最近アニメやオタク系の仕事が多いのでふと思い立ち、仕事の合間の2時間くらい秋葉原をぶらぶらしてみた。
 僕はもともとラジオ工作少年でアマチュア無線の免許も持っているし模型も大好き。だから子どもの頃はよく秋葉原に通った。ラジオデパートでパーツを買ったり、ツクモとかで憧れの無線機を一日中眺めていたりと思い出も多い。
 それこそ友達とお弁当もって出かけるような場所だった。
 一番最近で行ったのは恐らく数年前にノートパソコンを買いに行った時だと思うが、もしかすると10年前かも知れない。
 もちろん最近でも仕事でAKBの劇場に行ったりしているので行かないわけではないが、目的もなしにブラブラすることは無かった。
 で、やっぱり驚きましたよ。その変貌ぶりに。
 僕もオタクの一種だと思うけれど、僕の感覚と若干違うと感じた。

 あるショップがあり、1Fはアイドルの生写真やDVDが売っている。そして2Fに上がるとイメージビデオの売り場、いわゆる絡み無しのモノね。さらに3Fに上がるとそこはAVコーナー。
 そこには一般のレンタルビデオショップにあるようなAVコーナーの“結界”は無く、ゆるやかなグラデーションで一般作品からエロへと繋がっている。
 1Fにはアイドル好きと思しき中学生くらいの女の子もいて、場合によってはお願いして秋葉原に連れて来てもらったような親子連れさえいる。
 僕はなんだかいたたまれなくなった。
 世の中に表と裏があり、光と陰がある。誰にでも知られたく無い秘密はあるだろうし、それは誰にでも認めてもらえるようなことではない。
 でも僕が近年おかしいなと思っていることのひとつが『裏が簡単に表になる』ということだ。
 例えば今の「おネエタレント」の流行がある。
 おネエとかオカマというのは新宿の2丁目に行かなければ会えないものだったし、ふだんは隠れているもので、その傾向がある人は決してそれを大っぴらにはして来なかった。
 これをマイノリティ差別と言われればそうかもしれない。
 でも、僕には子どもはいないが、自分の子どもがテレビを見ておネエタレントを見て「この男の人はなんで女の子みたいなカッコしているの?」と質問されたときにどう答えるだろうか?
 僕は秋葉原を歩いてそんな戸惑いを覚えた。
 コスプレショップがある。髪の毛をあらぬ色に染めて(ウィグかもしれないが)町でメイド耳掃除のチラシを配るいたいけな若い女の子がいる。
 これがクールジャパンなのか?
 どうにも納得できない。アニメやアイドルの向こうにあるのは「セックス」「エロ」のように思えて仕方ない。
 自分の好きなことを誰になんと言われようとやり通すことを否定はしない。
 全てはバランスだと思う。大っぴらにやることとこっそりやることのバランスがここ秋葉原では崩れていると感じるのだ。
 日本と言う国が伝統や因習を戦後忌み嫌うようになり、いろいろ前例を壊すようなことがたくさん行われて来たこともこうした現象の原因かも知れない。
 僕がニューヨーク住んでいた頃は、いわゆるSEX SHOPがマンハッタンから追いやられ、治安が良くなり始めた頃だった。
 そんな時期に、日系の紀伊国屋書店に売っている写真週刊誌のヌードグラビアページが切り取って売られていたことを思い出した。日本のグラビアはニューヨークではNGになるいかがわしい写真と判断された。アメリカ基準で判断すると行き過ぎだったのだ。

 秋葉原はどうだろうか?行き過ぎてないだろうか?
 僕が年を取ってしまったのか。新しい文化の萌芽を認めることが出来ないだけなんだろうか。
 良くも悪くも秋葉原は最先端なのであろうけど。
 
 古い友人が僕にメールでくれた「昔、僕はラジオはテレビの半歩先を行くメディアだと教わりました。」という言葉にふと目が覚めたよう気持ちになった。
 ラジオはテレビより先に始まったが、戦後日本の高度経済成長はテレビ無しに語ることはできない。
 僕だって子どもの頃はテレビが大好きだった。ウルトラマン系の怪獣もの、パーマンや宇宙戦艦ヤマトを頂点とするアニメもの。もちろんトムとジェリーとかアメリカのアニメにも夢中になった。
 そんな僕がラジオに気づいたのは小学校高学年に入った頃だろうか。
 僕は生まれて初めて観たLIVEがスリーディグリーズ、小学校3年生の時だったけれど、僕がスリーディグリーズに夢中になった理由はスキー場のロッジに置いてあったジュークボックス、そして中波ラジオ(当時はFMはNHKとFM東京の2局しか聞くことができなかったので)。ラジオから繰り返し流れてくるその曲にハマったのだった。
 なんかテレビとは異質の新しさとかっこよさを幼いながらもラジオに感じ取っていた。
 「なんちゃっておじさん」や「口裂け女」といった都市伝説も深夜放送で聞き、そのあと雑誌やテレビで話題になったときに「僕はもう知ってたもんね」という優越感に浸ったものだ。

 仕事をはじめてから知ったことだが、東京オリンピックでテレビが圧倒的に普及した結果、メディアの主役はテレビになり「ラジオは終わった」という時代が昭和40年代初頭にやってくる。
 そのときにラジオマン達が作り上げた新しいかたちがオールナイトニッポンを始めとする深夜放送なのだ。
 「新しくて面白い」。
 テレビに主役の座を奪われたからこそコンテンツで勝負するそのクリエイター魂が火花散らしていたのがラジオだった。

 インターネットが登場してからの状況とどこか似ているところがあるような気がしてならない。
 でも一番大切なことは常に「中身」。メディアは伝送路であるに過ぎない。
 僕はその当時、ラジオの先進性の虜になったのだと改めて思うし「新しくて面白い」ものを求める気持ちは今も止まない。
 
 前述の友人は「ラジオ化したテレビがあふれるこの時代にラジオが何をしてくれるのか楽しみです。」と締めくくる。
 ラジオは聴覚メディア、テレビは視聴覚メディア。ただそれだけの違いがあるだけ。
 そう、いつの時代だって新しいことに挑戦するワクワク感は変わらないのだと改めて思っている。
 
 
 ラジオが本職なんで、よくラジオを聞いている。
 自分が関わっている番組はもちろんだが、それ以外の局も聞いている方だと思う。
 やっぱりラジオが好きなんだと思う。
 このお盆で両親孝行の家族旅行で軽井沢に行って来た。
 クルマで移動していたのでカーラジオで地元局を含めザッピング。軽井沢でベイFMが入ったりすることにも驚いたが、改めてローカルラジオを通じてラジオらしさの再確認をした。
 地元のFM軽井沢やFM長野が入るが、その一方でJFN系のネット番組も聞くことが出来たり。
 それを聞いて再確認したことがある。

 いつもラジオは「2WAYメディアだ」と後輩に講釈をたれているが、今回改めてラジオはインタラクティブメディアということを再確認したのである。
 ローカルラジオはもちろん予算の関係もあろう、一人でリスナーに向かって喋りかける。そして結構マニアックな、というかパーソナリティ、DJが好きな曲をかけている。
 その一方で全国ネットの東京発番組はパーソナリティにアシスタント、そしてゲストと3人がスタジオでワチャワチャ会話をしている。
 どちらが好きかと言えば、圧倒的に一人のDJがリスナーに話しかけているローカル局の番組だ。
 近年、ラジオディレクターのレベルが下がっているのか、ラジオ番組が「ショー」になっている傾向が強い。
 「ショー」になっているという意味は、大勢で誰かのパフォーマンスを見ているという感覚だ。
 前述の番組もパーソナリティとアシスタント、そしてゲストのトークは明らかに「ショー」を誰かに見せている感覚で、決してラジオを聞いている一人に向かって喋りかけているものではない。
 ラジオの良さというもの、特に最近言われる「エンゲージメントの高さ」は明らかにラジオが一人のリスナーに向かって喋りかけている感覚から来ている。
 まるでテレビのバラエティを音声化したような番組には僕は全く魅力を感じないし、最近はラジオの制作者たちもラジオを聞かないでやたらテレビに影響を受けているように感じる。

 でも近年流行の(?)ネットの世界ではテレビ否定がはじまっており、その否定の論理がラジオの論理に近づいていると個人的には感じている。
 僕はそのことに基づいて今の仕事の方向性を作ってはいるのだけれど、そもそもラジオが好きでこの仕事をしているので、最近のテレビ化したラジオ番組の乱立に軽く苛立ちと戸惑いを覚えている。
 一番まずいのはラジオが儲からなくなっていることなのだが、ただ僕は制作者の立場から希望的な意見を言えば、終わったと言われた出版界で次々にヒットを出す幻冬舎のように絶対面白いものを作ればそれは支持されるはずだ、というロマンは信じている。
 むしろ予算が潤沢ではない地方ローカル局のやり方にこそ、ラジオの突破口があるようにも感じるのだ。
 今までも実は意識していたのだけれど、これからは増々「ローカル局のように」ひとりのリスナーに向かって全国ネット番組を作ろうと改めて思うのだった