イスラム国についての報道や解説が花盛りだ。
 僕は佐藤優さんの書いたものに信頼を寄せているが、イスラム国についての佐藤さんの解説も非常に納得出来る。
 佐藤さんはイスラム国について、「『イスラム国』が目指しているのは、世界イスラム革命だ。」と明言する。「『イスラム国』とこの「国」を支持する人々は、唯一神アッラーの法(シャリーア)のみが支配するカリフ帝国(イスラム帝国)を21世紀のこの世界に本気で建設しようとしている。彼らは、この目的を実現するためには、暴力やテロに訴えることも躊躇しない。」とご本人のメルマガの中で書いている。
 このグローバルジハードと呼ばれる運動は世界の各地でローンウルフ型のテロを誘発する。
 なんかこれって「アメーバ経営」みたいだなあと思う。
 もちろん正確に言えば違うものなのだけれど、小さい部門の自主性を尊重していく方法は、上意下達型、中央集権型の組織よりも有効であるという考え方。
 なんか似ている。
 そもそも武装集団というのは組織の統率が取れていないとできないように思うが、こうして「宗教」を背景にしてその考え方の共感者に対してテロを呼びかけていく手法は本当に始末が悪い。
 日本にはイスラム教徒は決して多くはないが、宗教は別してこの考え方が心に響いちゃった人は宗教的誠実さからテロを起こす場合もあり得るわけだから。
 佐藤さんがご自身のメルマガで書いているロシアのインテリジェンスの事。
 「ロシアは「イスラム国」の目的と手法をよく理解している。テロ組織が収監されているテロリストの囚人の釈放要求をしたら、即時にその囚人を殺すというのがロシア流なのである。]
 つまり、人質をとって自分たちの身内の釈放を求めるという行為自体の有効性を完全に否定する方法は即座にその囚人を殺すということなのだ。
 う~ん。かなり厳しい選択である。
 この選択を今の日本で決断するのはかなり難しいだろう。
 しかしながらこうした決断を迫られる場面が発生する可能性は今急速に高まっている。
 イスラム国の存在は僕にとってもいろいろと考えるきっかけになっている。
 僕の住んでいる場所の近くにはイスラム教の寺院がある。とても綺麗な建物でその雰囲気は非常にピースフルである。
 人類が存続してくためには「多様性の確保」が必須であると思う。
 少なくとも多様性を否定するこのグローバルジハードの思想についてでだけは僕自身肯定することは決してできない。
 もっともっと人類を幸せにする方法ないのだろうかなあ。
 
 僕は歌のない曲、いわゆるインストゥルメンタル曲をよく聴く。
 ボーカルの入ったいわゆる”歌”は嫌いじゃないが、曲だけの方が心地よい。
 歌詞は表現としてすごく強い。パワーがある。大した曲ではなくても歌詞が素晴らしいことで名曲と呼ばれるものもある。
 でも僕は音楽を聴いていて脳みそに直接、歌詞の織りなす意味列が流れ込んでくるのがどこか苦手なのだ。洋楽のほうが好きなのもその歌詞が暴力的に飛び込んでくることが、外国語で歌われていることで避けられるからに違いない。
 僕自身は曲そのものと向き合いたいと思う気持ちが強いのだと思う。
 曲はまるで絵画のようだと思うことがある。音を聞いて頭の中に浮かぶ様々なイメージはまるで絵を見ているようだなと思うことがある。

 ジャズサックスの大御所渡辺貞夫さんが昔インタビューの中で「なぜ海外のミュージシャンと演奏するのですか?」という質問に対して、「海外の一流ミュージシャンたちは自分の曲をキャンバスにしていろいろな色をつけてくれる。まだ日本のミュージシャンはモノトーンでそういう人が少ない。」と言っていたことを憶えている。30年くらい前の記憶だ。
 この言葉に10代の僕は妙に納得した。日本人のジャズのレコードはいくら聞いても「白黒」に感じ、海外ミュージシャンのレコードを聴くと色を感じるどころか様々な風景が脳内に喚起される感覚があったからだ。
 ちなみにそこに歌が入ってくるとその曲は「物語」になってしまう。それはそれでいいのだけれど。
 音楽を奏でることはまるで絵を描くようで、それは風景画であったり人物画であったりときには抽象画であることもある。そんな風に浮かんでくる絵を楽しむ時間が僕は好き。
 たまたま最近知ったピアニスト田中菜緒子さんのトリオでのアルバム「MEMORIES」を聞きながらそんなことを思う。
 田中さんが描き出す絵は喫茶店に掛かっている名画のレプリカや誰も注意を払わないどうでもいいような絵ではなく、かといって美術館にあるような大袈裟な大作でもなく、道往く人がふと足を止めて見てしまうような魅力が匂い立つ絵だ。
 最近こうした絵にはあまりお目にかかれていなかったような気がする。
 僕は今この「MEMORIES」を聞きながらコーヒーを飲む時間がお気に入りだ。


 今朝会社に行く道すがら、普段はシャッターの降りているお寿司屋さんの路面に店員が立ち、恵方巻きを売っていた。
 通勤客を狙っての販売だったようだが、帰りには「完売しました」となっていた。
 節分とは文字どおり節を分ける日。2月3日に関して言えば立春の前日。
 節分における豆まきの習慣は季節の変わり目に出てくる邪気を払うためと聞く。
 語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある・・・なるほどね。
 今日は鬼が出た。
 朝からお腹の調子が悪く、会社に行って昼過ぎから熱が出て医務室でウィルス性胃腸炎ではないかと言われ、取り敢えず夕方早めに帰り家で今おとなしくしているところだ。
 豆を撒く前に邪気にやられた感じでなかなか情けない。
 節分は節替わりの日。ある意味新しい一年はここから始まるという考え方もある。
 まあ熱を出しきって新しい自分になるのだ!などと勝手に思ってはいるのだが。

 それにしても最近の恵方巻きの広まりっぷりはどうだ。今から約20年前に担当していたラジオ番組で関西のリスナーから恵方巻きの習慣についてハガキが寄せられ、それを実際にスタジオでやってみたことがある。
 それくらい東京では誰もやっていない習慣だった。
 その時も恵方巻きはわざわざお寿司屋さんに説明して作ってもらったはずだ。
 大きいものを作って女性タレントに無理やり食べさせるというお約束もあり、印象に残っているが、今やどこにいっても恵方巻きでむしろ豆まきのほうがどこかに消えてしまったようにさえ思える。
 そんな僕の晩御飯は恵方巻きではなくお腹を気遣っておかゆでした。
 早く元気になろっと。