昨日、ある方からプレゼントされたワイシャツのお仕立券でワイシャツを作りに行った。
 生地を選び、丁寧に寸法を測ってもらい、出来上がり日を教えてもらって店を出た。
 50歳になってある人から「50歳までは洋服に合わせて身体を作る。50歳からは身体に合わせて洋服を作るのがいい」と言われたことを思い出す。

 自分の身体に合わせて洋服を作るのはある意味で人生を50年生きてきて、これからはオーダーメイドの人生を生きろよ、ということなのかも知れない。
 僕は会社員、サラリーマンとして生きて来た。
 会社としての枠組みに合わせて自分の人生を設計してきたし、合わせるために自分を追い込むことも結構好きだった。
 でもある程度の年齢になると周りからあまりああだこうだと言ってもらえなくなって、自分の一挙手一投足が間違っていてもそのまま進んでしまうことも多くなった。
 もう太っていても「痩せたら?」とは言ってもらえないということか。
 オーダーメイドの服は着る人のセンスや個性を既製品を着るより表すだろうし、だからこそ自分がいかなる人物であるかをよく自覚せねばならないということだろう。
 自信と傲慢さはウラハラの関係にある。
 そんなことに考えを巡らせ、少しピリッとした休日だった。
 
 
 先月22日が誕生日だったので今日でちょうどひと月が経った。
 誕生日のころに「50歳になって思うこと」とか書こうと思ったけれど、なんだか何も思い浮かばず書かずにいた。
 今ひと月経ったからといって何かを思いついた訳ではないが、自分の周りで少しショックなことが起こり、そのことについては日記的に書いておこうと思ったのだ。
 それは僕の近い知り合いが何人も癌に罹ったことだ。
 ラジオの仕事をしていて番組で健康に関する企画もあり、いろいろなお医者さんに会うことも多い。癌もよく挙がるトークテーマだ。
 ある癌の専門家が言ったことで僕の記憶に強く残っているのは「まだ癌を治すことはできない。できるのは癌になってから亡くなるまでの時間をどれだけ長くするかということだけだ」という言葉だ。(正確ではないと思うが大体こんな表現だったと思う)
 僕のまわりで癌になった人たちはまだ若い。40代だったり50代だったり。
 少なくとも彼らは癌になったことで否応なしに「死」と向き合うことになる。
 ”◎年間で生存している確率は◎◎%”なんてことを言われるのだ。他人事ではない。
 僕は50代に入り、健康には気をつけているほうだと思う。もしもというときに体力が無ければ話にならないと思い、走ったりジム行ったりしている日々。
 でもいくら鍛えても病気にはなる。特に癌はかつて間寛平さんがあれほどまでストイックに身体を鍛えて走っていても癌になったことにある種の感慨を持ったものだ。
 どんなに頑張っても人間の運命、寿命は静かに残酷に突然やってくる。そんなことがここ2ヶ月のあいだに身近な人間に起こりいろいろ考えてしまったのだ。
 考えたからといって結論はでない。
 身近な人間が癌になると「なぜ、この人が?」と思うけれど、理由なんか見つけることはできないのだ。人間は理由があると何だか納得できるし、納得するために理由を探す。
 でも病気についてはどうしても理由を見つけることなどできないことを思い知った。
 北野武さんの「新しい道徳」を読んだ。「昔の人の性根が据わっていたのは、少なくとも今の俺たちよりは、自分の死について具体的に考えていたからだ」という一節があった。
 近年テレビでは死体を映さない。もちろん他のメディアも同じだ。なのにドラマの中では死んだ人がたくさん映る。フィクションの死しかメディアで見ることはできない。
 でも死は必ず誰にでもやってくる。そんなことを考えて、北野武さんの言葉のごとく「性根を据えて」生きていこうと思い直すのだった。
 僕の祖父は技術者だった。
 中島飛行機で飛行機の整備に関わっていた。
 戦時中は百式司禎(100式司令部偵察機)という偵察機に乗る任務についており、偵察飛行の体験を僕によく語ってくれたものだ。
 戦後随分長い間「百式司禎会」なる戦時中の百式司禎乗りたちの同窓会が祖父宅で催されていた。そのチームのリーダーであったらしい祖父を囲み集まるかつての盟友たちの会は子供心にもとても楽しそうに見えたものだ。
 毎年百式司禎のイラストが入った掛け軸式のカレンダーも製作され、いつも祖父宅にぶら下がっていた。
 僕は小学校に上がるか上がらないかの頃、祖父宅で催されるこの会に孫として紛れ込み、普段は飲むと怒られるようなジュースや料理にありついていた。
 この会はとても楽しげであったが子供心にその裏にある「哀しみ」を感じ取る会でもあった。
 それは亡くなった戦友たちの話であったり、当時の戦況のことであったり、東京大空襲のことであったり。
 百式偵察機は名前の通り偵察機である。戦闘機ではない。祖父は幸か不幸かこの百式司禎に乗っていたが故に人を殺したことがない。そのことをよく僕に語っていた。
 人を殺さずに戦争を終えたことがよかったのか、悪かったのか、そのことについて祖父が語ることはなかった。そう、その百式司禎会に集まった人たちに共通の感覚は、偵察任務についていた彼らの誇り、その一方で戦闘機乗りに対する負い目であり尊敬であり、羨望の気持ちでもあったように思う。
 調べると太平洋戦争の後半にはこの百式司禎にも武装指令が出てB29を迎え撃つ戦闘機としての機能を持たされるようになったようだ。でも祖父たちが戦闘に出て行く機会は最後までなかった。
 祖父は戦争について多くはコメントしなかった。戦争がいいとか悪いとかにも全く触れなかったように記憶している。きっといろいろな思いを胸に秘め、簡単に口にすることなどできなかったのだろう。

 祖父は27年前に亡くなった。あの頃祖父の元に集まっていた元部下の皆さんはどれくらいご存命であるだろうか。
 僕が子供のときに感じることができた彼らの複雑な感情と、通奏低音のように流れ続けるそこはかとない哀しみは時の経過とともに失われていく。
 そんなことをふと昨日の終戦の日に思い出したのだった。