年齢を重ねれば中年にはなるけれど、「オジさん」にはなりたく無いと思ってきた。
 少年時代、スリーディグリーズに衝撃を受け、ビートルズを聞いて「レボリューション」が起きた。そんな音楽の目覚めを経てどっぷり音楽にはまった僕にとって、演歌という音楽ジャンルは最初からわからなかったし、グループサウンズはすごく幼稚な音楽に響いたし、どこか大衆に迎合しようとする音楽は好きになれなかった。
 その一方で新しいもの挑戦している音楽だけが自分の感性に響くのだと信じていた。
 挑戦を辞めた大人を軽蔑し、自分はいくつになっても挑戦を忘れずに生きようと堅く心に決めていたし、それを辞めたら「オジさん」になるのだとも思っていた。

 ところが最近昭和の歌謡曲が素敵に響くようになった。服部良一のメロディに心動く自分がいる。
 きっかけはもしかすると河口恭吾さんが昭和歌謡曲のカバーを歌うLIVEに行ってからかもしれない。そのときに聞いた三木鶏郎という作家の曲が素晴らしく。ご本人にもう一度その話を聞いたくらいだった。
 それまでの僕と言えば昭和の歌謡曲、特に自分が生まれる前の曲は何をきいても古く感じていた。
 だから三木鶏郎の曲に感激したのは押し入れの奥に閉まってあってこれまで全くスルーしていた古めかしいハコから美しい宝物を発見したような気分だった。
 そこには単なる洋楽の模倣とは一線を画した天才達の仕事があった。
 残っている録音の音は古い、そして伴奏を務める楽団の音も下手に聞こえる。でもそこにあるメロディの美しさには時間を越えて響く何かがある。歌詞はその時代の旬をとるものであるから古めかしくは感じる。当時の旬だったからこそ古くなるのであろうその歌詞そのものより、その時代の最先端、売れる音楽を目指して作られたその楽曲達に込められた当時の制作者たちの思いが耳を澄ませると聞こえてくるようだ。
 最先端のものは必ず古くなる。でもその時代の旬を獲ろうと言う精神は永遠なのだなと感じた。
 そういえば評論家の小林秀雄は自分のことを売文家と言っていたという。生活のために文章を書いているのだと。でもその文章達は時代を超えて今や芸術となった。
 作品を芸術たらしめるのは制作者達の曇りなき思い、精神なのか。
 そう思い至り、日々の自分の仕事を振り返ってみた。そんな秋。

 
 もうヒーローはいない。
 評論家の宇野常寛さんの作品評を読んで「バットマン・ダークナイト」を観た。
 この作品の中のバットマンは決してヒーローではない。ジョーカーはバットマンのことを「自分と同じ狂人」であるといい、実際にバットマンは「ヒーローである自分に陶酔する狂人」として人々に思われる存在として描かれている。
 宇野さんはもう勧善懲悪の物語は成立しなくなったという。
 この「バットマン・ダークナイト」はこれまでヒーローものとして描かれていたバットマンを全く違う描き方をした映画だ。
 なるほど、正義とは何か、悪とは何か。犯罪を犯すことに理由の無い愉快犯ジョーカーは「ただ犯罪を犯すことが愉しい」存在だ。このジョーカーは追いつめることが出来ない。
 この映画の中ではすでにバットマンは正義の味方ではない。ジョーカーと闘う彼自身も迷惑者であり、「ヒーロー気取り」に思われる。
 示唆に富んだ作品だ。考えてみればウルトラマンタイプの巨大怪獣ヒーローものにしても、ヒーローも怪獣も街の破壊者であることに違いは無いし、仮面ライダーにしてもショッカーに改造された怪人たちと闘うのであるからしてそれは殺人なのであって、僕ら今まで正義の物語だと思い込んできたものも見方ひとつでとても危ないドラマになる。

 僕らはヒーロー不在の時代に生きている。
 「努力は報われる」わけではないこともわかった。
 「生まれつき人間は平等」ではないことも明らかになった。
 テロを巡る恨みの連鎖は終わりのない紛争を新たに生み出す。
 ビンラディンを殺したからってテロは終わらない。
 ましてやテロ行為をしている人間を僕らは本当に避難できるだろうか?
 自爆テロを仕掛ける彼らの決意をあざ笑うことが出来るだろうか?
 もう価値観は崩壊しているのだ。
 僕らが信じていた物語が成立しなくなっているのだ。

 だから新しい価値観は人間一人一人が作り出さなくてはならない。
 正しいこと正しくないことは一人一人の人間が決めなくてはいけない。
 少なくとも現在の混沌とした状況の中で僕らは日々判断して、選択して行くことでしか生きて行けない。
 そんなことを思っている。
 まだ考えをまとめることが出来ないでいる。
 一個人として政治のことを考えたとき、直感的には安倍晋三総理には頼りないことを感じる。
 昨年の政権交代以降の自民党を含めた動きには民主党政権とはかなり違う細かさと一貫性が感じられ頼もしく思う部分もある。
 尖閣や竹島問題に関する対応、動きにはとてもよく考えられているな、と感じることも多かった。
 また「言いにくいこと言う」その態度は合っていようと間違っていようといずれにせよ筋を通す、正論で正面からぶつかっていく豪胆さと裏で根回しをする細かさで政治的には日本という国は前へ進んだと感じている。
 オリンピックの東京招致にあたり「原発は問題ない」と言い切った態度は批判もあるだろうが、目的のためには毅然とした態度であり、ある意味これから7年間で必ず解決をするのだという「宣言」とも取れ、東電に任せずに国家として解決する実行力にも期待が持てる。
 僕は近年感じることとして、「人間そんな簡単に変わらない」ということがある。
 麻生副総理が舌禍事件を起こすことも昔から変わらない。
 その知性や性格、品格はなかなか変わることはない。
 仕事相手や同僚、特に後輩を見ていて思うのは、きちんとしている人は若い時からきちんとしているし、ダメなやつは若い時からダメだ。よほどのことがなければその性格は変わらない。
 そう考えたときに安倍晋三という人にはとても不安を覚える。
 安倍晋三のFBを過去まで遡って閲覧してみてほしい。
 総理になってからはかなり注意深く書き込みがされている印象はあるが、総理就任前のタイムラインにはギョッとするようなことがたくさんあった。
 国会議員という立場の人間がテレビ局をはじめとするマスコミ批判を繰り広げる。
 マスコミと国会議員、どちらが立場が強いだろうか。
 当然立法に関われる国会議員ではないか。
 その人格、品格を信任しその権力の行使を託しているのだ。
 だからこそ、有象無象を含めてマスコミは権力を監視し批判する使命を持っているのだ。
 マスコミからの批判に対してのヒステリックな反応に「器が小さい」と感じることが多々あるし、想像力が欠如しているな、という直感的な反応が多々見られる。
 人間には欠点がある。だからこそ安倍晋三総理の今後は注意深く見守りたいが、僕が思うにこの人、年上ながら少し幼稚なところがある。「少年のようだ」とよくいうこともできるが、無邪気に悪気なく国をやばい方向に持っていってしまる可能性を感じている。
 若い世代が望んでいるのは『良識ある独裁』を望んでいるという話もある。危険だ。
 権力を手にした「こども」ははしゃぐものだ。
 我々が守らなければいけないのは「国家からの自由」なのであって、決して国家は国民ひとりひとりのことを考えて政治を行う性質のものではないことを改めて確認しておきたい。