「風」という単語を使った表現、例えば「風を読む」とか「風に乗る」とかが好きだ。
 元寇の神風のように「風が吹く」というのは思わぬ幸運や、運気の上昇を示しとてもポジティブな表現だ。
 「風」というのはある意味「幸せ」の暗喩であるかのようにも思える。
 吹かなければそこにあるかのようには感じられない。
 掴もうとして網を構えていたって掴まえられない。
 人間にはどうにも出来ない幸せへの思いを「風」に例えてそう呼んでいるのかもしれない。
 このニュアンスは「嵐」には無い。
 「嵐を呼ぶ男」とはよくも悪くも影響力のある人を指すし、「嵐」自体は人の力が及ばない激しい自然現象だが、風とは違って「読む」ものでも「乗る」ものでなく、ましてや「幸せ」の暗喩であるとは感じられない。
 少なくとも「嵐を呼ぶ男」に僕はなりたいとは思わない。

 「風のような人」だな、と思う人に細野晴臣さんがいる。細野さんがメンバーだったバンド、はっぴいえんどに「風をあつめて」という名曲があるせいかも知れない。
 「風をあつめる」という表現は路地にふと吹き起こるつむじ風のようで、そこに舞う砂埃であったりを想像させる。懐かしいような少年の目線で見上げる蒼空。

 その「風をあつめて」を河口恭吾さんが唄うのを先日聴いた。
 河口さんもまた風のような人だ。
 嵐がやってくるときは雨戸を閉め、部屋に吹き込まないようにしっかりと戸締まりをするのに対し、風はふいに吹き込み、隙間から部屋の中に忍び込んでくる。
 河口さんの唄も同じように心の隙間から僕の内側にふいに吹き込んできて気持ちを心地よく揺らすのだ。
 また、河口さんの唄は風に色を付けてくれる。僕たちは河口さんの唄で初めて風を見ることが出来るようになる。見えない気持ちが見えない音に乗り心の奥底のスクリーンで色彩を得る、そんな体験をさせてくれる。
 そんなことを感じさせてくれる夜だった。
 見えないものを信じるか否か。そんなことに関係なく風は見えないのに感じることが出来る。
 そう、感じること、人間にとって大切なことはまず感じること、そんなことを河口恭吾さんのLIVEを聴きながら感じ、考えたのだった。
 第一次世界大戦の時代に活躍したドイツの軍人ゼークトの言葉として引用されているもので印象に残っている言葉がある。
 今のところこれがゼークトが述べた言葉であるという証拠はないらしいが、以下。

軍人は4つに分類される。(wikiより)

■有能な怠け者。これは前線指揮官に向いている。
理由は主に二通りあり、一つは怠け者であるために部下の力を遺憾なく発揮させるため。そして、どうすれば自分が、さらには部隊が楽に勝利できるかを考えるためである。

■有能な働き者。これは参謀に向いている。
理由は、勤勉であるために自ら考え、また実行しようとするので、部下を率いるよりは参謀として司令官を補佐する方がよいからである。また、あらゆる下準備を施すためでもある。

■無能な怠け者。これは総司令官または連絡将校に向いている、もしくは下級兵士。
理由は自ら考え動こうとしないので参謀の進言や上官の命令どおりに動くためである。

■無能な働き者。これは処刑するしかない。
理由は働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、さらなる間違いを引き起こすため。

 最近、僕がよく飲みの席で引用する話なのだけれど、最近、僕の実感で20年以上にわたる仕事人生の中で、僕が長く仕事が出来る人、「生き残る人」「一線で頑張り続けられる人」の条件として、「人に嫌われない性格の良さ」「人の話をいつでも聞ける素直さ」そして「超然とした態度を取れる『品』があること」の3つを確信するに至り、「マジメであること」はあまり関係ないと思うようになった。
 その実感とこのゼークトの軍人の分類とはすごく共通するところがある。
 そう、結局真面目であることは仕事人生の中であまり重要ではないのだと思う。
 年齢を重ねると真面目さは頑固さに繋がり、人の言うことを聞かなくなる。
 何よりも「無能な働き者」に自分がなっていないか、または自分の職場にいないか、ということが教訓としては何よりも耳が痛い。
 加えるならば、アタマがいいということ、有能であることも「品」がなければ人を不幸にする方向に行ってしまう気がするので、そのポイントも気をつけたいところだ。
 何よりも先人の言葉に耳を傾ける「素直さ」を、まずは持ちたいものだ。
 僕が好きな小林秀雄のエッセイで「真贋」というのがある。骨董品の真贋を中心とした話なのだが、ときたまそれを思い出す。
 小林秀雄は真贋の中で「美は信用である」とも書いている。そうか美は信用か。確かに信頼している人が本物だと言ってくれればそれは本物であるかのように思えるし、そうなるとそれが本物であるか偽物であるかの事実は取るに足らぬ。自分が美しいと思えば美しいのだ。
 そう考えると、自分が「本物」と思えるならばそれでいい。だが、その一方で本物のように語られるけれど偽物に見えるものもある。
 最近思うことがある。それは20年以上仕事をしてきて、仕事仲間として「残っている」人たちのことだ。僕自身はサラリーマンなので特に目立たず、騒がす過ごすことを信条として、これまで大過なく過ごしてきた。でも、その中でも長い間自分の仕事の仲間と認めている人たちにある共通点を認めるようになった。
 それはまず「性格がいいこと」そして「素直なこと」、さらに一番大事なことは「品があること」だ。実は「アタマがいいこと」や「マジメなこと」はあまり重要ではない。ましてや「努力を怠らない人」は問題外である。
 それが僕が人間の「真贋」を見分けて行くときの基準になっている。
 その中で特に難しいのは「品がある」ということだろう。分かっているようでいて「品がある」というのは難しい。
 身だしなみや言葉使いのことであるのはもちろんのことだが、それだけではないだろう。
 言い様の無い超然とした態度、目の前の利に対して聡く無い。「武士はくわねど高楊枝」とでもいうような態度。
 かつて会社の上司にそういう人がいた。
 この人はいつもどこか浮世離れしていて、もちろん仕事に対する態度は真剣で、でもマジメかというといつも洒落の効いた物言いで煙に巻く。この人と飲んでいるととても楽しく、でも帰り道にふと今日の話が僕自身を気遣ったものだあることに気付き、愛情を感じる、そんな人だった。
 その上司がある日突然会社を辞めた。
 「いろいろやりたいことがあるから」その人は言った。会社を辞めてからもたまに飲み誘われ、出かけて行くといつも人を紹介してくれる。そして紹介してくれる人は不思議なくらいその後ぼくが必要としているものを持った人であることが多かった。
 その人は会社を辞めて数年のち病魔に倒れこの世を去った。葬儀はひっそりと行われたが、生前関係の深かった方たちが発起人となって行われた偲ぶ会は大変な人数が集まり、生前の人柄を伺わせるものとなった。
 そして、死後、仲の良かったある人からその人が会社を辞めた理由を聞いた。
 詳しくは書かないが、それは酒席でその人の上長にあたる人から酒を顔にぶっかけられるような大変な侮辱を受けたことが原因であったことを聞いた。
 でもその上司はそのことを僕たちには一言も言わず、そうしたことが全く噂になることも無く、すっと身を引いたのだ。
 その決意と潔さに満ちた行動に僕はいい様の無い「品」を感じるのだ。
 執着を断ち切る達観した心。
 そんなかんたんに手に入るものではないだろう。でも、年齢を重ねるにつれその「品」がどれほど重要かを近年思い知っているのだ。