高校時代の友人に人工衛星を作っている人がいます。
 彼と酒を飲みながら話す中に垣間見える人工衛星を作っている人たちの現場がとても興味深い。
 人工衛星と言ったら国家的な事業だし、彼らに対する発注者は政府です。だからその発注は国家予算に左右されるわけで、国家的な事業であっても彼らにとっては「商売」であることは間違いないし、その友人たちは会社から「利益を出せ」と言われるのだそうです。
 でも数億円の単位で予算オーバーしちゃったりもするそうで、普通の企業だったらクビになってそうな金額に驚き、もちろん「数億円の赤い出したらウチの会社なら潰れているよ」とも思います。
 その一方で利益を出すためにコスト削減して、その人工衛星が他のものに比べてレベルの低いものになっては意味がないですし、個人的には多少の予算オーバーがあってもいいものを作って欲しいという思いは強い。
 国家予算にすがって甘い汁を吸うような話はよく小説の世界ではありますが、どこまで儲けていいのか、そしてどこまで予算オーバーさせていいのか、は結局はどんな大きいプロジェクトであろうとも個人の良心に左右されることなのでしょう。
 
 大阪都構想が住民投票の結果、反対多数で廃案になりました。
 大阪都構想については僕も興味を持ち、橋下徹さんの言うことにもある程度共感し、大きい志をもって「大阪から日本を変える」つもりなのだなと感じて心の中でエールを送っていました。
 今回は結果としては何も起こらなかったけれど、決してプロセスは無駄ではなかったと思います。
 でも橋下徹さんの「政界引退」には違和感を持ちます。
 「その程度だったのか」と思わざるを得ない。
 政治家は大変な仕事だとは思うけれど、でもたった7年で辞められるような志だったのか、と。
 だったら最初から政界進出なんてしなければいい。そんな思いにもなります。
 大阪都構想は否定されたけれど、政治家としての橋下徹が否定されたのではないと僕は思うのです。まだたくさんやっていただきたいことがあると。
 
 人工衛星の話と同じレベルで語れることではありませんが、最終的には人の良心が左右する事。
 大阪都構想をぶち上げたのは「無駄が多い」と感じた橋下徹さんの良心。
 それが否定されたのは、その「無駄」が許容範囲だという民意。
 僕は民意が常に正しいかどうかは別にして、このプロセスを可視化した今回の流れはある意味とても健全なことなのでは?と思います。
 人工衛星作りの予算オーバーの話を酒の肴にして語るように、橋下さんには「大阪都構想の意味がまだまだわかってないんだよな」とか言いながら、次のビジョンを酒を飲みながら語っていてほしい。そしてまたびっくりするようなことをぶち上げて欲しいと思います。
 他の政治家と比べたときに引退はあまりに惜しいと心から思うのです。
 
 
 音楽が売れないと言われて久しい。
 今やみんなyoutubeで音楽を聴いていて、CDを買わない。結果これまでの音楽業界のビジネスモデルが崩れてきていることは周知の事実だけれど、その解決策の決定版、音楽で稼げる次のビジネスモデルはまだ登場していない。
 行き詰まった時は原点に戻れと言いますが、音楽の初期衝動を確認するためにはこの映画「はじまりのうた」はとてもぴったりので映画でした。
 長らくヒットを出していない音楽プロデューサーがたまたま入ったバーで、たまたま歌うことになった女性シンガーに惚れ込み、彼女とニューヨークの街でレコーディングしながらアルバムを作っていくストーリー。
 女性シンガーはキーラ・ナイトレイ。女性シンガーの元彼氏役がマルーン5のアダム。
 そして劇中歌の「LOST STARS」が何しろ素晴らしい。この曲は物語の中ではシンガー役のキーラ・ナイトレイから彼氏のアダムに贈られる曲なのだけれど、最初にアコギ1本で歌われるキーラのバージョンから成功したシンガー役のアダムが歌うバージョン、そしてそれを聴いて「そんなアレンジじゃ曲が生きない」とキーラに言われ、さらにアダムが歌い直したバージョンの3バージョンが映画の中で歌われるのだけれど、その全てが素晴らしい。
 1曲の中にある宇宙で1本の映画ができてしまうのですね。
 音楽という「見えないもの」が生む無限のイマジネーション。そしてその一つを映画という手法で可視化していくこと。音楽は映像に先行するという事実。
 ぼくはやっぱり映画好きである以上に音楽好きなのだと思いますが、もうストーリーのディティールよりこの映画の中に出てくる音楽の素晴しさにやられてしまいました。
 しかしながらキーラ・ナイトレイの歌の素晴らしい事!シンガーとしても才能を発揮する女優は多いですが、彼女の演じるシンガー役は本当に完璧で、他の映画を見ていなかったら音楽の人にしか思えないですから。
 街中でラップトップを使ってどんどんレコーディングしていくのもすごく今っぽいし、音楽とは日常生活の中から生まれていくものだと言うことを改めて示してくれています。
 そう、それが音楽の原点。行き詰まった音楽の行方を少し明かりが差したように感じます。
 作って歌う人がいて、それを聞きに行く人がいる。それが音楽の基本だとすれば、その行動が今やネットを通じて可能になった。ただそれだけなんじゃないかな。
 そういう場がもっとネット上に増えていくことが音楽の未来に起こればいい、そんな風に思いました。
 映画「セッション」がいろいろ議論を巻き起こしているようです。
 菊地成孔さんと町山智浩さんの論争が影響しているのか、僕の周辺でも「セッション観た?」のような会話を聞くことが多いです。
 結局はパブリシティになってんじゃないの?って気もしますが、ジャズが大好きな僕も一応この映画観ました。
 ある意味アタマの悪い感想ですが、面白かったです。
 結局エンターテインメントは受け取る側の問題であって、それぞれがいろいろ思うのはそれぞれの自由ですから、この映画のストーリーを稚拙と感じるか深いと感じるか、はたまた意味がわからないと感じるかはその人次第でしょう。
 でも菊地成孔さんのようにというか、この映画がドラマーが主役の映画であるにも関わらず、ドラマーからのコメントを探すことができないのは偶然じゃないと思います。
 それからネットでレビューを探してて笑ったのは「この映画は”セッション”というタイトルですがセッションのシーンはありません」というもの。
 そうなの、そうなの。この映画の制作者(監督のみならず)はジャズという音楽のことをよくご存知ないということは明らかで、「監督の実体験が色濃く反映・・」というのが本当ならば、この監督のジャズ経験は恐るべきほど初歩的、かつ幼稚だったということはジャズを愛する人ならばわかると思うのです。
 だってジャズミュージシャンが苦悩するポイントっていうのは、いくらテクニックが向上してもそれが音楽として評価されることと無関係であるところであり、「上手いけどスイングしてないね」なんて言い草がジャズミュージシャンにとっては深く傷つく表現だっていうことを「セッション」を作った皆さんはご理解されてないのね?と感じるのです。
 映画のなかで「テンポが違う!」「早い!」「遅い!」なんてやりとりがあるけれど、どこが早いのか遅いのかさっぱりわからないし、そもそもそれって音楽の本質全く関係ないよね?と思うのです。
 これはある高名なアーティストが言っていたことですが、「音楽をやろうとして学校に通う人はそもそも才能がない」。
 この言葉にはすごく納得するのです。すごい人は最初からすごくて、それは学校のようなところに通って身につくことではない、というのは音楽を真剣に突き詰めたことがある人ならみんな理解していることなんじゃないかと思います。
 それを考えると「ジャズの名門学校」という設定が僕からすると笑えるんだよな。
 これってクラシック音楽の世界で「ニューヨークのジュリ⚪︎⚪︎音楽院卒の・・」という権威主義が横行しているようなことがあって、それが音楽の評価と関係なくて滑稽に感じるのと似ている。
 あ、ジャズにもあった!「バークリー音楽院を首席で・・・」みたいなやつ。それっていい音楽かどうかと全く関係ないですから。
 だからストーリーがどうであれ、ジャズのみならず音楽を職業にしている人、もしくは真剣に取り組んでいる人は、いくらテクニックがあってもその音楽で「ノれる」かどうかは関係無いことは直感的に理解しているので、たぶんセッションの中の音楽の扱いに不満を感じるのではないかな、と思うわけです。
 これに比べると「はじまりのうた」は良かった。これについてはまた今度。