ダルビッシュ有選手が今交際中の山本聖子さんが妊娠したことをブログに書いた。
 入籍の予定はないらしい。
 自由だなあ。いろいろ。
 メジャーに行く前にダルビッシュ選手をジムで見かけたことがある。
 背は高いけれど筋肉ムキムキな体格ではなく、野球のためだけに身体を鍛えて無駄な筋肉を一切すけていない印象を受けた。
 F1マシンとかスタイリッシュなアート作品のようでもあった。
 大昔に番組で「すごい10代」という特集をしたときに当時東北高校にいたダルビッシュを取り上げたことがある。
 そのときに並びで下田隼成というレーシングドライバーも取り上げた。僕は直接インタビューしたのですごく印象に残っているのだが、幼稚舎から慶應のエリートレーシングドライバーだった。しかし彼は2008年以来レース活動をしていないようだ。
 他にもいろいろ「すごい10代」を取り上げたのだが、今残っているのはダルビッシュだけである。
 こんな例を挙げるまでもなく若くして天才と呼ばれた人たちがそのあとも成功し続けるのは難しい。その一方で10代で芽が出ない天才というのもなかなかいない。
 そう考えるとダルビッシュ有選手がどれほどのサバイバルを勝ち抜いてきたのかがわかる。
 10代のときに喫煙しながらパチンコしている姿が写真誌に撮られたこともあった。
 弟が逮捕されたこともあった。
 単に成功といってもダルビッシュの成功の過程には様々な障害が顕れ、それを野球で結果を出すことで払拭していることがわかる。
 そんな彼に僕たちは十分に楽しませてもらっているとも言える。
 やはりヒーローは並じゃない。
 なかなかこんな風には生きられない。
 よくよく考えると入籍予定もないのに女性を妊娠させるなんて普通じゃない。
 でもきっとダルビッシュ有選手はこうやって今までも生きてきたんだろうなあ。
 リスクを考えずに自分の望むことを確実にやる。
 そんな印象を受ける。
 ダルビッシュ有やはり興味深い。
 

 
 「日常を描き出した」小説や舞台、映画などのエンターテインメントがある。
 最近読んだピース又吉さんの小説「火花」。芸人の日常を描いた小説として秀逸だった。
 小説の舞台が吉祥寺ですごく絵が浮かぶこともあり、かなりズンと気持ちに響いた。
 売れたい、売れない、という芸人の焦燥感に駆られる日常に感情移入していくいい小説だった。
 
 先日ある舞台を観に行った。知っている女優さんが出演していた事が足を運んだ理由だったが、この舞台が結核患者の病棟の日常を描いたもので、これがまた「普通」だった。 
 この場合の「普通」はネガティブな評価である。
 この舞台は作者が結核になった体験が元になっているストーリーなのだが、主人公が芸人という設定で、僕としてはどうしても「火花」と重ねて見てしまったところがある。
 元々3人でグループを組んでいる主人公の芸人は入院中にグループを外されて、残りの二人がコンピとしてやっていく決意を聞き落胆したり。若い入院患者が看護師が好きで会うたびに迫るがその看護師に採血を失敗してそれから避けるようになったり。主人公を訪ねてくる彼女と思しき女性が実は狂信的なファンで、最初はなんとも思っていなかったのにグループを外されてから大切な存在に変化したり・・・。
 こうして書いていても「普通」の物語だ。
 こうした「普通」の物語はやはり「普通じゃない」才能がないと作品には仕上がらないということを改めて思った。
 観劇したあとに何も残らない。
 何かを考えさせられることを望んでいるわけではなく、気持ちになんの変化も起きないのだ。
 自分が知っている女優さんについては患者にしつこくされる看護師役だったのだが、ちょっとエロくて患者を振り回す感じが納得出来る良い仕上がりになっていた。
 まあ、結局それが観られたからいいけれど。
 
 僕が好きな脚本家の松枝佳紀さんの「今日も、ふつう」という舞台がかつてあった。
 今ネットで調べたら2008年の年末の作品だったが、この芝居が全く「普通じゃなく」て、物語が描く狂気の日常が繰り返されることで「普通」になっていく異常さを感じるものだった。
 近親相姦と心中とストーカーと。書いているだけで異常だが、そんなことが日常の延長線上にある狂気のドラマだった。
 
 エンターテインメントの仕事をしている身としても、日常をどうやってアウトプットして「親近感」を持ってもらえるか頭を悩ませるところだが、アウトプットするもの当たり前じゃ誰も面白がってくれない、「普通」じゃ誰も興味持ってくれないというところが難しい。
 そんなことを改めて考えさせてもらったという意味ではチケット代の元は取ったのかな?
 人間の細胞って新陳代謝でどんどん入れ替わっていくので、同じ人間のようで細胞の入れ替わりに伴い別の人間になっているらしい。
 それから分子原子レベルまでいくと人間だって僕らが「モノ」と呼んでいるものは同じ粒子であり、振動であるらしい。
 ということは僕らの意識というのは一体どこにどうして存在しているのか?なんてことをちょっと考える。
 なぜ細胞は入れ替わっても人間の意識というのは維持されているのか。
 なんでそんなことを考えているかというと、最近肉体の衰えを感じることがきっかけ。
 3年前から始めたマラソン。1年前にフルマラソンに出場して膝を痛めた。
 若い頃、おそらく30代までは限界を超える負荷で運動することで筋肉が強くなることを実感することができた。
 今は限界を超える負荷をかけると筋肉を痛める自分がいる。
 それどころか限界を超えようと思っても、どうしても超えられず肉体の方が悲鳴をあげる。
 細胞が新陳代謝で入れ替わっているなら若さは保たれそうな物だが、少しづつそのスピードも落ちて古い細胞の要素が増えているのかもしれない。
 
 今週の月曜日、苗場スキー場で松任谷由実さんのライブを見た。かの有名な「SURF&SNOW」である。僕は20代の後半に松任谷由実さんの番組を担当していて、その期間は毎年苗場に放送のために来ていた。
 昨年久しぶりにお仕事させていただいたのでその縁で今年は伺ったのだ。
 35回目だというそのライブは素晴らしいものであると同時に、ガムシャラに仕事していた20代の自分の気持ちを思い出す時間となった。
 僕が仕事でこの場所に来ていたのは約20年前。
 まだ肉体の限界を超えることで強くなることが出来た年齢の頃だ。
 今は21時過ぎから始まり24時近くまで行われるこのライブに臨み、もしかしたら眠くなるかも知れないと夕食を摂ってから仮眠をとることにした。
 最近は寝るのが早く夜更かしが苦手になっている。
 今は限界を超えようと夜更かししたりすると翌日どころか2、3日体調が悪くなる。
 そんな僕がライブの観ていると気持ちだけは20代の頃に戻るのだ。
 細胞が入れ替わる新陳代謝のスピードが落ちた今でも細胞は20代のころの意識を忘れない。
 ユーミンのメロディと歌詞に感激し、自分の恋愛を重ねて切なくなっていたあのころ。
 曲がまるでタイムマシーンのように、僕の若い頃の感覚を呼び起こし、魔法のようにその頃の光景を脳内に蘇らせてくれる。
 もしかするとこの場所の僕の記憶は肉体が滅びてもここに残ることが出来るかもしれない。
 そんな気持ちになった夜だった。
 僕の肉体はあの頃の肉体じゃないけれど、僕の意識は変わらずあの頃のままだ。
 音楽はまるで人生経験という膨大なデータから特定の記憶を呼び起こすハッシュタグみたいだな、としみじみ思ったのだった。