4~5年前に15歳くらい年齢が下の後輩が喋っているのを聞いて「あれ?」と思ったことがあった。それは「まつり」という言葉の使い方についてだ。
 「◯◯部は社長から直接指示が出て”まつり”になっていますよ」みたいな使い方だ。
 ああ、大騒ぎのことを”まつり”というのか、と思ったことを憶えている。
 でも自分では日常生活であまり”まつり”という言葉を使わなかったので新鮮だった。
 いわゆる「ネットで炎上」していることを「まつり」とも呼ぶ。この使い方にも若干の違和感を最初感じた。
 僕の中で「まつり」と聞いてイメージするのは夏祭り、盆踊り、屋台、金魚すくい、浴衣・・・のような連想。
 大騒ぎというよりはほのぼのとした印象。まつりは祭礼であり祭祀である。神様にたて”まつる”にもつながる厳かな雰囲気か。
 しかし民俗学的な観点からみると「ハレ」(非日常)と「ケ」(日常)があり、「ハレ」=「まつり」である。確かに「まつり」の日は踊り、酔い、男女が自由に愛を謳歌する。リオのカーニバルだって日本の祭りだって同じようなところがある。
 戦後僕が生まれ育ったような都会の住宅地では年中行事の意味がわからなくなって消滅、もしくは形骸化する傾向が強かった。
 僕自身子供の頃から祭りといえば町内会の行事で、子供にとっては楽しい催しだが、その意味を感じたり考えたことなどなかった。
 もう少し下町の三社祭のように江戸からの伝統が引き継がれている場所ではもう少しニュアンスは違ったのだろうが、僕が住んでいた郊外の住宅地では祭りはカタチだけの催しものに過ぎなかった。
 そんな環境で育ったからだろうか。「まつり」が非日常とは全く思っていなかった。
 そう考えるとネット上で起こっている「まつり」は本来の意味に近い使われ方なのかもしれない。
 どんな言葉も時代とともにかたちを変え、意味を変える。
 「まつり」はぐるっと一回りしてその意味を取り戻しているのかもしれない。
 いまひとつ整理ができないのでもう少し考えてみることにする。
 
 
 
 ここのところの僕の興味は「物語」に向いている。
 学校を卒業してから社会人生活も今27年目となり、定年までの時間をカウントダウンするようになると、友人たちとの会話も残りの人生どう過ごす?という話題になることも多い。
 昨年3月に30年ぶりに開かれた高校の同窓会に出席した。そこで聞く友人たちの近況そして今後の話に花が咲いた。
 30年近い時間が経つとどの同級生の人生も興味深く面白い。
 少し前に同級生のひとりがある有名企業の代表取締役社長になったが、そのニュースを聞いて驚くやら自分の人生と比較してみたり、羨ましがってみたり、大変だなと気の毒がってみたり、様々なことを思ったが、改めて人それぞれの人生とは「物語」なのだと感嘆する。
 
 僕はエンターテインメントの仕事に従事しているが故に、これまでもそしてこれからもきっと「面白い」の神様に身を捧げていくのだろう。何しろ僕が自分の人生で一番大事にしているのは「面白い」という価値観だからだ。
 面白いか面白く無いかは僕にとっては仕事の出来を決める分岐点になる。
 かつて僕の友人が、番組のタイトルを必死に考えている僕の姿を見て、「ダジャレ考えるのが仕事なんだ(番組のタイトルはダジャレから付くことが多い)」とつぶやいた。
 確かにコークスの輸入に従事する商社勤務の友人が大事にしていることと僕が大事にしていることは全く違うだろう。
 仕事は自分の価値観にも大きい影響を及ぼす。
 ある物語の中ではとても大切なことが、別の物語の中では全く意味のないことになる。
 だから人生の途中で別の物語の中に移ることはあまりない。
 それこそ「人生が変わる」体験なのだと思う。
 僕がもしも他人の全く違う人生、物語の中に入ってしまったら、自分のこれまでの人生が「全く無駄だった」と嘆くのだろう。
 場合によっては世捨て人になるかもしれない。人によっては世を儚んで自殺する場合さえあるかもしれない。
 だから人にとって「物語」はともて大切。
 医者の家に生まれた子が父親に影響されて医者を目指すように、または医者の家に生まれなくても漫画の「ブラックジャック」を読んで医者になりたいと思った人がいるように、物語は誰かに語られ、そして受け継がれ、また受け継いだ人が展開させていく。
 物語は強い影響力を持ち、物語はまた新しい物語を生む。
 そしてどんな物語を選ぶかで人の人生は大きく左右される。 
 そんな中でエンターテインメントがその「物語」に与える影響は強い。
 だからこそエンターテインメントの仕事をしている僕は、人に幸せな影響を与える物語を紡ぎだしたいと最近切に思うのである。
 
 何かアイディアを思いついたとき、そのアイディアが優れているかどうかを検証するため方法として、SUCCES'sリストというチェックリストがある。

Simple(シンプルである)
Unexpected(意外性がある)
Concrete(具体的である)
Credible(信頼がおける)
Emotional(感情に訴える)
Story(物語性がある)

 というものだ。
 これチップハース、ダンハースの書いた「アイデアのちから」という本の中に出てくる。
 ケネディ大統領が1961年にしたアポロ計画支援の演説の中にある「人類を月へ連れていく」というアイディアはこのリストの全てを満たしていると言う。
 確かにシンプルで今まで考えたことのない前人未到の意外性があり、具体的でもあり、アメリカ大統領の発言であるだけに信頼性もあり、それを達成することはアメリカ国民の感情に訴え、熱狂的な支持を生み、そして計画達成までの物語に酔いしれることができる。
 
 インターネットが登場しネット時代に入るとCの信頼性を構築することがとても難しくなったように思う。
 テレビが強い影響力を持っている時代はテレビで紹介されたことは流行した。ドリフのギャグは学校の誰もが知っていたし、爆発的なヒットドラマとともに主題歌がヒットしたりした。
 今はどうだ。8.6秒バズーカーのラッスンゴレライとか、バンビーノのダンソンと言ったギャグはきっかけこそテレビだが流行した理由はネットによる拡散だった。
 でもその一方でネットで得た知識を鵜呑みにするとそれが間違っていることもあったり、ネット状にあることに信頼性がおけるかというとそれは怪しいところがある。

 信頼性を保証するのはある種の権威であることは明白だ。
 通貨の信頼性は国家の権威を背景にしているし、ニュースの信頼性は新聞社という権威を背景にしている。
 しかし今やネットを通じて国境を越えることが容易になり、アメリカにおけるスノーデンのようなハッカー的技術者が国家機密を暴露する時代。信頼性を保証する権威の存在が次々に崩れてきている。
 いったい我々は何を信頼すべきなのか。
 信頼性を保証している権威はどこにあるのか。
 その答えのひとつが宗教であるように思う。
 チュニジアが民主化運動の結果起こったジャズミン革命で独裁的政権が倒れたあとイスラム教国家になったように、宗教が様々な事象の信頼性を保証する権威として存在感が増してきていることひしひしと感じる。
 この宗教を世界で通じる「権威」としていくにはその種類が多過ぎると思うし、そこには例えばイスラム教世界とキリスト教世界の対立のようなこととは避けられない。
 で、結局今はその方向に向かっていると感じ嫌な気持ちになることが多いのだ。