今日はスポーツアナウンサーでもあり、従兄弟の節丸裕一さんとランチをした。

日々野球中継を中心にアナウンサーとして活躍している彼とはリアル親戚で、子供の頃からもちろん知っている。

少年時代も野球部で、今も野球に関わる仕事をしている彼を見ると本当に野球が好きなんだなと感心する。

好きなことは楽しい。

当たり前のことだけれど、職業ということになると、好きなことを仕事にする、ってわけには行かない場合が多いだろう。

先日avex松浦会長のyoutubeに”秒速で億を稼ぐ”与沢翼さんがゲストで出ていた。

与沢さんは松浦会長に憧れているのだと言う。その理由は松浦会長が好きなことをやって成功しているからだと。

与沢さん自身はお金を儲けることを目的に今までやってきたが、ある程度の(と言ってもすごい金額だが)お金を稼いでしまって、そのあとは「何をやろうか」と考えているのだと言う。

だから「やりたいことをやっていたらお金がついてきた」松浦会長に憧れているのだと。

人間ってお金がないとそれはそれで困るけれど、お金が手に入っても買えないもののひとつが「自分のやりたいことをやる人生」なんだろうな。

お金があれば何でもやれると思うが、与沢さんのようにお金が手に入ったら、そのあと何をやろうか考えてしまう人生もある。

お金を稼いだら自分の好きなことをやろう、と考えてそれを実践している経営者も知っている。

彼は映画が大好きで、事業を成功させてお金を稼いだら、映画の仕事をしようと決めて、実際に成功して映画会社を立ち上げた。

他にもいろいろエンタメ会社を作ったりしているが、こと映画に関して言えば、その会社が買い付けてくる洋画は、とても良いものが多いのも確かで、その経営者の「目利き」が確かなことを伺わせる。

おそらく映画が本当に好きなんだろう。

冒頭の話に戻るが、スポーツアナの従兄弟と話すなかで、近年のスポーツ中継に関することがあった。

すっかり地上波テレビでは野球中継は少なくなり、いざ、日本シリーズ中継などにおいては、中継アナのスキルが低いことが散見されると言う。

それは僕も同感で、実況アナウンサーというのは見ている視聴者に新たな視点を与えてくれる人が面白いと思っているので、ただ単に描写をするだけのスポーツ中継には物足りなさを感じてしまう。

地上波テレビの中継が少なくなったのに対し、インターネットのスポーツ中継は花盛りだ。

今度のサッカーワールドカップもアベマテレビが全試合やると言う。

普段の日本代表試合もDAZNでしか見られなかったしなあ。

でも何だか盛り上がらない。

それが放送とネットの間にある差なのかとも思うけど、その理由はもしかすると中継クオリティなのかなあと思った今日だった。

ネット中継がたくさんあるからそのクオリティは薄まってしまったのかもしれない。

でもそのクオリティの素になるのは「好きだ」と言う気持ちでもあり、好きだからこその知識、取材で、より実況は面白くなる。

好きなことを仕事にして、飽きずに深掘りしてクオリティを上げる。そんな単純なことが大切なんだろうと思う。

 

今日は京都橘大学にて行われた河口恭吾さんのライブにお邪魔してきました。

河口恭吾さんが京都橘大学から依頼されたコロナ禍で頑張る学生たちへの応援歌のお披露目。

吹奏楽オーケストラの方たちも加わっての演奏はとても素晴らしかったです。

僕自身は今回この京都橘大学からの応援歌制作依頼があった河口さんから相談され、一緒にどんな曲を制作するのがベストなのかを考えてきました。

その過程で、学生さんたちとオンラインでインタビューもさせていただき、このコロナ禍でせっかく入学した大学で入学式も開かれず、授業もオンラインで友達との接点も少なく、せっかく新しい生活が始まったのに友達遊ぶことも叶わない今の学生たちの閉そく感を感じることができました。こういう状況下で一体学生さんたちはどんな学生生活をしていけばいいのか、僕たち大人は何をしてあげることがベストなのか、そんなことを考える機会となりました。

主に僕が関わったのは詞の部分ですが、やはり、河口恭吾さんの立場から若い人たちに言ってあげられることを詞にしていくと、どこか説教くさいというか、少し突き放したような感じにならざるを得ませんでした。

そこでさらにミーティングを重ねながら思いついたのが途中で「きみはひとりじゃない」というフレーズをいれることでした。

どこか頑張れ!という言葉は無責任で、突き放した印象を受けます。声をかけられた方も「頑張ってるよ!」と言いたくなるようなときもあるだろうなと。

頑張れ!と声をかける一方でそれだけでいいのかとずっと思っていたのですが、そこで河口さんが提案してきたのが「きみはひとりじゃない」というフレーズだったのです。

でも、あまりにもストレートな表現なだけに、どうやって曲の中に挿入するか悩みました。

そして思いついたアイディアは、歌の部分とは別に、このフレーズを入れるパートを作ることでした。

そうすることで、その後、その部分に学生さんたちの声を乗せたりというパートにもなりました。

まさに学生さんたちと作るその過程をそこに象徴的にこめることが出来たのかと思っています。

本日はそのお披露目なのです。

興奮しないはずがない!ということで、仕事ながらも楽しんでまいりました。

吹奏楽の方たちとも多少交流することが出来、とてもきちょうな時間となりました。

ありがとう!京都橘大学のみなさん!

 

 

 

 

同じタイトルで書き続けてしまったので、これでお終いにしようと思うけど、まあ、この文章も仕事上で最近考えていることを雑にアウトプットしながら考えているだけに過ぎず、なんか少しでもこれを読んでいただいている人がいることに申し訳なくはないっているんだけど、ご勘弁いただきたい。

元々自分がラジオが好きで、それがなぜかと問われたならば、布団の中でこっそり聞くラジオが好きで、その小さな世界から向こうの世界とつながっている拡がりが好きで。

それはきっと世界のどこかにいる向こうの誰かのことを想像する楽しみ。

かつて、BCLという海外の日本語短波放送を聞いて受信報告書を送るとベリカードという受信証明書が送られてくる趣味が流行り、少年たちが短波ラジオにかじりついていた時代があるのだけれど、海の向こうの国で誰か、日本人もしくは日本語の喋れる人が、日本で聞かれることを想定しながら日本語で放送を発信しているさまを想像する、そんなことが楽しかったのだと思う。

どこか外国のある街で日本語で放送を作っている人がいて、その人の日常は日本とは程遠い環境と、食事と、ご近所づきあいで構成されていて、それは例えばペルーの山の中でスタジオの一歩外に出ればヤギの乳を売っているような場所で、でもその場所から遠く日本に向けて富士山とか、桜とか、これまた想像上の日本のような場所に向けて喋っている、その感じがよかったわけで、結局現実と脳内現実のギャップこそがラジオの面白さの核で、なんてことを考えていた青春時代。

映画監督が自分の脳内に生まれた映像を現実に移し替えていくように、ラジオっていうのはその絵コンテを説明する声だけを流しているというか、結局目的は映像を脳内に結ばせることというか、目に見えないものを見えるようにする行為というか。

そこに新しい形はあるのか?というと未だ無いと言うのが答えように思う。

結局僕はこういうことをグダグダ考えているのが好きなんだよなあ。

音声メディアの未来。要するにラジオの未来ですよ。

僕がラジオを面白いと思うのは、人の生き死にに関わっていけること。

テレビを見ながら、死ぬのを思いとどまるより、ラジオを聞いて死ぬのを思いとどまる人は多いような気がする、という個人的な思い込みからきていますが。

大事な時期にラジオから流れてきた曲に気づかされた、とか、パーソナリティの言葉に自分を振り返ったら、みたいなことは意外と良く起こる。

僕はラジオのそこが好き。

近年の自殺者の多さを思うと、自殺者を思いとどまらせる番組とかやってみてもいいよなあと思う。

誰もが、「君は大丈夫だよ」と言ってもらいたい。

以前、あるラジオ番組でピエール滝と伊集院光が「今いじめられてるヤツ!お前ら大人になってから伸びるぞ!」って励ましていたのを聞いて、その素晴らしさに感激したことがある。

ラジオに学校のクラスの中で、いじめられていたり、馴染めないで孤独を感じていたりするタイプに届くメディア。

マスメディアのひとつに違いないけれど、それはパーソナルメディアのような趣を漂わせているのがラジオ。

そのことが結局はラジオの核なんじゃないかな。

だから、未来をテーマにしたけれど、聞いている人を癒せるかどうか、そして一歩進める勇気を授けられるかどうか。

それがラジオの未来なんじゃないかな、と思っている。