アーティストという言葉がある。
 訳せば芸術家という意味だ。
 80年代以降、日本では音楽をやる人を「アーティスト」と呼ぶようになった。
 これは音楽業界のレーベルプロデューサーが使い始めたと言われている。
 この呼称を使うことで「アーティスト」の自覚が高まり、その「アーティスト性」がその前の時代の芸能界的なニュアンスを分けたということは音楽業界では当たり前のこととして受け止められている。
 artist=アーティスト とはどんな存在か?辞書で引いてみると「芸術家」。英語ではartisteという表記で「芸能人」のもったいぶった言い方もあるようだ。でその言葉の元であるアート=artを引いてみると、the use of the imagination to express ideas or feelingsとある。アイディアやフィーリングを表現することを目的とした想像力(創造力)の使い方、とでも訳せるか。そしてこう続くparticularly in painting,drawing or SCULPTUE. つまり特に絵画、線画または彫刻などのことを言うようだ。音楽は入っていない。
 日本語で芸術を辞書で引くと「文芸・美術・音楽のように、ある素材の独特な表現様式によって美を創作表現する活動。またはその作品」とある。「美」ということばが登場した。
 この「美」こそが日本語「芸術」という言葉を性格づけているようだ。

 というのはある人が「音楽家、ミュージシャンが自分のことをアーティストというのはおかしい」と話していたからだ。確かに「美」であるかどうかは他人が評価することであって、自分で自分の創作物を「美」であるというは確かに傲慢な態度だろう。
 英語のartにはそこまでのニュアンスがないので(僕はネイティブじゃ無いので実際の受け取られ方のニュアンスまではわからないが)「芸術」の持つ意味にかなりの日本語の奥行きを感じる。
 こんなことをしていて世阿弥の書いた「風姿花伝」を思い出した。世阿弥は室町時代に能における「花」を風姿花伝で論じた。この場合の「花」とは“観客に感動を与える力”のこと。送り手は感動を与えてようと意図してパフォーマンスをするが感動を与えられたかどうかはあくまでも受け手が決めること。このひとことでは言えない「花」という表現が「芸術」という日本語にも共振しているように思える。
 う~ん「美を追求する」ことは大変なことだとしみじみ思う。
 「あのアーティストは商業主義に陥った」的な批判は無責任なファンがよく言うことだ。アーティストだってお金を稼がなくてはいけないのに。
 でも無責任なファン、受け手としてはアーティストがお金のためにあくせく働く姿には失望を感じるもの、やはりアーティストには超然と世俗とは関係なく「美」を追求していてほしいと思うのだ。
 アーティストが自分のことをアーティストと呼ぶ違和感はこんなところに原因があるのだろう。
 僕は歩いていると人に追い抜かれる。
 「あれ?」と思う。自分ではそんなにダラダラ歩いているつもりはないからだ。
 通勤のときにも最寄りの駅まで歩いていると、後ろからヒールを履いた女性が音を立てて僕を追い抜いていく。
 どうも僕は歩くスピードが遅いらしい。それも昔より遅くなっているらしい。
 だって、昔はこんなに追い越されなかった。
 一時期ニューヨークに住んでいた時、街をゆく人の歩くスピードに軽く驚いたことがある。
 でも東京もかなり歩くスピードが速いのではないだろうか。そんなことを思いネットで調べてみると、ありました。
 イギリスの大学の心理学研究チームと英国文化院が成人男女35人が平地で18mの距離を歩くスピードを世界32都市測定したところ1位はシンガポール、2位はデンマークのコペンハーゲン、3位はスペインのマドリッド。東京は19位。僕が速いと感じたニューヨークは8位。ロンドン12位、パリは16位。中国の広州はここのところグッとスピードアップしたらしく4位。
 思ったより東京は速くない。ということは世界標準で見ても僕の歩くスピードはかなり遅いらしい。
 この歩く速度は経済発展との関連性で語られることが多いようだが、ネットで調べていくと健康との関連性も指摘されている。
 やはり歩くスピードが速い人のほうが老後も体と心が健康でいられる可能性が高いようだ。
 こうなってくると自分の歩くスピードが遅いことが気になってくる。

 僕は昨年からマラソンを始めて1年でフルマラソン2回、ハーフマラソン3回出場し、結構マジメに練習もしてきたつもりだし、走るスピードもそれなりに速くなったと自負している。
 昨年の人間ドッグでもマラソン効果で心臓の脈打つスピードも少しゆっくりになったと指摘された。要するに心肺機能が高まったと喜んでいたのだが。
 少し意識して速足で歩くようにしているときもあるが、それも長く続かず人に抜かれてハッとすることも多い。

 なぜ歩くのが遅くなったのか。その理由を考えてみると一番初めに思いつくことは「加齢」だ。要するに疲れたおっさんになったということか。いやいやまだまだ若いつもりだ。いや、でも最近はちょっと気持ちがもたなくなった、いや、こんなに走っているんだし・・・と自問自答。
 視点を変えて一番歩くのが遅い都市はどこかと見てみると32都市中最下位はアフリカのマラウイ。なぜこの国、この都市が選ばれたのかわからないが、アフリカの都市が歩くスピードが遅いというのは納得できる部分もあるが、でもアフリカ人の身体能力は陸上競技を見る限り短距離も長距離も速いので、歩くスピードも速そうなものだが。
 ということは歩くスピードは速く走れる人の精神的な余裕の表れでは、と自分に都合よく考えても見る。
 この話題結論は出ないのだが、速いと遅いとかじゃなくて自分のペースで行くことが大事なのではないかな、と思い直してみるのだ。
 

 

 
 昨年から講師をする機会が増えている。
 昨年は「企画脳の作り方」という企画発想法講座、「丸の内朝大学 ラジオーパーソナリティクラス」など何回か連続してやるものや、単発なでやるものなどがある。
 現在も4~6月で丸の内朝大学で「ラジオパーソナリティクラス~プロから学ぶ“話す技術”」という講座を担当させていただいている。
 僕の職業はラジオのディレクター、プロデューサーなので、何のプロかと言えば、「喋らせるプロ」とでも言えるのかもしれない。教えることは大きく分けて「企画発想法」的なものと「プレゼン術、コミュニケーション術」的なもののふたつが多い。
 
 僕は子供のころから「先生にだけはなるまい!」と心に決めて生きてきたのだけれど、今は「先生」、講師をやっているのだから不思議なものだ。
 先生になることを拒絶してきた理由は、両親をはじめ親戚にも先生がたくさんいたからで、「大人になったらきっと先生になるのね」と周りに言われ続けたことに反発したからである。
 両親ともに先生だった我が家は親子ともに長い夏休みがやってくる家だった。
 1週間以上の単位で旅行したりとかなり傍から見ると「環境に恵まれた」家庭だったと思うが、僕自身の感じ方は全く違っていた。「なんでウチの両親はもっと働かないのだろうか?」とある種の怒りさえ感じていた。
 友達のお父さんはほとんどサラリーマンや自営業で一年中働いているし、家族で旅行できる期間はほんの数泊で、それも僕から見ると短いからこそ濃い旅行が多く、もしくはひとりで海外に短期留学するとか、一人だからできる体験も見受けられ、僕からみると羨ましかったし、あまり長い休みに対して罪悪感を持ち、あまり変化が無いように見える「先生」という職業に不満を感じていたのだ。
 そのため「僕は将来は絶対先生にならず、競争や出世のある世界で働く!」と大学で教職課程を取ることも拒否、就職したのである。
 
 そうして就いた今の職業、ラジオの世界で暮らしてきて近年、後輩たちに自分が学んできたことを伝えていくこともしなければいけないかな、と思うことがあり、ある人との出会いから講師を引き受けるようになった。
 どこか向いていたのかもしれない。続けて講師を依頼されることになり今に至っている。
 結局自分が育った環境の影響は自分が思っている以上に大きいのかもしれない。最近仕事関係で知る人のご両親が亡くなることも多く、そのときに「どんな仕事をやっていたの?」と聞くと驚くほど親子で同じような仕事であることが多いし、職業が違っていても共通点があるということに気がついた。
 
 最近フリーになった元BS11報道局長の鈴木哲夫さんがフリーになった理由として、「ずっと書く仕事をしたいと思っていたから」と説明していたが、よくよく聞くとご尊父は新聞記者だったとのこと。ずっとテレビマン、テレビ報道の現場で似たような仕事をしてきながら、最後に残ったのは父親と同じ「書く」という仕事だったということだろう。すごく納得できる。
 それと同じことが僕に起こっているのかもしれない。
 それはそれで意外と心地よいことに驚いている。

 僕のほうは今度新しい試みとしてe-ラーニングに挑戦することになった。「オールナイトニッポンの作り方」というタイトルでNTTのネットスクールN-Academiyで講座を開講することになりましたので、ご興味がある方は是非お願いします。