時間を表すギリシャ語にはクロノスとカイロスとふたつの表現がある。
 クロノスは過去から未来へ流れていく時間を表し「時刻」と訳されたりもする。
 カイロスは一瞬や人間の主観で感じる時間を表す。
 クロノスとしての20年は長い。阪神大震災後に生まれた子供が二十歳になろうとしているのかと思うとかなりの「昔」であるかのように思う。
 しかしカイロスとしての20年は一瞬のようでもあり、永遠のように長く感じられる時間でもあり、人によって様々であろう。
 僕にとってもあの日は忘れられないものになっている。

 僕はあの日出張で大阪にいた。「福山雅治のオールナイトニッポン」を大阪から放送するためだった。
 番組が終わりみんなで飲みに行き、そろそろ、とその店を出てタレントさんを見送り、ホテルに帰るために自分たちのタクシーを止めてドアが開いたその時だった。
 まず最初に縦揺れ。ズドンと腰が砕けた。子供がよくやる膝カックンを食らったような感じ。
 信号機が上下に激しく揺れている。工事現場で鉄骨が崩れるような音が遠くでし、すぐそばではやはりタクシーを拾おうとしていたホステスさんが立っていられずしゃがみこんでいる。
 空を見上げると遠く雷が落ちたように光っている。
 その瞬間に思ったことは「これが東京でも起こっていることだったら大変だ」だった。
 横揺れも収まり、お互いに声を掛け合って、改めてタクシーに乗りホテルへ向かう。
 ホテルにつくとロビーにあったガラスのオブジェが倒れて壊れていたり、エレベーターも止まっていたり。
 仕方がないので階段で自分の部屋まで上がる。
 部屋につくとすぐに会社(ニッポン放送)の生放送スタジオに電話。東京に入っている情報を聞くと関西地方で大きい地震があったらしいとのこと。東京ではないことが分かった。
 部屋のラジオをつけてずっとNHKを聞く。流れてくるのはお年寄りがつまづいて怪我をした、というような情報ばかり。
 しばらく聞いているとだんだん落ち着いてくる。なんとなく大丈夫なような気がして仮眠。
 翌日はホテルからタクシーに乗り午前中の早い時間の飛行機を取っていたので伊丹空港に向かう。
 一部道路が波打っていたがスムーズに空港に到着。飛行機に乗り込むとCAから「地震があったみたいですね。大変でしたね」と声をかけられるが、東京から飛んできて折り返しらしいその便には深刻な空気は流れていない。
 機内テレビのニュースが神戸の神社が倒壊している映像を流す。それをみて「ああ神戸だったのか」と気づく。
 何事もなかったように飛行機は飛び立ち、上昇する機体の外を窓から覗くと煙が立っている。神戸方面から煙が立っている。地震で火事が起きたのか。飛行機は旋回しながらその風景から離れていく。かなり燃えていたと思うがどれくらいの地震だったのか未だ想像することができず飛行機は羽田に戻っていく。
 僕がことの深刻さに気づいたのは空港からタクシーに乗り、ラジオをつけてもらった時だった。「ニッポン放送にしてください」とお願いして流れてきたのは報道特番化した番組だった。
 僕はスタッフと「地震で帰れなかったことにして今日ズル休みしようか?」と冗談を言っていた。そこまで大変な事だと感じられていなかったからだ。
 でもその報道特番でやっとことの深刻さを理解し会社へ直行。スタジオへ駆け込む。
 僕を見たスタッフの第一声は「節丸、帰ってこれちゃったの?」だった。
 僕が大阪出張だったことを知り、僕と連絡を取ろうとしていたらしい。僕は朝早く飛行機に乗ったため電話がつながらなかったのだ。
 そして新幹線が不通になっているので報道記者が大阪に行くために羽田に行ったが混雑していてすぐに乗れず難儀していた。
 そのため僕を大阪から神戸に向かわせようとしていたのだ。そんなことを知らない僕はのん気に帰ってきてしまったのだった。なんという間の悪さだろう。
 テレビで報道される映像は僕の想像を遥かに超えたもので自分のイメージ力の無さを呪う。
 朝、大阪のNHKラジオを聞いていた時間に神戸では大変なことが起こっていた。本当に大変な時には情報は現場から出てこないのだということも思い知った。

 翌日は僕は取材と放送のため神戸に車で向かったのだがそこで目にした衝撃的な光景は20年経った今でも本当に昨日のように思い出すことができる。むしろ昨日起きた普通のことの記憶のほうが霞んで見えるくらいだ。
 この体験は僕にとってはその後の人生に大きい影響を与えたカイロスとなり今に至っている。
 この2年間ほど丸の内朝大学で「ラジオパーソナリティクラス」という授業を担当させていただいてきた。ラジオパーソナリティに学ぶコミュニケーション術がこの講座のテーマで、僕がラジオの仕事を通して見えない相手(リスナー)と如何にしてラジオパーソナリティがコミュニケーションをとるのか?といったことを解説していく講座だった。

 僕自身も「人を喋らせるプロ」などと称しもっともらしく先生業をやってきたのだが、この正月に久しぶりに自分の実の妹とのコミュニケーションがきっかけになり、家族間のコミュニケーションについて考えてみた。
 通常のコミュニケーションとは知らない者同士のあいだのことを前提としている。
 だからいつも「コミュニケーションのズレ、すなわち伝えたいことと知りたいことには違いがある」ということを話してきた。
 共通点を数多く見つけると仲良くなれるし、共通点がなかなか見つからないと「自分とは違う人だ」と感じる。そんなことを認識することがよりよいコミュニケーションの手がかりになる、と。
 
 正月に実の妹とあれこれ話し、ときに言い合いになったりしたときに、「家族同士のコミュニケーション」はそうしたものと別なのではないかと思うようになった。
 なぜかというと、家族のコミュニケーションは少なくともお互いの情報をよく知っていることが前提であり、その上でお互いの「思いのズレ」のようなものを認識しなければならないからだ。
 他人であれば、共通点が見つかればそれはほとんどの場合プラスに働く。
 しかし、家族の場合はそもそも育った環境も親も一緒、配偶者であろうとも共通点がたくさんあって共感できたからこそ結婚したのであろうし、コミュニケーションが取れたはずなのに時間が経つとともに違和感を感じて離婚する。
 つまりコミュニケーションが取れていることを前提とした上のお互いの違和感であるため、かなりその違和感がクローズアップされてしまようように感じる。
 それは他人だったら「ずれていて当然」と思えるところが逆に、「なんでこんなにずれているのか?」と思ってしまうのだ。
 こうした場合のコミュニケーションをスムーズにやっていくにはどうしたらいいのか。
 僕にしてみればずっと「コミュニケーション術」を語ってきたのにも関わらず、「家族ともコミュニケーション取れないのかよ!」とツッコミを受けそうな有様になった。
 
 僕がコミュニケーション術を講義するときに、最後は「自分はどんな人なのか?」という主観的に視点と「相手はどう思っているのか?」という客観的視点に集約して話す。
 しかし、関係の近いものになるとそこに「親子」だとか「兄弟」だとかの上下関係、「夫婦」のような社会的規範が影響する関係、役割分担のようなことが絡んでくるため、より複雑になってくる。
 
 まあ、そうは言いながら最終的に僕がたどり着いた結論は「心の平安」。
 無風なわけではなく、あらゆるバランスが取れてある種の奇跡的なニュートラルさを実現するという意味での「心の平安」。
 親子であればお互いを何かと心配し、兄弟であれば必要以上にお互いの立場に踏み込み傷つけあったりする。そんな状況の中でのバランス。
 もちろん「人の立場になって考える」という基本は変わらないにしても、より思いやりを持って接しないとそのデリケートさに対応できないものだと実感した。
 しかし、最後は家族、なかなか縁を切れる関係ではないし、最終的にはお互いを許しあえることで決着する。
 むむ。なかなか勉強になった正月だった。
 人間って18歳くらいですべて決まってるのではないだろうか。
 どうであれ10代もしくはそれよりも幼い頃に受けた影響で結局、今の自分の志向が決まっているそんなことを実感する。
 僕は小学校3年生の冬休み、父親と行ったスキー旅行。そのときゲレンデそばの「ボーフィン」という食堂のジュークボックスから繰り返し流れていたのがスリーディグリーズの「天使のささやき」という曲だった。終わるとまた誰かが入れて、本当に一日中流れていた記憶がある。
 僕は幼いながらもそのハーモニーとサウンドが気に入り、東京に戻ってから親にねだって手に入れた人生で最初のシングルレコードがこのスリーディグリーズの「天使のささやき」と当時子供向けに放送されていた「仮面の忍者 嵐」の主題歌だった。
 若い黒人女性3人のコーラスとソウルサウンド。人生で初めて体験するそのグルーヴに僕は夢中になった。学校の音楽教員室にスリーディグリーズのアルバムが何枚かあり、見開きになっていたそのアルバムジャケットを開くと3人がシースルードレスに身を包んだ全面写真がのっていた。ウブな僕はそれを見て股間を熱くするというヰタ・セクスアリス体験もあいまってスリーディグリーズにハマっていく。
 するとスリーディグリーズが来日するという情報が飛び込んできた。
 行きたいと思うが小学生の身では夜、ライブ会場の今はなき新宿厚生年金ホールへ行くなどできるはずもない。もちろんチケットを買うお金だってとても週に300円のお小遣いから出せるわけもない。
 ところが神はいた。
 同じクラスにいる美穂ちゃんという女の子が僕にスリーディグリーズのコンサートの招待券をプレゼントしてくれたのだ。
 よほど当時の僕はスリーディグリーズのことを学校で喋っていたのだろう。それを聞いた美穂ちゃんがコンサート主催のTBSの事業部にお勤めのお父様に頼んでくれたのだった。
 感謝感激。僕は次に母親に同伴をせがみ、めでたくスリーディグリーズの来日公演をこの目にすることとなった。
 それはともかくめくるめく時間で、初めて聞く大音量のPAに帰り少し耳鳴りがしたが、音楽のみならず人形を使った演出のショーが曲間に挟まるなど、僕の人生の方向性を決めるにふさわしい一夜となった。
 これがきっかけとなり僕は洋楽好きになりビートルズにハマっていき、そしてジャズへ。
 楽器もはじめ(最初に買ったのはポールに憧れていたのでベースだった)音楽マニアへの成長していく。
 今の自分の原点は何かと問われたならば、それは小学3年生だったあの夜のスリーディグリーズ来日公演がそれであると思う。
 今でもその美穂ちゃんとはたまにクラス会などで会うが、彼女のことを僕は「人生の恩人」と呼んでいる。