限界という言葉の意味は難しい。

「もう限界です」これはギブアップの言葉だ。これ以上は無理という心が折れたときの声だ。

「限界を超えろ!」これは矛盾を孕んでいる。なぜかと言えば超えられないところが限界であって、超えられたら限界ではない。

限界について考えている。

というのは中年期を過ぎたあたりから、限界を超えることが難しくなってきたからだ。

ある時期、今から10年位前だろうか。僕のまわりで急にランナーが増えた時期があった。どの人もみんな走っていて、ハーフマラソンどころかフルマラソン、場合によってはトライアスロン、さらにはトレイルランに挑戦していた人もいた。

僕自身も40代半ばで走り出し、元々若いころサッカーをやっていたからだろうか。走れば走るほどタイムが上がり、どんどんハマっていった時期があった。

遂にはサブ4、いわゆるフルマラソン4時間切りも達成して、「まだまだ行くぞ!」と意気込んていたものだ。

しかし、その後走り過ぎが原因の腸脛靭帯炎となり、右足が痛み出し、ペースダウンせざるを得なくなった。

ここ数年はコロナ禍でマラソン大会が開かれる回数も減り、自然と大会からも遠のいている。

10年前に走ることに夢中になっていた僕の周りの人たちはどうかというと、ほぼ全員が故障して走ることをやめてしまっている。

年寄りの冷や水という言葉もあるが、やはり中年になってからの過度な運動は身体に支障をきたすようだ。

つまり、若いころは限界を超えれば身体は鍛えられ強くなり、限界は限界でなくなり、記録が伸びていた。

しかし、中年期になると限界に挑戦すると故障やケガをするようになるのだ。

僕は40歳を機に本格的にジムに通って筋トレを始めた。

始めたころは頑張れば頑張るほど、負荷を増やして行けたが50歳過ぎたあたりから負荷を増やして頑張ると筋肉を傷めるようになった。マラソンと同じである。

つまりかつて「もう限界です!」は負け犬のセリフだったのに、中年期以降は勇気ある撤退(笑)を意味する大人の言葉になった。

「限界を超えろ!」もそうだ。このセリフは今となっては身の程知らずというか、大人げないフレーズとなっている。

こうした現象を体験するにつれ、いつまでも若いつもりの自分がふと正気に戻ることが増えてくるのだ。

プロスポーツ選手は、競技にもよるが、40歳を超えても現役でいることはとても難しい。つまり、人間がスポーツを限界まで挑戦するような時期は15年くらいしかないように思うのだ。

身体がきちんと大人になるのを仮に15歳とすれば30歳をすぎたあたりから衰えが見え始め、40歳には引退し、セカンドキャリアを始める場合がほとんどではないだろうか?

余談だが、数日前に「マラソンでサブ3に挑戦する還暦の女性」の取材ものを偶然テレビで見たが、還暦でサブ3はとんでもない体力で、そのタイトルに惹かれて番組を見てしまった。

番組内で「驚くことに!彼女がマラソンを走り始めたのは50歳を過ぎてからでした!」と説明され、僕は「ああ、そうか」と妙に納得した。

やっぱり激しい運動は10年位しかできず、40歳で始めれば50過ぎに限界の意味を知るということだ。

彼女は50歳過ぎからマラソンを始め、還暦を迎える今年になってもまだ限界が見えていないのだろう。

きっと彼女は還暦を過ぎたこれから、その事を体験するに違いない。

だから、軽々に限界を超えろ!のようなハッパはかけてはいけないのだ。

僕自身もも限界に挑戦するなんてことは辞めて、のんびりと身体を動かしていこうと、今は思っている。

 

 

最近のラジオを聴いていて思うことがある。

それは「ディレクターはどこまで作っているのか?」だ。

よく言われることだが、ディレクターを日本語に訳すと監督になる。

だから映画のように番組を作れ!とか言われてきた。

ネット上で音声コンテンツが溢れ、個性豊かな人たちが面白いトークで発信をしている。

映画には監督がいて脚本があって、それを演じる俳優たちがいる。

ラジオにもディレクターがいて台本があって、喋るパーソナリティがいる。

にも関わらず、ラジオにディレクターがいることはなかなか感じることが出来ない。

僕自身はディレクターを長い間やっていたので、番組というのはディレクターありきだと思っている。

ディレクターが番組の企画の方向性、トーク内容の決定をし、番組を導いていく。そういうものだと思っている。

そして、そのディレクターの存在は聞いている人にはなかなか感じられないものだということも理解しているし、ディレクターのことをパーソナリティに触れさせないことを良いことだと思っていた。

しかし、最近のラジオを聞いていて思うことは、プロの僕が聞いてもディレクターの存在が感じられないのだ。

あれ?ディレクターは何やってるんだろう?

CMを含む放送の進行は確かに複雑だ。それを安全に進行させるのもディレクターの役割には違いない。

しかしながらタイムキーパーのようになっているだけで、トークについてはパーソナリティにお任せ、コーナー企画については放送作家にお任せなんじゃないだろうか?

それをなぜ感じるかと言えば、フリートークが長いからである。特に番組冒頭のフリートークが10分以上に及ぶことがざらにある。

これはどうしたことか。

人間の感覚は同じ刺激が続くと感じなくなることがわかっている。それは服をずっと着られることからも明らかだ。服を着た時は服と肌が擦れる感覚を認識するが、その感覚はそのうちなくなっていく。つまり同じ刺激が続くと人間は何にも感じなくなるのだ。

音声についても同じことが言える。

例えば騒音がうるさいと思っても、そのうちそれに慣れてしまうのも一緒だ。

だからラジオ番組を制作するときに気をつけることは、同じ刺激が続かないことなのだ。

一番簡単なのは曲をかけることかCMに行くこと。
聞く人がハッとなり、また新しい刺激として音声が入っていく。

こうした進行演出により番組というのは面白く仕上がっていく。

ほとんどのフリートークは同じものとして人間は受け取るが、パーソナリティには天才がいて、同じ刺激に受け取れないほど変化のあるフリートークをできる人たちがいる。

それは例えばタモリであり、ビートたけしであり、明石家さんまである。

彼らのトークは緩急があり、長い時間、連続して聞いていても飽きさせない。

しかし、それは一部の天才がなせる技であり、ほとんどの番組はディレクターによる演出を必要とする。

この観点から番組を聞いていると、「なんでこんなにダラダラ喋っているのか?」と思う場面がたくさんある。

ラジオはネットに押されて、聞かれなくなっていると言われる。その一方でradikoにより、若年層が番組を聞くようになったとも言われている。しかし、彼らが聞かされているのはかなりクオリティの低い番組なのだ。

こんな番組が多くなると流石にブレイクはない。

喋り手、パーソナリティのブレイクはあるかもしれないが、純粋にラジオでのブレイクは難しくなっているのではないだろうか。

ラジオが衰えているのはそれが原因の全てではないだろうが、落ちていく時はこんなものだ。

悔しい。

死ぬほどラジオが面白ければ、受信機が売られなくなったって、絶対に活路はある。

それを信じてやるしかない。

やはり、どんな作品、コンテンツも面白ければ何かが起こるのだ。

最近、映画「ドライブマイカー」を観た。

面白かった。当たり前だが、だから評価されるのだ。海外でも。

そんなことを思いながら、どうすれば海外で聞かれるような音声コンテンツを日本から発信できるか考えている。

答えはまだない。

 

技術の発達は世界を狭くするとか、小さくするとか言われてきたけれど、確かにそれは事実だ。

僕が子供のころ、短波ラジオで一生懸命海外の放送局を聞いて、受信報告書を送り、ベリカードという受信証明書をもらう趣味が流行ったことがある。

その時に、聴取が難しい、日々の電波状態のコンディションが整わないとなかなか受信できないと言われていた放送があった。

例えば、アルゼンチンのRAEだったろうか?アンデスの声。地球の裏側から日本に届く電波をイメージして、少年は短波ラジオを抱えて想像力の羽根を伸ばして、地球の裏側から今、この瞬間喋っている声に、とてつもなく深い共感を感じていたものだ。

それがどうだ。今の世界。インターネットは本当に世界を小さくした。

ライブカメラで今、この瞬間の世界の都市の様子を見ることが出来る。

ロシアのウクライナ侵攻でさえ、次々にアップされる現地の映像。どれがリアルな現実なのか、フェイクも入り交じり、判断がつかないような状況になっている。

かつてはとてつもなく遠いと感じた地球の裏側も、今では一瞬にして連絡の取れる海外になってしまっている。

世界がどんどん小さくなっている、と実感するわけだが、それは一方で世界の村社会化が進んでいるようにも感じる。

村社会というのは、良くも悪くもすべての人が知り合いで、何か事件が起きるとそれがあっという間に村に広がり、そのことが犯罪や、倫理に反することへの抑止力となっていたような社会のこと。

田舎から都会へ出ていくストーリーも、こうしたことが背景になっていたし、「都会の孤独」のようなフレーズも、全ての人が顔見知りの村社会から、誰一人知っている人のいない都会へ出てきた、というコントラストとして使われるものだった。

しかし、今はどうだ。

先日ある有名人の不倫のニュースが駆け巡ったが、その不倫相手は一般人だったが、名前や顔写真がネットで出回り、「仕事を休んだ・・」のような内容と共に僕の下にも届いたのだった。

僕はそのニュースの主役たる不倫相手が自分の知っている人であることに驚いた。

そして、そんな裏方というか、一般人が突如として、有名人に紐づいてそのままメディア上に引き釣り出され、名前も写真も公にされる恐ろしさ。

これは村社会そのものではないだろうか。

このことの是非を問うつもりはない。

つい最近も知り合いではないが、あるアナウンサーの道ならぬ恋のニュースが駆け巡り、本人は番組を降板するという事態となった。これはどうしたものか。

そのアナウンサーは、アナウンサーとはいえ、会社に属している。その面ではただの給与生活者であり、その不倫として報道されたニュースも、社内恋愛であった。

それの何がいけないのか?恋愛は必然的に始まり、その行く先が離婚などの泥沼に入っていくにせよ、それは個人の問題である。

もしもそのような事態になったとしても、放送上でそのアナウンサーの出演を楽しみにしている人がいるならば、それに応えるべきで、本来は不倫していようが、してなかろうが関係なかったはずだ。

そこが現代の難しい部分で、こういうネタを狙い、部数を伸ばそうとする週刊誌が、ほじくるようにそのネタを探し、記事にすることでどれほどの人が不幸になっていることか。

それを自業自得という考え方もあるだどう。

このような現象は、インターネットが世界を狭くして、結果として日本においては「村社会化」を促進しているように見えている。

海外ではどう、捉えられているのか気になるところだ。

今月はワールドカップだ。

馴染みのないカタールという国についてもきっと知識が入ってくることであろう。

そのことを楽しみつつ、日本の村社会化については考えてみたいと思う。