昨晩吉井和哉さんの武道館ライブの最後に新曲が披露された。
 「クリア」という曲とカップリングの「ボンボヤージ」という曲。
 黒い衣装で再度アンコールに現れた吉井和哉さんが「ボンボヤージ」についてMCで触れてくれた。この曲は死んで焼き場に入っていく光景がまるで船の出航のようだと思ったことがきっかけだったという。
 「死」とは自分の親や先祖、そして自分の子供たちの世代につながっていく一つの航海のようだと思ったのだろうか。

 吉井さんは僕の一つ年下の48歳、同世代だ。
 近年、僕の知人が亡くなることも数が増え、結婚式に呼ばれるより葬儀に呼ばれることのほうが多くなっている。
 親世代が亡くなっていくのは致し方ないことだとは思っているが、もう年齢的に同世代の仲間たちが亡くなることも決して不思議ではないことになりつつある。
 年齢的にも会社員としての定年まであと10年あまり。人生の半ばを過ぎ否応なしに人生の終着地点を意識せざるを得なくなってくる。
 「死」とどう向き合うか。
 死んだ後のことは当たり前だがわからない。
 いくら宗教が説明してくれたところで不安は消えない。
 でもそれが新たな旅立ちであることも確かだろう。
 旅立ちというのは先が見えないから楽しく、期待感でわくわくするものだ。
 こうした期待感は常に先が見えない不安と背中合わせ、表裏一体。
 もちろん自分が死ぬこと自体にはなかなかワクワクは出来ないが、その先にあることに期待を馳せ、静かな気持ちで船が穏やかにゆっくりと波間を切って出航していくように死を迎えることはできるかもしれない。
 そんな気持ちになれる曲であった。

 自分の死も、いや全ての人の死が次の新しい世代への継承であり、自分が引き継いで生きてきた役割の終了でもある。
 死、そして再生。
 古代から人間が考え続けていることだろう。
 昨晩、僕は吉井和哉さんの唄う「ボンボヤージ」を聞きながら考えることを止めて「死」を感じることができた、そんな気がする。
 ありがとう、吉井和哉。
  
 
 どうしたって人間最後は死ぬ。
 「必死で生きる」の”必死”は”必ず死ぬ”と書くのだし。
 「必死」というのは「死ぬ覚悟で全力を尽くすこと」だそうだから。
 ある席でヒットマンの話になった。必殺必中でターゲットに臨むヒットマン。
 ヒットマンを数多く生んだある地方の島があり、すごく貧乏な島で、そんな島の少年たちが家族の面倒を自分が死んだ後にみてもらうことを条件にヒットマンになる・・みたいなエピソードだった。
 死ぬことを受け入れた人間ほど怖いも知らずな存在はなく、ターゲットにしてみれば死ぬ気のヒットマンほど恐ろしいものはないだろう。
 必死になることはすごいことだと改めて思う。
 
 最近立て続けに自分の近くにいる人が急に亡くなった。
 ついこの前まで普通にそこにいた人が突然いなくなる。
 いつかは死ぬのだとわかっていても、それを現実に突きつけられると戸惑いを感じる。
 幸せだったかな、心残りだったかな、とその人に思いを馳せてみても自分にできることは何一つないのだということにも改めて気づかされる。
 いくら考えても事実は事実。死は死。
 自分にできることは今日死ぬつもりで生きることしかないのかな、と思う。
 今日死んでもいいように常に身辺を整理して、心静かに出来ることを誠実に精一杯生きる。
 今日一日を丁寧に過ごす。
 簡単なようでもあり、すごく難しいとも感じるが、ぐずぐず考えても人は死ぬのだ。
 ”門松は冥土の旅の一里塚”
 う~ん、確かにめでたくもありめでたくもなし、だな。
 福山雅治さんの曲「虹」の歌詞の中に”イメージの向こう側”というフレーズがある。
 
  いま僕は行くのさ
  イメージの向こう側へ 僕の向こうへと
  さあ 飛び立とう

 自分のイメージを超える。
 そのことが最近の僕の課題となっている。
 昔は「なんでもイメージ通りにしたい」と思っていた。
 自分の思い通りのものを作ることがクリエイターとしての使命だと思っていた。
 ところがある段階に来ると「イメージ通り」になるのは当たり前になってくる。
 それはそうだ。同じような仕事を繰り返し、どんどん熟達してくれば当然イメージ通りに出来て当たり前だ。
 しかし、イメージ通りに出来るようになった時新たな壁が現れる。
 自分のイメージを超えるものをイメージできないジレンマとでも言おうか。
 
 僕は学生時代からサックスを吹き、ジャズを演奏している。
 ジャズという音楽にはアドリブという要素がある。
 ピアノやベースやドラムが作り出すハーモニーとリズムに乗って自分だけの即興演奏をする。
 口で歌えるけれど楽器ではできない。イメージした通りのアドリブができない。
 そんなこと思いながら僕はずっとサックスを練習してきた。
 ところがある段階を超えると自分があるハーモニーとリズムに対していつも同じようなアドリブしか出来ていないことに気づく。
 まるでそれはハーモニーという檻のなかでしかプレイすることができない囚人の気持ちとでも言おうか。僕はどうしてもその檻を脱出する鍵を手に入れることができずに苦しんだ。
 自分の乏しいハーモニー感覚の範囲でしかアドリブをイメージできない、そんな壁だ。
 その壁を越えるためにどうするか。やはり自分の外側から新しい感覚、知識を取り入れて、それが自分の中に入るまで練習する。そんな地味な努力しか存在しないと思っている。
 言い換えれば自分の限界を超えることでもあろう。

 近年僕はマラソンを始めた。マラソンにおいても同じことが言える。始めの頃自分の走ったことのある距離を超えると必ずどこか身体に変調をきたすことに気づいた。
 10kmを走れる人がその距離を越えようとして15km走ろうとするとなぜか10kmを超えたところで体調が悪くなる。膝が痛くなったりする。
 人間というのは自分が経験した以上の領域に踏み込むと必ず何か拒絶反応のような現象が起こるのだろう。
 それが自分の限界を超えるということでもあるのでしょう。
 結局はイメージ以上のものを生みだすためには自分自身が根本的に変わらなくてはいけないんだということもあぶりだされて来る。
 「自分の限界に挑戦する」そんな気持ちは年齢を重ねると萎えてしまうかも知れない。でも新しい世界を見るためにはなんらかのかたちで自分の限界を超えなければならないということも実感する今日この頃なのである。