最近ふとしたきっかけで福沢諭吉に興味を持っている。

幕末に興味を持ったこともある。

幕末にハマる人は多い。

坂本龍馬をはじめとした幕末の志士たちのファンも多い。

司馬遼太郎を読むのが好きな人も多いだろう。

どれひとつとして今までハマって来なかった僕だが、ウクライナとロシアの戦争が始まってから色々考える中で、幕末に思いを馳せることが多くなってきた。

今現在のことを考える時、例えば中国が台湾に侵攻したら日本はどうすればいいのか。韓国との終わりのない諍いにどう折り合いをつけていくのか。はたまたアジア全体を考えた時にそのメンバーとしてアメリカやヨーロッパとどう向き合うべきなのか。

その上、日本の経済と言ったら弱体化の一方だ。

円安が進んで海外旅行に行くのに躊躇するようになったし、日本が世界に打って出ていけるようなビジネスが本当に少ないように思う。

世界中の不動産を買い漁ったバブルの頃が良かったわけではないけれど、経済大国とか言われていた方が国民の一人としては日本とういう国にプライドが持てた。

現在は、この弱さではいつ何らかの形で海外からの攻撃、武力のみならず色々な攻撃から日本を守ることができないのでは?という不安も増大している。

そしてそれは今の自分に出来ることはなんだろう、と言う問いかけにもなる。

その答えを求めて幕末のこと、明治時代の日本に前例を求めたくなるのだ。

 

その答えの一つがやはり「教育」だった。

男女平等を、人間の平等を唱え、学問をすることの大切さ、偏見なくひらかれたものの見方を伝え続けていた福沢諭吉に、今後の日本人の若い人たちへの教育をどうしていくかのヒントがあるように思っている。

しばらくはこの場所で、福沢諭吉の書物を読んでの雑感を記しながら考えていきたいと思っている。

 

と言う宣言を今日はしておこうと思う。

他にも幕末については思うことがある。でも「日本を何とかしないといかん」「このままじゃ日本は侵略されたダメになる」と言う危機意識が高まっていたことについては、とても大切な時代だったし、今と比較してとても似ていると思う。

なので、あと数年で還暦という今の年齢だからこそ、一度そういうことを考えてみるのも良いかなと思っている。

 

1月15日といえば、昔なら成人式。

今は祝日の日付も変動的で憶えるのが難しい。

右脚が相変わらず痛い。もう3年に渡る痛み。

元々はマラソンにハマってフルマラソンとか出ていて腸脛靭帯炎というのになったことから始まった。

それに加えて4年前に子供が生まれ、抱っこを続けているのが意外と肉体的にキツくて、なんか右脚の股関節がグキっとなった記憶もある。

それ以来右太ももの外側が痛み、股関節が硬くなり、開脚するのが難しくなった。

整形外科にも通ったし、マッサージはもちろん、整体にも通っている。

なかなか良くならないでここまで来た。まあ、少しは改善している。

かつては、肉体的不調というのは一度痛めても、ある程度時間が経ち、自分でも身体の動かし方を気をつけることで治してきたが、今回ばかりはなかなか苦闘している。

それで、結果としてJRAの宮崎ほくと騎手「カラダマニアちゃんねる」を発見、応用脳神経学というものを知り、番組プロデューサー的興味もあり、ご本人にアプローチ、一度オンラインミーティングをさせていただき、現在、宮崎騎手の作っている「BODY DISCOVERY COLLAGE」を現在受講しつつ研究中だ。

この宮崎騎手の教える応用脳神経学のアプローチはまだ最先端の知識で、まだ一般にはあまり知られていないが、「身体は全て脳がコントロールしている」という考えてみれば当たり前のことを実践的に教えてくれる。

僕も整体などで、故障としての腸脛靭帯炎はもう治っており、痛みを感じているのは脳なんで、感じ方を変えれば治るかも知れない、とか言われたことがあり、それは理論的には理解できるけれど、じゃあどうすれば感じ方を変えられるんだ?という疑問に宮崎騎手の教えてくれる知識は答えてくれる(予感がする)。

まだ僕が勉強中なので予感なのだけれど、実際にいくつかワークをすることで状態の改善を実感することが出来、「なるほど!」となる瞬間が多々ある。

こうして考えると人間というのは本当にすごい。

どんどん進歩している。

こうした研究の進歩とともにオリンピックのような場所で競う選手たちの肉体はどんどん能力を上げていっているのだと実感する。

宮崎騎手はプロのアスリートであるが故に、ご本人の探究心でご自身の肉体的問題、課題、落馬事故の後遺症を克服されているので、説得力もあり、一線のアスリートの気合いというか真剣な態度にこそ学ぶべきものがあるなと感心しながら勉強させていただいている。

 

年の初めになんでこんなことを書いているのかというと、やっぱり諦めてかけていたことにもやっぱり解決策は存在する。

簡単ではないけれど、どこかに課題を解決する方法はある。

そしてそれはいつでもとても科学的で、理論的で、でも辿り着くのが困難で、途中まではスピリチュアルに見えることさえある。

でも、やっぱり、解決することができるのだという思いを深めているからだ。

 

知人が癌になり闘病している。

身内でも癌になり、治療してサバイバーとなった者がいる。

癌にはまだ決定的な治療法はない。

でもそれを求めて地球上のいろんな場所で医学関係者が研究を続けている、闘っているだろう。

人生っていうのはこうした課題に一生かけて向き合わされるものなのかもしれない。

課題はそれぞれ違うだろうが、闘うのを止めては行けないなと改めて思う年の初め。

今年も課題満載だが、前進することを諦めず行こうと思っているのである。

さ、今年はいくつ課題解決できてスカッと出来るのか。

毎年かたちだけでも「今年の目標」とか書いたりしている。

でも、それって何の役に立つのか。

翌年の今年の目標を書くまで見さえしない。

それを見ながら今年の目標を書く。

健全なのか、そうではないのか。

でも、一年前に何を考えていたのかを読むのは面白い。

だからたまに今何を考えているのかを書いたりする。

でも、最近は問題発生。

何を考えているのか書こうとしても、何も浮かばない。

どうしたんだ?自分?

これが年齢的な限界か。

とうの昔に若さへの憧憬は断ち切ったはず。

でも、何も浮かばない。

ということは何もやりたいことがない。

そう。今年はずばり何もやりたいことがないのだ。

もしかしたら今年死ぬんじゃないのか?

いやだいやだ。

でも、ここのところ思うことがある。

頑張って長生きして・・・ってある時期から思ってきた。

酒を控えて、とか。運動して、とか。

でも、いいじゃん。

さっさと早死にして、みんなから「早かったねえ」なんて言われながら酒のつまみになる。

それもそれでいい。

だって死んじまったら何もないわけでしょ?

死後の世界のことはこどものころから興味あって。

でも特定の宗教に帰依しているわけでもなく。

いうならば神社に行き、冠婚葬祭は寺にいく。

そんな平均的なノンポリ日本人の自分からすれば、死後の世界はあればいいけど、無いと思った方がいいなと思ってる。

だから死の意味を見出そうとする芸術活動はわかるけど、決してそこに共感できない自分もいる。

だって終わりなんだから。

何年か前に自ら命を断った先輩がいた。

仕事やプライベートも苦しかったみたいだけど、死んでお終いなわけじゃない、のか、死んだらお終い、なのか。

どっちでもいいなあと思うのだ。

その時に自分が冷静に考えて、その課題解決のために「死」を選んだのだから、それを他人がどうこういう理由はない。

まあ、そんなことを考えながら新年を迎えている今。

で、結局今年の目標は何か?

楽しく生きる。

ただそれだけ。

仕事人生もある。やりたいこともある。

でも、子供も家庭も大事。家族との時間も過ごしたい。

全てはバランス。

バランスとるから突き抜けられないことはわかってる。

でも、社会的に名をあげて、何かいいことあるんでしょうか?

なんて思うこともある。

お金のことも大切。

でも、きっと誰かが食わしてくれるような気もしてる。

だからあんまり気負って家族のために稼ぐ!なんて言うのはやめておこうと思う。

何しろ頑張ろうと頑張るまいと会社勤めはあまり変わらない気もするし。

あとは自分の納得感だけ。

だから楽しく生きる。

それだけを考えて今年を生き切ろうと。

それだけは今決意できることかな。