かねてより「品がある人」にほのかな憧れを持ち、友達でも仕事仲間でも「品」を感じる人に魅かれ、なるべくそういう方たちと一緒に何かを、と思っているが、この「品」というものなかなか難しい。
 自分でも「品がある人」になろう、「品」を身につけようと思ってはいるわけだが、到底辿り着かない遠い道のりである。
 「品」を辞書で引くと「その人やものに備わっている性質。がら」とある。でも「品がある」という言い方があるわけだから「品」とは良い性質のことを指すのだろう。
 「品位」と言えば「その人やものに備わっているねうち」、「品格」=「品位、気品があること」、「気品」=「それとなく感じられる上品なおもむき、その人にそなわっている品格、気高さ」。連想ゲームのようになってきた。「気高さ」=「気品が高い。神々しい」、ちょっとわかったような気がしてきた。“神々しい”だ。「品がある」というのは神様に近づくこと、神のように思われること。まあ、神様も世界中にいろいろな神様がいるのでどの神様か人によってイメージするものが違うだろうが、日本においては神様は神社にいるものなのでそのイメージなら共有出来るか。
 
 神様って何だろうか?
 宗教的な意味合いを論じることはちょっと置いておいて、乱暴な言い方をすれば、神様の属性とでもいうものは「わかってもらえる」なのではないかと思う。
 「苦しいときの神頼み」というが、自分の苦しい状況を神様に「わかってもらって」なんとかしてもらおう、とういことだ。神様はきっと自分のことをわかるはずだ、という思いこそ「神々しい」に繋がるのではないだろうか。ちょっと無理矢理か。

 話を元に戻すと「品がある」とは他人を理解する能力のことを指すといってもあながち間違いではないだろう。そしてその理解力のバックグラウンドになるのが教養ではないかと思っている。
 単に知識のみならず、それを深く理解し、相手の身になって考えることが出来る。そんな人が「教養ある人」。
 そう思って最近改めて勉強しなくちゃ、と思うことが多い。
 
 「悪韓論」という本がある。最近話題になっているので読んでみたのだが、とても刺激的な本だった。タイトルの通り日本の隣人である韓国のことを書いた本だが、「悪韓」というように韓国のネガティブな面について綴られている。
 どんな国にも輝かしい歴史の裏には必ずネガティブな面が存在する。そのことは日本と韓国の関係が今微妙であるが故になかなか語られない。日本の中でおおっぴらに韓国のことを悪く言う、もしくはお互いの歴史をある価値観をもって検証することは許される雰囲気が無いからだろう。敢えてその領域に踏み込んだのがこの本だ。もちろんこの本自体には論議もあるだろうが、僕自身にとっては大変に興味深く、韓国を理解する一助となった。
 この本が気づかせてくれたことは僕があまりにも隣国である韓国の文化について知らないということなのだ。この本に書かれている事を正しいかどうか判断するためにももっと勉強しなければならないだろう。

 そう、今のところ僕がなりない「品がある人」像は、隣国の歴史、文化をきちんと理解した上でその関係を冷静に論じることが出来る人、なのだ。
 「教養」と呼べるくらい知識を熟成させることが出来ればいいのだが。


 
 
 辛坊治郎さんの太平洋横断ヨット遭難事故の救助ついて巷間いろいろなことが言われている。
 日本国民が夢にチャレンジして失敗、その救助に海上保安庁と海上自衛隊があたる。それは当然の事。その費用を本人が払うべきか、税金で負担するべきかがメディア上を始めとする各所で議論になる。議論は自由なので、様々な考え方が出てくる事は言論が自由な日本ならではのこと、どんどん話し合った方がいい。

 でも辛坊治郎さん個人に対する批判についてはこの事件に関する理解不足としか言いようが無い。
 辛坊さんひとりでこのチャレンジをしたわけではない。「冒険をさせたい人」「協賛してお金を出した人」「成功したらそれをネタに稼ぎたい人」様々いるはず。
 それが悪いのではなく、ひとつのビジネスがこのブラインドセーラーとニュースキャスターのヨット太平洋横断というチャレンジを通じて生まれているということ。
 神輿を担ぐ人がいっぱいいて、辛坊治郎さんはその神輿の上に乗ったということ。
 神輿に乗るという決意も責任ももちろんある。成功したときは辛坊治郎さんはヒーローになったであろうけど、その逆の結果を出したときは批判に晒されることは本人もわかっていたに違いない。
 それに、辛坊治郎さん自身は脱税をしたことがあるわけでもなく、納税義務はきちんと果たして来たはずなので、こうしたときに税金を使って救助されることは当たり前だと僕は思う。
 
 事故直後にテレビで「救助費用は税金で負担すべきか否か?」という質問で街頭アンケート展開した番組があったが、僕はこれを見て大変にがっかりした。そんな浅薄な捉え方をしているからメディアは馬鹿にされ、信用されなくなるのだ。
 限定的で恣意的な街頭アンケートを民意であるがごとく放送する演出。
 メディアにはエンターテインメントの側面もあるので演出することもあるだろう。ただ、この件については助かったとは言え人命が関わっていたこと。演出すべきではないし、面白おかしく伝えるものではないだろう。
 自分も含めメディアはもっと正確な情報を取材しまず伝えることを第一に、判断を視聴者、聴取者に問うべきなのだ。

 さらに加えて言うならば、今回の遭難事故後の辛坊治郎さんのキャスターの活動について「舌鋒が鈍るのではないか?」という見方がある。
 でも日本国民として与えられた持ち場でその本分を全うするなら、辛坊治郎さんには今後も国家の税金の使い方には厳しい視点で矛盾は指摘してほしいし問題提起をして欲しい。こうした体験をしたからこそキャスターとしてさらに厳しい人になって復帰して欲しい。それが国民として使命なのだと思うのが僕だけだろうか。
 もの作りの仕事では、作る人と売る人の相克がある。
 いいものを作りたいと言う気持ちと、数多く売って設けたいという気持ちは時にぶつかる。
 居酒屋を経営しているチェーン店の経営者が、「食品のクオリティを上げてようとして有機農業とも組み、ここ何年かで出す料理の味は劇的に改善した。だからといって売り上げが倍増したわけではない。コストをかけてもそれが売り上げに直結しない。それがビジネスだ。」と言っていたのを聞いた事がある。「でもお客様にいいものを出して笑顔にしたい、という気持ちを忘れてはいけない。」確かにそうだろう。でも必ずしも質の高いもがそのまま収入に直結するわけではないのも事実。「お客様を笑顔にしたい」一心でやっていても肝心の客の方が反応しなければそれまでだ。だからビジネスは難しい。同じ経営者はこうも言っていた。「最近進出した”介護”という分野では売り上げがグングン伸びている。だからといってウチの会社の介護の質がすごく高いわけではない。もちろん質をあげようと努力はするが、いま介護という分野が伸びているというだけの事だ。」なるほど、真実だ。
 AKB48が売れればそれに続けと次々に多人数メンバーのアイドルグループが次々に登場する。マーケットが求めているからそうした「二番煎じ」だって売れる時期がある。そのうち飽きが来てそのマーケット自体がすたれて行く。そう言うものだろう。
 AKB48の総選挙の投票権を獲得するためにCDを大量に購入するファンがいる。そしてCDを捨てる。もはやCDは音楽を聞くために買うものではなく、自分の好きなメンバーの投票権でしかない。
 このことを批判するのは簡単だが、「音楽が売れなくなった」「CDが売れなくなった」と言われて久しい音楽業界に新たなビジネスモデルを提示したことは確かだ。
 でも音楽の制作現場の人たちからしたら、悔しい気持ちになるだろう。自分たちの作った音楽の質を問うような聞かれ方はされてないからだ。
 ときに商業主義はときに批判を浴びる。「あのアーティストは商業主義に走った」と言われたりするが、どんなアーティストも「売れたい」と思ってやってきたのだろう。また反対に「あのアーティストはプライド高くて、音のいいホールでしからLIVEをしない」みたいなことも売れているときは褒め言葉だが、売れなくなったら批判になる。
 こうした相克の調整はいかなる時代も難しい。
 偽物を次々に作って設ける業者もいれば、ブランドを守り過ぎるあまり倒産する会社もある。
 全てはバランス。
 一番美しいのは新商品を開発してそれがヒットし、「質の追求」と「売り上げアップの努力」が同時に出来て実を結ぶ事。そんなのは奇跡のタイミングだ。
 だからいかにして「時代の風を読む」かは重要なポイントになる。
 マーケットが何を求めているのかを知る事はとても重要だが、マーケットはいつでもいい意味で期待を裏切られる事を望んでいる。今まで見たことのない魅力的な商品を望んでいる。
 だからリサーチをしてそのリサーチ結果だけから商品を作っていると結局ありきたりの商品になり、勝負どころがコストカットによる値段になったりもする。
 一歩先の風を読んで新しいものを造り出す。
 そんな仕事を僕はやりたいと思ってきた。
 儲かるからといって偽物を作るような仕事は決してするまいと思ってやってきた。
 でも、最近はその決心が揺らぐほど、もの作リの現場は苦しく厳しい。
 どこかに出口はあるはず。それを見つけるためには、それがどんな結果になろうとも創り続けるしか無いのだ。