが、僕の場合はラジオ番組、が評価されない理由は単純に「面白くないから」に違いない。それを今まで自分以外の何かのせいにして来て無いだろうか、いや、「して来た」のである。
 今という時代は「いいもの」を作ればそれがユーザーから直接評価される時代。ユーザーは検索し、手に入れたあとはその感想を共有する時代。
 現代は才能ある作り手にとってはとても良い時代だが、その一方で作り手にとって非常に厳しい時代でもある。
 かつての日本映画がそうだった。
 今から20年くらい前、当時はハリウッド映画全盛で日本映画は古臭い低予算映画ばかりで、「日本の映画産業は終わった」と言われていた。
 しかし、その後新しい映画監督や作り手が現れ、その質は飛躍的に上がる。現在でもハリウッドに較べたら低予算だがいい映画も多く、日本映画を観に行く人も増えた。
 ビデオ屋に行っても昔は一部だった邦画のコーナーは洋画コーナーと遜色ない広さとなっている。
そんなことを思うにつけ質の高いソフトを作り続ければ楽しいことが待っている、と改めて思っているのだ。
 松枝佳紀さんが脚本、演出の舞台「国家~偽伝、桓武と最澄とその時代」(@新国立劇場小劇場)を観劇した。
 松枝佳紀さんと僕は仕事で知り合って以来5年ほどの付き合いになる。
 もともと劇団新感線の古田新太さんや第三舞台の鴻上尚史さんといった人たちと仕事をさせていただく機会が多かった僕は演劇、特に若い演劇人たちの攻撃的な作品が好きだ。
 そんな僕にとって松枝さんが演出・脚本作品はいつも示唆に富んでいる。

 今回の舞台はタイトルの通り主人公は桓武天皇と最澄。このふたりが国家を形作って行く過程を描き出したのがこの芝居である。
 歴史を題材にした芝居、しかもかなり歴史上の有名人物である最澄と桓武天皇、空海も登場するようなものはとても作るのが難しいと思われる。観る側にもある程度の知識や、照らし合わせるイメージを持っているからだ。
 今回の芝居の中で描き出される桓武天皇と最澄をはじめとする登場人物たちはとても若々しい。いい意味で軽い。どちらと言えば同じ歴史上の人物でも国家を憂い226事件を引き起こした青年将校のような若々しさのイメージとでも言おうか。どこか「青い」。
 その「青さ」が歴史物の演劇であるにも関わらず重く無く、瑞々しい印象を残す。もちろんいつもの「狂気」はひっそりと脚本の中に埋め込まれているのだが。
 「国家~偽伝、桓武と最澄とその時代」とタイトルにあるようにこれは「偽伝」であるわけだが、「偽伝」であるが故に史実を追うだけでない、その時代の魂のようなものが作品の中に籠っていると感じた。いや、その時代の魂も、現代の魂も同じなのだ。過去・現在・未来どこにいようとも常に自分たちを継ぐ者たちの事を思い、憂い、行動を起こして行く人たちがいる。そう言う事なのだろう。

 細かい話はまだ公演中なので控えるが、この作品中に出てくるセリフに「人を育てよ」という言葉があった。その言葉は40代も後半の僕の気持ちにズドンと来た。
 どこかで気づいていながら、それに向き合うことを避けて来たこと。それはそろそろ「継ぐ者」たちのために何かしなくてはならない、ということ。
 誰かのために何かをする。それに必要なのは無私の心。でもまだまだ僕は私利私欲の人。でもそろそろ仕事の質を変えなくては、と思い始めてはいたのだ。
 「国家~偽伝、桓武と最澄とその時代」桓武や最澄にふと自分を重ね合わせて、そんな事に気づかされた夜だった。
 この舞台には舞台セットが無い。ただ360度観客に囲まれた広い舞台があるだけだ。展開するストーリーの背景は観る者それぞれの心のスクリーンに映り込む。
 「国家~偽伝、桓武と最澄とその時代」観る者のイマジネーションを刺激する素敵な芝居だった。
 今週日曜日まで。