毎年かたちだけでも「今年の目標」とか書いたりしている。

でも、それって何の役に立つのか。

翌年の今年の目標を書くまで見さえしない。

それを見ながら今年の目標を書く。

健全なのか、そうではないのか。

でも、一年前に何を考えていたのかを読むのは面白い。

だからたまに今何を考えているのかを書いたりする。

でも、最近は問題発生。

何を考えているのか書こうとしても、何も浮かばない。

どうしたんだ?自分?

これが年齢的な限界か。

とうの昔に若さへの憧憬は断ち切ったはず。

でも、何も浮かばない。

ということは何もやりたいことがない。

そう。今年はずばり何もやりたいことがないのだ。

もしかしたら今年死ぬんじゃないのか?

いやだいやだ。

でも、ここのところ思うことがある。

頑張って長生きして・・・ってある時期から思ってきた。

酒を控えて、とか。運動して、とか。

でも、いいじゃん。

さっさと早死にして、みんなから「早かったねえ」なんて言われながら酒のつまみになる。

それもそれでいい。

だって死んじまったら何もないわけでしょ?

死後の世界のことはこどものころから興味あって。

でも特定の宗教に帰依しているわけでもなく。

いうならば神社に行き、冠婚葬祭は寺にいく。

そんな平均的なノンポリ日本人の自分からすれば、死後の世界はあればいいけど、無いと思った方がいいなと思ってる。

だから死の意味を見出そうとする芸術活動はわかるけど、決してそこに共感できない自分もいる。

だって終わりなんだから。

何年か前に自ら命を断った先輩がいた。

仕事やプライベートも苦しかったみたいだけど、死んでお終いなわけじゃない、のか、死んだらお終い、なのか。

どっちでもいいなあと思うのだ。

その時に自分が冷静に考えて、その課題解決のために「死」を選んだのだから、それを他人がどうこういう理由はない。

まあ、そんなことを考えながら新年を迎えている今。

で、結局今年の目標は何か?

楽しく生きる。

ただそれだけ。

仕事人生もある。やりたいこともある。

でも、子供も家庭も大事。家族との時間も過ごしたい。

全てはバランス。

バランスとるから突き抜けられないことはわかってる。

でも、社会的に名をあげて、何かいいことあるんでしょうか?

なんて思うこともある。

お金のことも大切。

でも、きっと誰かが食わしてくれるような気もしてる。

だからあんまり気負って家族のために稼ぐ!なんて言うのはやめておこうと思う。

何しろ頑張ろうと頑張るまいと会社勤めはあまり変わらない気もするし。

あとは自分の納得感だけ。

だから楽しく生きる。

それだけを考えて今年を生き切ろうと。

それだけは今決意できることかな。

残り2日の2022年。

恒例となった(と言って誰が読んでるだか)鬼が笑う話。

来年のことを考えてみる。

今年印象深かったのは、友人でもある宅見将典さんのグラミー賞ノミネート。

素晴らしいこと。

思っていることは必ず叶うのだなと。

もちろん実力あってこそなのだが。

 

他の友人がfbで語っていた「凡事徹底」。

なるほどなあ。

基本に戻るとか、原点を見つめ直すとかよく言ってしまうけれど、当たり前のことを徹底してやるというのは、コロナ流行が始まった当初、自衛隊にあったコロナ対応部隊が心がけていたことと知り、感激したことを思い出す。

 

僕は現在57歳。2023年は58歳。

年齢をなぞるのは毎度のことだが、よく思うのは小学生時代の記憶はおぼろげでも、大学生時代の記憶はかなり鮮明になり、僕の大学時代はジャズばかりだったけれど、初めて渡米した体験、それがモンタレージャズフェスティバル出演だったりしたものだから、鮮明な記憶が残っている。でも、その時の自分は21歳。今から36年前になる。

今から36年後は93歳。

生きているか微妙だ。

これまでの時間と記憶をこれからの時間と照らし合わせていくことをよくするようになった。

要するに残され時間がどんどん無くなっていき、今、自分がしたいと思っていることを成し遂げる可能性、確率はどんどん下がっているということだ。

もちろんこういう数字で推し量ることはできないけれど、「大したことない自分」を再認識する日々が続いている。

でも、エンターテインメントを仕事にしたからには、やっぱり世の中がひっくり返るような事をしたい、とやはり今でも思い続けている。

来年は卯年。

ウサギは多産で、たくさん子供が生まれるというし、もちろん飛び跳ねることから、進歩、進化のスピードが上がるとも言われている。

僕自身も還暦前の最後の3年間の始まりの年。

「やり切った」と言えるような時間にしたいなあと漠然と今は思っている。

それで何をやるのか、だが・・・。

 

僕の今の興味は「物語」だ。

ストーリー。

人間はストーリーを常に必要としているとつくづく思うのだ。

あるときは青春のストーリーであり、あるときは仕事の成功譚であり、あるときは誰かのために奉仕の精神を発揮する感動のストーリーであったりする。

 

2023年の僕は、一つでも多くのストーリー、物語を誰からの元に届けることができたら、と思う。

それがオーディオドラマなのか映像作品なのか、はたまた文章なのか、語りなのか、その全てであり、どれでもない新しい形かも知れない。

でもそのことに僕は挑戦したいと今、考えています。

皆さんの心が求めているストーリーの発信をなんとしてでもして行きたいと思っています。

森保監督の評価が変わってきたというニュースが多く出ている。

ポイントは前半と後半のシステム変更だが、なぜ、前半中にシステム変更しなかったのか。

それについて中村憲剛は

「それでも森保監督が前半のうちに動かなかったのは、動いてしまったらハーフタイムにドイツに対策を練られてしまうからでしょう。だから、待ったのではないかと思いました。」(NumberWeb)

と言っている。

本番の中継で、NHK解説の中澤裕二も言っていたが、前半と後半でマークが変わったことで、伊東純也が前半はドイツのラウムのマークにつき、そのためにかなり守備に戻ってこなくてはいけなくなっていた。それが後半酒井宏樹がラウムのマークにつくことによって、伊藤純也が位置を下げる事なく攻撃参加にすぐ移れるというメリットを生んだ。

要するにマークの確認が出来たことでいろんなことが動き始めた。

ゾーンプレスとこうした1体1のマークの使い分けは難しい。

相手によってどう戦術を変えていくか。

かなりマニアックな話が今回のドイツ戦勝利の要因として分析されていることに少し驚きを感じるが、サッカーについて、一般人のリテラシーがそれだけ上がっているということでもあると感じている。

僕自身もかつてサッカー部だったが、その頃のシステムと比べると、現在の「ボランチ」というポジションはなかったし、僕のいた学校は守りについてはスイーパーシステム(最後方に一人フリーのバックを作っておいて対処する守備)で、僕はストッパー(センターフォワードのマーク)だった。時にサイドバックもやったけれど、ゾーンディフェンス的な考え方が出てきた時代でもあったけど、基本は1対1のマーク。

今の戦術と隔世の感がある。

さあ、このあとの結果にもよるが、明日は遂にコスタリカ戦。

これでグループを抜け出せる成果を作れれば、さらに森保監督に対する評価は高まっていくだろう。

なにしろ、前半と後半で同じチームに見えないほどの変貌ぶりに、僕自身も我が身を振り返り、戦術次第で現場の動きは変わる、レベルを上げることも可能、とういことをしみじみと感じることができた。

さあ、明日から自分の仕事はどうしていくか、そんなことを考えた日本のビジネスマンはかなりたくさんいたのではないだろうか。

まだ結論も出ていないが、今回のワールドカップで日本代表が日本全体に勇気を与えるであろうことは間違いない。

あの冷徹な西野監督率いる日本代表がロシアーワールドカップで決勝リーグには進出したが、記憶に残るような結果を出せなかったことに、監督ではなく、戦術の限界を感じてガッカリしたのも確かだ。

でもこうしたスポーツの国際大会の意味というのは人間のイメージが「人類皆兄弟」の前にナショナリズムに基づいて戦い、ノーサイドの精神で試合後打ち解け合う。

こうした相互理解こそが理想と考えたときに、現在のロシアのウクライナ侵攻をどう捉えるか。

人間は課題解決のために色々頭を使いながら生きてきて、文明を進化させてきたけれど、いまだに世界が平和に暮らすという課題については解決できずにいるということは悲しい現実でもある。

そんなことを考えるワールドカップなのであった。